第一章 毎日通うにはあまりにも。
第1話 渋谷区、稽古場①
──しかし、今回は。
「なんという……お洒落ビル……」
「ビル自体がイナンナの持ち物なんだって。俺らの普段の感覚だと、色々良く分からなくなってくるよね」
制作会見の数日後。不田房とともに渋谷区にあるスタジオを訪れた鹿野は、目をまん丸にして建物を見上げた。新築ではなさそうだが、築浅の背の高いビル。エレベーター横に設置してあるフロア案内を確認したところ各階にはそれぞれ別の会社が入っているようだが、
「いっぱい事務所入ってるけど、これ全部イナンナの子会社なんだって〜」
「なん……なんですかそれは……」
「いや俺もびっくりよ。芸能界って謎が多いよね」
今回の公演、『花々の興亡』を主催する株式会社イナンナは、業界ではそれなりに名の知れた存在だ。所属している女性俳優の顔ぶれが豪華で、話題のドラマや映画──映像作品には必ずといって良いほどイナンナ所属の女性俳優が重要な役柄で出演している。
「けど……舞台関係ではあんまり名前聞かないですよね?」
「そうなのよ。イナンナ的には、今回の『花々の興亡』を成功させて、うちの俳優は舞台もやれまっせ、ってプロモーションする意図もあるらしくて」
「なるほど。でもじゃあ尚更、なぜ不田房さんのような者を抜擢して……?」
「鹿野、最近ちょっと俺に当たり厳しくない? 反抗期なの?」
「スタジオは4階ですか。コーヒーメーカー置く場所ありますかねぇ」
「ちょっとぉ」
大きなバックパックを背負った不田房と、トートバッグを両肩に提げた鹿野は揃ってエレベーターに乗り込む。小さな箱の背面はガラス張りになっており、会場となるシアター・ルチアが遠くに見えた。シアター・ルチアも渋谷区内に建つ劇場なのである。
「おはようございます! 不田房です!」
「失礼します、鹿野です。よろしくお願いします」
4階に到着し、エレベーターホールから徒歩3歩の場所にある稽古場の扉を開ける。グレーのリノリウムの床に鏡張りの壁を有するスタジオには、既に人の姿があった。
──歓迎されてなさがすごい。
コーヒーメーカーが入った鞄を抱えた鹿野にも、一瞬で理解できた。
「……ああ、不田房くん。皆さんお待ちかねだよ」
若い女性と言葉を交わしていた50代ぐらいの男性が、明るい声で話しかけてくる。ちらりと不田房の方を見やると、彼は珍しく顔を引き攣らせて、
「遅くなってしまってすみません。ちょっと迷子になっちゃって……」
大嘘だ。最寄駅からこのビルまでは、ほぼ一本道である。
「まあまあ、キャストでもまだ来てない子がいるからね。気にしない。さ、入って入って。演出家がいなくちゃ話が始まらないからねぇ」
50代男性の視界に、鹿野の姿は入っていないようだった。演出班、と張り紙がされた長机の方に移動すると、三つ置かれたパイプ椅子のうちのひとつには既に女性が座っていた。50代男性と言葉を交わしていた女性だ。
「不田房先生?」
年の頃は、鹿野より少し若いぐらいだろうか。腕足がすらりと長い長身の女性は、長い黒髪を揺らして嫣然と微笑んだ。
「
「あ、はい、どうも」
歯切れ悪く応じる不田房が手探りをするかのように手を彷徨わせ、鹿野の二の腕を掴んだ。
「
「そうですけど?」
だからどうした、とでも言いたげな表情の大嶺は鹿野よりもずっと背が高く、スタイルが良い。演出班ではなく出演者側の人間なのではないかと疑いたくなるほどに顔立ちも華やかだ。
「イナンナは……いつもは、映像を中心に作品を制作されていると聞いていますし、俺もそう認識しています。ですので、舞台演出に慣れている人間をひとり、連れてきました」
と、不田房に腕を引かれる。
「こちら、俺とは長い仲の鹿野素直です。どうか仲良く」
「……鹿野、さん?」
大嶺のぽってりと赤いくちびるが、静かに弧を描く。
「鹿野です。よろしくお願いします」
「うーん。よろしくはいいけど、あんまり出しゃばらないでね? 今回は私が、メインの演出助手だから」
まだ何も起きていないのに、既にめちゃくちゃ嫌われている。鹿野は稽古場に夢を見ていない。夢は舞台の上でだけ花咲けば良いので、舞台裏の人間関係がどれほど無茶苦茶でも観客には関係ない。最終的に良い公演が打てればそれで満足なので、大嶺に嫌われているという現実を受け入れるというのは然程難しいことではなかった。
「不田房くん、本当に助手連れて来ちゃったの」
「はあ」
50代の男が声をかけてくる──この男が、おそらく
「うちの大嶺は優秀だよ? 助手はひとりいればじゅうぶんじゃない?」
「あーでも……俺が、鹿野がいないと無理なので……」
「え? ああ、付き合ってんの?」
「付き合ってはないですがね」
大嶺と灘波が楽しげに不田房を詰めるのを無視し、鹿野はきょろきょろとスタジオ内を見回す。右奥には給湯室、左奥にはロッカーがあるようだ。持参したコーヒーメーカーは一旦給湯室にでも設置すれば良いか。普段、『スモーカーズ』の稽古の際、鹿野はよく不田房に頼まれてコーヒーを淹れる。今回、他のスタッフやキャストがコーヒーを必要としなくても、不田房だけは飲むだろう。
「なあ、鹿野さん!」
「わっ」
声がした。驚いて振り返ると、ヨガマットの上でストレッチをする女が鹿野にVサインを向けていた。
「あ、
「久しぶり〜。今回なんや知らん子ぉが演出助手やって言うから、鹿野さん参加せえへんのかなって心配しとってん。来てくれて嬉しいわぁ」
ネコ科の獣を思わせる端正な顔立ち。黒いヨガウェアに身を包み、体を柔らかく曲げながら微笑む年下の女性──
鬼優華は所謂二世俳優で、父親は
「それ、コーヒーメーカー? 鹿野さんのコーヒー飲めるん?」
「飲めますよ。良かったぁ、優華さんがいて。なんか今回、私の仕事なさそうな雰囲気で」
「あ〜」
と、ヨガマットにあぐらをかいた優華がちょいちょいと鹿野を手招く。
「アレやねぇ、うちから見ても今回の現場は荒れそうな気配ですよ」
「え」
「あのおっさんおるでしょ、今不田房さんと喋っとる」
灘波のことだ。
「エグゼクティブなんちゃらの」
「そうそれ。今回、そのエグゼクティブおっさん肝煎りの俳優で揃えとるらしくて」
優華の囁き声に、鹿野は思わず眉根を寄せる。
「出演者を選ぶために、オーディションを行ったのでは……?」
「一応は。せやけどほんまにオーディションで、つまり演出家の不田房さんの判断で出演が決まったん、うちだけと
「えええ」
碌でもないことになりそうだ、という予感に絡め取られながら不田房の方に視線を向ける。不田房は今も、灘波と大嶺にちくちくと詰められている。
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