ガラスが割れた
坂間 新
花瓶
ガラスが割れた。
パリンという繊細な乾いた音がした。
振り返って見てみると、花瓶が割れていた。
母が私の門出を祝ってくれた花瓶だ。バレーボールくらいのサイズの丸っこいガラス製の花瓶だ。花は生けていない。花を活けていた時期もあったが、しっくりこなくて友達にあげた。新しい花を生けるつもりもなかった。そんな花瓶を棚の上に放置していた。その花瓶が落ちて割れた。私は花瓶の命の欠片を見つめていた。
家を出て上京し、1Kのアパートに住んでいる。東京での生活で、最初のうちは見るものすべてが輝いていて、すべてに胸を躍らせていた。けれどそのうちその輝きがしんどくなってきて、仕事と週に一回の買い出し以外の必要のない外出がなくなった。
「今年も帰ってこないの?お父さんも心配してるわよ?」
「仕事が忙しいから今年も無理。ごめん」
母から毎年くる帰省を促すメールに、毎年仕事を理由に断る。別に仕事は忙しくはないが、このアパートから出ることが億劫に感じてしまい嘘をついて断る。
こんな生活がもう三年も続いていた。
花瓶が割れたのは、家ですることもなくボーっと動画を見ていたときのことだった。掃除するかと思い、指を切らないように破片を丁寧に集める。その時、頬をくすぐるものがあり、目が熱くなった。破片を持っていない方の手の甲で頬を拭うと濡れていた。知らぬ間に涙を流していた。別に指を切ったわけではない。それでも涙は止まらない。破片を拾うと、雫が落ちる。どうやら自分は限界だったらしい。それを忘れてずっと放置したままだった花瓶が身を挺して教えてくれた。そう考えると、花瓶に対する感謝の念と罪悪感でより涙が出た。そのまましばらく破片を拾いながら泣いていた。
掃除をしてひとしきり泣いた後、母に電話を掛けた。電話の呼び出し音が鳴る。その音を聞くのも久しぶりで、その事実にただ驚愕する。こんなこともする余裕が自分にはなかったのだなと思う。
「珍しいわね、あんたから電話してくるなんて。どうしたの?」
電話に出た母の声には、驚きと不安が混じっている。どうやら、電話を掛けると何かが起こったと思わせるぐらい心配させていたらしい。それをまた申し訳なく思う。
「今度の休みそっち帰っていい?」
恐る恐る尋ねてみる。
「何を言ってるの?ここはあなたの家よ。いつでも帰ってきなさい。あなたの好きなから揚げを作って待ってるわ。」
母のその返事にどうしようもない感謝と安堵を覚える。
「ありがとう。いままでごめんね」
やっと言えた。
母との電話の後、私は寝間着から私服に着替えた。買わなければならないものがある。同じものは売っているだろうか。今度は花を生けよう。そう思いながら私はアパートのドアを開けた。
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