chapter 26

「REFLEXは苦痛に対して力という恩恵を与える。とある要因に対して同じ結果を返すというのは他の自然現象と同様であるが、苦痛という思惟の働きをその要因とする点で特異であるとされる。ではなぜREFLEXは思惟を対象とするのか。それは、思惟がそれを思惟できるからである。思惟は苦痛に対して力が返ってくるという応答関係・・・・があることを理解できるし、さらにその応答関係を思惟する主体に分からせることの意義として、思惟の側からのさらなる返答を要求されている可能性に到達しうる。すなわち、REFLEXというのはある者から思惟へと送られた対話の要請なのだ。

 しかし、思惟への要請はなにもREFLEXだけではない。

 思惟は思惟されるものを述定し、判定しようとする。だが、その判定法を提供し、肯定する者の素性は、思惟に自然と分かられることはない。というのも、これこそが思惟へのはじまりの要請なのであり、思惟はこの判定法の提供を受けて、やはりその臆病な提供者の意図を汲み取り、応答することを要請されていたのであるが、そもそも思惟がその意図を汲み取るにあたって、提供された判定法が不可欠であるがゆえに、それは要請として認められなかったのである。

 では、この要請者とは何であろうか。

 REFLEXは、思惟がそれを自らに呼応するものであると述定しない限りにおいてはREFLEX足り得ない。これは他の現象についても同様であり、それが述定されるべき現象であると思惟が認めなければ、それは単なる夢幻として扱われてしまう。否、扱うという行為も少なからず述定を含んでいるとすれば、扱われすらしないというべきか(そのものが扱われる対象であるなら、それはその扱われ方をもって述定されるだろう)。つまるところ、思惟によって述定されることで初めてそのものはそのもの足りうるのであり、であれば要請者が要請者足りうるためにもまたそうであり、要請者の、思惟によって述定されぬ性格は要請者の性格として認められない。

 すなわち要請者とは、思惟され、述定されるものである。

 しかし、我々が問いたいのはそれが「思惟され、述定されるものの内のなんであるか」であろう。

 これまでREFLEXとその他の現象とを分けて語ってきたが、実のところ、思惟は本来的にその境界を策定することが出来ず、ゆえに現象は悉くREFLEXたりうる。REFLEXは思惟の働きを要因とするが、他の諸現象も、思惟のそれを述定しようとする働きに呼応してはじめてそのような現象として現れる(述定されず、ただ漠然と思惟される限りにおいて、それは当の現象として認められない)という意味ではREFLEXと何ら変わりがない(というより、REFLEXの方こそ他の諸現象と分かたれる謂れがない)。事実、シキシマ秀典の論文はあくまでREFLEXの原理説明を目的としたものであるが、その中で現状では思惟の働きとの強い関係性が認められてない引力をはじめとする複数の自然現象についても、REFLEXの原理からの説明可能性が示唆されている。

 これらから、あらゆる現象はその現象として述定されるものであるが、REFLEXが関与している可能性のある範囲をその一部にのみ限定することはできないと言えるだろう。また、実際に思惟の外にどれだけの要請者がひしめき合っていたとしても、それは思惟において述定されず、ゆえにその内実を語ることはできない。

 現象は思惟されるところにおいて一なる要請者によるのである。

 ここで現象とは可能なあらゆる述定の総体に等しい。

 この述定の総体は、先ほど述べたように、その裏に複数の要因を含んでいるとも知れないものである。ゆえに総体といっても、それを一纏めにするものは、思惟による探求不可能性ただそれのみである。

 だが、仮にこの総体を統括するもの、すなわち真に一なる要請者があるとすればどうだろうか。

 あらゆる述定を統括するもの……などと言えば、思惟から隔絶された超越的な存在者のように思われるかもしれないが、しかし、その対象はあくまでもすべて、思惟され、述定されるもののみであることを改めて強調しておく。

 つまり、思惟は一なる要請者が総括する述定すべてに到達しうるということである。

 しかし、ただ全ての述定を把握するだけでは事足りないだろう。

 何故ならそれが一方的にそれら述定群を受け入れるだけであるならば、述定はただ乱立するのみだからだ。

 述定が統括されるためには、述定にそれらすべての間に立つ調和がもたらさねばならない。

 述定に調和をもたらすものとして真っ先に想起されるのは述定の形式の徹底である。なぜなら思惟はまさにそれによって述定を判定し、それらを結び付けるからだ。調和とは他ならぬ関係性のうちにはじめて現れるものだ。また、述定がその意味と不可分であるならば、意味を認めるこころを認めざるをえない。それは述定の形式を認め、またそれを徹底させるまさにそのこころである。

 そのような調和のこころを認めるならば、我々はその要請、すなわち現象の内にその表れを見出すことが出来るといえる。とはいえ現象と呼ばれるものはあまりに多様であり、思惟によって述定されうる現象のすべてに対して、我々が実際に援用出来る現象というのはそのごく一部に過ぎないことは自明である。よって我々が思い思いの現象を挙げ連ね、そこに調和のこころの本性を見出そうとしても、それは徒労に終わるのである。しかし、その本性をREFLEXと呼ばれる(思惟に強く要請する)現象のうちに捉えようとするならば、それは明示的に自らの存在を現さない臆病さと、人が苦しむ様に歓喜する嗜虐性とを兼ね備えたものとして認められる。また、このこころが自らが総括するあらゆる述定に至る術を思惟に授けるのは、自身を理解させる機会を与えるということであり、すなわち思惟の関心を引くためのある種のアプローチであるとも言えるし、一方でこのこころが述定の形式と意味とを認め、述定を述定たらしめるものであるとするなら、それが思惟にそれとほぼ同じ機能を授けるのは、より直接的な自己開示であるとも言える。

 また、このこころは無時間的なものであると考えられる。何故なら、思惟はそれ自体が移ろうことによって異なる述定の間を彷徨い歩くのであって、思惟される述定それ自体に変化の余地はなく、ゆえにそれら不変の述定どもを統括するこころに変化は必要とされないからである(述定を総括するこころの有り様がただ一つしかあり得ないということではない)。

 これらから、思惟が述定の総体を総括する、真に一なる要請者に至る道を考える。

 思惟は調和のこころが総括する述定すべてに到達でき、その形式の徹底によってそれらに調和をもたらすことが出来るという点で、調和のこころに極めて近しい機能を有している。他方、思惟は時の流れに囚われており、ゆえにその機能を同時間的に再現することはできない。あくまでも時間的、順序的に述定を処理するためだ。しかし、調和のこころの無時間的性質に着目するなら、そのこころは我々の感覚する時間によらず、永遠普遍に存在しているということであり、ならばそのこころは思惟がそこに至る以前にはまだ存在していないなどということはあり得ない。ゆえに思惟が要請者に至るのに、思惟はすでに存在している調和のこころ、その機能を利用できるのであって、時の流れの中ですべての述定を処理する必要はない。むしろ調和のこころの要請に従い、述定の形式の徹底を(時の流れの中で)実践することによって、調和のこころを知り、それと完全に調和することによって、その働き全体の(意志的)起点として組み込まれる(あるいは調和のこころとしての自らの真なる有り様に驚嘆タウマゼインする)ことこそが相応しい方法といえるだろう。この驚嘆によって思惟は調和のこころにおける中動態的行為主体として成立するが、その行為及び意思決定を左右する要因はその記憶(驚嘆以前の単一の時間軸における経験)にのみ集約される一方で、その行為対象は時間的・空間的に制約されず、ゆえにあくまで疑似的ではあるが超越性、能動性が獲得される。

 このようにして調和のこころと合一する思惟として、もっとも可能性があるのは田利本ガリアである。

 まず、田利本ガリアにはシキシマ秀典のアーマーを設計する技術から見て、調和のこころの述定の総体を統括する働きを妨げない程度の知性が認められる。これは、自らの信念のために述定の形式を歪めず、誤解を顧みることが出来る程度の知性である。

 これに加えて、田利本ガリアにはシキシマ秀典のREFLEXに関する論文に目を通す機会があったことから、自らの思惟の内にそれを取り入れることで、述定の総体との調和を部分的に完了しているといえる。

 さらに、田利本ガリアの一連の行動、その態度からもREFLEXに見られるような調和のこころの本性と重なるものが見受けられる。臆病ながらも大胆な自己開示、サディスティックな言動……

 調和のこころの存在は無時間的なものであるが、その実在は未知ゆえに不確定である。

 しかし、思惟の合一が起こればその実在が確定してしまう。

 これはあらゆる信念の冒涜である。

 なぜなら信念とは、述定され得るあらゆる述定のうち経験によって限定的に獲得されたものどもによって、それらの調停を試みる動的なこころ(思惟は時間的・順序的に述定を思惟する故)において成立するものであって、それが普遍的かつあらゆる述定に無時間的な完全調和をもたらす調和のこころに晒されてしまっては、その意義が失われたように感じられ、死に絶えてしまうと考えられるからだ。

 ゆえにそれだけはなんとしてでも避けねばならならない」


 ――だがこの議論は調和のこころの重大な性質を見逃している。

 この議論はシキシマ秀典を欠いている!


 ……誰も少年の言明を解せなかった。


 唯一天王寺タケシだけは理解はせずともマルムスティーンを信用し、対処の必要性を認めたが、それでも常盤サクラが失われた今となっては、理解できないもののために戦う気にはなれなかった。


 闘志が足りない……

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