第三章 背中を押す、手首を掴む。

第1話 新宿区、泉堂ビル②

 心機一転、泉堂せんどうビルでの稽古が始まった。鹿野素直は正式に演出助手として不田房・大嶺に続く3人目の演出班メンバーとなり、宍戸クサリもまた舞台監督補佐としてクレジットに名を連ねる流れとなった。


 幾つかの変化が訪れた。


 まず、灘波祥一朗が稽古場に顔を出さなくなった。イナンナのスタジオで稽古をしていた頃は何の意味もなく演出班の中に混ざり、椅子(皆が使っているパイプ椅子ではなく、木製の立派な椅子をスタジオに持ち込んでいた)にふんぞり返っていたくせに、泉堂ビルの稽古場には一度顔を出したきり、二度とやって来る気配がなかった。


「泉堂さんが怖いんですかね?」

「かもな。あの手のタイプは権威に弱い」

「泉堂さんって権威なんですか?」

「鹿野おまえ……まあいい。泉堂一郎に猫可愛がりされてる演出助手なんて、日本中探しても自分だけだってことは自覚しとけ」


 呆れ声の宍戸を見上げながら「はあい」と鹿野は気のない返事をした。泉堂一郎。泉堂が、泉堂舞台照明が、小劇場界の中ではかなり知られた存在だということぐらいは、鹿野も理解している。でも、だが、泉堂一郎は泉堂一郎だ。鹿野が大学を卒業した際「お祝い」と言ってiPodを買ってくれた──10年前の話だ──親戚のおじさんみたいな存在なのだ。

 灘波祥一朗が泉堂一郎を怖がっていようがいまいが、鹿野には何の関係はない。


 それよりも。

 少し厄介なことが起きていた。


 大嶺おおみねまいが、稽古場に現れなくなったのだ。


「馘にしたのか?」


 宍戸の問いに、不田房は首を横に振る。


「俺は何もしてないし、言ってないよ。でも」


 と不田房はスマートフォンを突き出して、


「アプリの『花々』関係グループからも抜けちゃってるんだよね、彼女」


 『退』という文字を、鹿野も数日前に目にしていた。大嶺は追い出されたわけではなく、自分から姿を消してしまった。


「エグゼクティブじじいから何か連絡は?」

「ない。それに、俺は別に困ってない」


 宍戸、不田房、それに鹿野は、声を顰めて喋っていない。稽古場の床にヨガマットを敷いてきさらぎ優華ゆうかがストレッチをしており、パイプ椅子に腰掛けて窪田くぼた広紀ひろきが台本のチェックをしている。更には「おはよ」と声をかけながら階段を降りてきた和水なごみ芹香せりかが「困ってない」という不田房の断言に大きく目を見開いている。


「何の、話?」

「あ、おはようございます和水さん。体調大丈夫ですか?」

「うん、元気。あと、ここの稽古場も好き。泉堂一郎が稽古場持ってるなんて知らなかったな」


 楽しげに応じる和水の髪色は、明るい紅茶色から漆黒に変化している。ゲストとして出演していたドラマの現場が終わり、いよいよ『花々の興亡』に本腰を入れようとしている様子だ。


「泉堂さん上にいました?」


 尋ねる不田房に和水は首を縦に振り、


「でももう出かけるからって。稽古終わったら戸締まりだけよろしくって、これ」

「わあ、すみません。泉堂さんたらほんとに〜」


 泉堂はどうやら、外出のタイミングで稽古場にやって来た和水に鍵を預けて出かけてしまったらしい。彼にかかれば人気俳優和水芹香も、姪や娘のような存在ということか。

 不田房の代わりに、鹿野が泉堂ビルの鍵を受け取った。「ところで」と定位置である長テーブルに荷物を置きながら、和水が尋ねた。


「困ってない、って何の話?」

「ああ」


 不田房は首を竦め、


「聞こえてました?」

「大声だったから。上にまで響いてたよ」

「あら〜」


 悪びれる様子もなく、不田房はふわふわと笑う。


「いやぁ。エグゼクティブおじさんが稽古場に来なくなったと思ったら、演出助手もいなくなっちゃった〜って話をしてたんですけど」

「大嶺舞のこと?」


 眉間に小さく皺を寄せた和水が、丸めて壁に立てかけてあったヨガマットを手に取る。


「私も気になってた。スマホの方も……なんでグループ抜けたんだろ」

「それは。そりゃあ」


 と、不田房が鹿野に目配せを寄越し、鹿野は黙って首を横に振る。


「私が参加したせい、みたいな言い方されても困ります」

「せい、なんて思ってないよ。おかげだよ! 鹿野がいないと俺は仕事できません!!」

「どっちにしろ」


 大嶺舞は自分の意思で、或いは灘波祥一朗の意思で、ひとつの現場から姿を消した。それが良いことなのか悪いことなのか、鹿野には分からない。同時に、仕事をしない演出助手に悩まされていた不田房の機嫌が露骨に良くなっているのは──仕方がないことだと、思ってしまう。


「おはようございます」


 声が聞こえた。檀野だんの創子つくるこだ。地下稽古場に降りる階段の途中で頭を打たないよう長身を屈めながら、ゆっくりと登場する。


「檀野さん。おはようございます」

「おはよう。……あれ?」


 栗色の髪をしゃらりと揺らした檀野と和水は、この稽古場に移動してからは喧嘩をしていない。和解した雰囲気でもないのだが、揉め事がないのは良いことだ。ラウンド型のサングラスをケースに片付けながら、檀野が訝しげな声を上げた。


葉月はづきは?」

野上のがみさんですか? ……そういえば遅いですね」


 壁の時計を見上げて不田房が呟く。今日の稽古は15時スタート。今は、14時50分。檀野の重役出勤は今に始まったことではないので誰も気にしていないが、彼女の後輩である野上がこれほどまでに遅れたことは、イナンナのスタジオ時代を含めても一度もない。


「連絡、は……」


 不田房の呟きを受けて、鹿野は自身のスマートフォンの画面を指で操作する。野上からは、少なくとも稽古用のグループには何のメッセージも送られてきていない。


「檀野さんに個人的に何かメッセージとか」

「ない。なんだろ、電車遅延とかかな」


 不田房の問いを一蹴した檀野が、稽古場の一角に作られた更衣室に入っていく。厚手のカーテンで区切られただけの簡易的なものだが、『花々の興亡』に参加する女性俳優は全員この更衣室を使っている。窪田広紀だけは不田房や鹿野と同じぐらい早い時間に稽古場に入って、その場で適当に着替えている。


 15時を過ぎても、野上のがみ葉月はづきは稽古場に現れなかった。


「……しゃあなし。始めますか」


 時間は有限だ。特に、檀野創子と和水芹香が揃う稽古時間は、本当に貴重なものだ。野上を待たない、という決断を下した不田房は決して冷たくない。

 ──しかし。


「うわ、今日ここか〜」

「うちは別に後日でもええんですけど」

「檀野さんと和水さんにも見てもらいながら詰めたかったんだよな〜」

「あ〜」


 不田房と優華が台本を挟んで呻くのを眺めながら、鹿野は待機中の俳優たちと宍戸クサリにコーヒーを配る。窪田、和水はともかくとして、檀野創子までマイマグカップを稽古場に持ち込んできたのには驚いた。泉堂ビルの1階、おもに受付として機能している空間の一角には小さなキッチンがあり、地下稽古場に出入りするキャストやスタッフが自身のマグカップを置いておくという習慣があった。稽古場を利用する面々は泉堂一郎個人の所有物であるコーヒーメーカー(とんでもなく高値)を自由に使って良いとされており、ただし、カップだけは自前のものを準備するように、というルールを──檀野が受け入れるとは。


「あんた、コーヒー淹れるの慣れてるね」

「10年淹れてますからね」


 檀野と鹿野は、短い軽口を交わせるような距離感になりつつあった。


「鹿野ぉ!」

「うわ、はいはい」


 コーヒーを配り終えた瞬間、不田房に呼び付けられる。慌てて演出班のテーブルに駆け戻ると、


「今日さぁ、やりたかったんだけど」


 レイプを含む残酷な場面のことだ。


 和水芹香扮するアパッシュの女性リーダー・ジェルメーヌは、檀野創子扮する自警団の女性幹部・レネに弟を殺害され、復讐の機会を狙っていた。そんな中、窪田広紀扮する自警団のリーダー・ヴァンサンにその美貌を見染められ、彼の愛人になることを条件に拘束から解放される。その後ジェルメーヌは、レネへの復讐のために鬼優華扮する自身の姪・アガトに、野上葉月扮するレネの姪・ゾエの婚約者の殺害と、ゾエ本人への暴行を命じる──


 殺害されるジェルメーヌの弟、及びゾエの婚約者である男性は、どちらも舞台上には登場しない。「──ということがあった」と語られるだけだ。


「野上さんとは結局いっぺんも打ち合わせできてなくて……」


 優華が困り果てたように呟く。腕組みをした格好でしばらく唸っていた不田房が、


「鹿野!」

「はい」

「棒立ちになってるだけでいいから、ゾエの代打やって!」

「……はあい」


 そう来ると思った。台本を手にした鹿野は、背中を丸めて稽古場に立つ。


 鹿野素直は、決定的に演技ができない。登場人物全員の台詞の暗記から、暗転・明転のタイミング、舞台上にある様々な小道具の配置転換、更には音響のイン/アウトに至るまで劇中で起きるほとんどの事象を記憶することができるし、実際に照明卓、音響卓の操作も可能なのだが、演技だけは、絶対にできない。弱みといえば弱みであった。


「素直、大丈夫? 交代しようか?」


 和水芹香が声をかけてくれるが、


「馬鹿じゃないの。きみが出てったら稽古にも何もなりゃしないでしょ」

「何その言い方!」

「まあまあまあまあ」


 檀野が鼻で笑い、和水が牙を剥き、そこに窪田が割って入る。それを横目で見ながら、鹿野と優華は向かい合った。


「プラン色々考えてみたんやけど、試してみていいですか?」

「どうぞ。鹿野、鹿野は立ってるだけでいいからね」

「っす……」


 応じた次の瞬間、流れるように背負い投げをされていた。


「──おお、綺麗な一本」


 宍戸クサリが心底感心した様子で拍手をしている。


「ゆ、優華さん……これは……マジのバイオレンス……」

「やっぱあかんかな!? ええ、難しいわ、バイオレンス……」


 宍戸を除いた全員が呆気に取られる稽古場で(今日は長くなるぞ)と鹿野は内心覚悟を決めていた。

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