第2話 新宿区、中華料理店

 不田房からのメッセージをまとめると「とにかくいますぐ会いたい」ということだったので、待ち合わせ場所を決めて実家を出た。「やっぱり仕事じゃろ?」と尋ねる父、迷宮に「分からん」と返し、「日付変わる前には戻るから」と言い残してバスに飛び乗った。


 不田房とは、新宿駅で待ち合わせをした。改装工事を繰り返し、現在は文字通りのダンジョンと化している新宿駅。単にという指定では絶対に出会えないので、西口の地下にある交番前を合流場所とした。


「……あれっ?」

「おう、来たか」


 鹿野かの素直すなおよりも先に、交番前に立っている男がいた。知り合いだ。


宍戸ししどさんも呼び出されたんですか?」

「まあな」


 片手でスマートフォンの画面を触りながら応じる男、宍戸ししどクサリ。フリーの舞台監督だ。鹿野と、それに不田房とも何度も一緒に仕事をしたことがある。180センチ近い長身にがっしりとした体躯、淡いグリーンのノーカラーシャツにデニム姿の宍戸を目にした鹿野は、


「寒くないんですか?」

「寒いよ」


 と、宍戸は小脇に抱えたレザージャケットを示す。


「電車ん中暑くて」

「帰宅ラッシュの時間ですもんねえ」

「ところで鹿野、見たか?」


 話題が不意に変わる。というより、こっちの方が本題だ。


「制作会見……『花々の興亡』でしたっけ」

「不田房のやつ緊張してたな」

「あんな不田房さん初めて見ましたよ」

「なんだ、鹿野。不田房に一緒に来てくれって頼まれなかったのか?」

「はい?」


 急に名指しされ、鹿野はセルフレームの眼鏡の奥の瞳を瞬いた。何の話だ、急に。


「でもだって、今回はイナンナ専属の演助がおるんじゃ」

「ええ……? なんだ、そういうことになってるのか?」

「そういうこと、とは……?」


 認識が完全にすれ違っている。鹿野が宍戸を見上げ、宍戸が鹿野を見下ろし、双方が途方に暮れ始めた頃、その男は現れた。

 ヨレたスーツのポケットにネクタイを突っ込み、ふらふらした足取りで西口の交番に近付いてくる──


「不田房さん!」

「不田房」

「鹿野! 宍戸さん! 飲もう!!」


 すっかり疲れ果てた顔で、不田房は絞り出すように声を上げた。


 駅からほど近い場所にある中華料理店に移動した。宍戸が予約を取ってくれていて、三人はすぐに煙草のけむりで煤けたカーテンで区切られた半個室に通された。丸テーブルの上にはタブレットがあり、店員を呼ばずに料理や飲み物を注文できるようになっていた。宍戸が慣れた手付きでタブレットを引き寄せ、ビール、烏龍茶、ジンジャーエール、それに揚げ物やサラダを幾つか見繕って注文ボタンを押した。


「宍戸さん〜、俺も俺もビール飲みた〜い……」

「今日のあの会見についてまだ説明を受けてない。酒は喋り終わってからだ」


 テーブルに突っ伏する不田房の頭の上を厨房からやってきた店員の腕が通過して、テーブルの上には飲み物と前菜が並んだ。


「じゃ、一応乾杯」

「お疲れ様でーす」

「マジでお疲れ! 俺!!」


 軽くグラスを合わせ、それぞれ飲み物を口にする。烏龍茶を一気飲みした不田房は、


「酒をくれ!!」

「イナンナ主催『花々の興亡』。不田房さん、出世したんですねぇ、私の知らないうちに」


 とくちびるを尖らせる鹿野の顔を見遣り、


「ちゃんと言ったもん……」

「はあ? いつです?」

「去年! 新年会の時! 忘れたの鹿野!?」


 声を張り上げる不田房から目を逸らした鹿野は、「知ってます?」と宍戸に尋ねる。すると意外にも宍戸はあっさりと首を縦に振り、


「そんな話はあったな」

「え! じゃあ忘れてたのは私ってことですか?」

「そうだよぉ!」


 不満げに喚く不田房を片手で制した宍戸は、


「とはいえ、二年近くも前に一度だけ報告した内容を一語一句きちんと記憶するなんて、おまえだって無理だろ不田房。今日の会見に参加するならするで、前日にでも鹿野にもう一度連絡した方がいいとは考えなかったのか?」

「そんな……鹿野が俺の言ったことを忘れるなんて……!?」

「忘れますよそれは普通に。私にだって私の生活があって、四六時中不田房さんのこと考えてるわけじゃないんですから」

「考えてぇ! 俺のこと最優先してえ!!」


 面倒臭い。不田房栄治という男、年々面倒臭さが増していく。


 鹿野素直と不田房栄治が知り合ったのは、今から10年ほど前のことだ。当時鹿野は大学生で、不田房は招聘教員として当該大学に招かれていた。不田房は『演劇講座』の講師になった。文字通り演劇の歴史を学び、現代の舞台演劇のシステムを知り、実際にキャストとスタッフとして公演を行う。大学の文学部内でそれなりの力を持つ人間の思い付きで突発的に作られた講座だった。まだ駆け出しの演出家でしかなかった不田房の父親と思い付きを実行に移せる側の人間が知り合いで、不田房は安定した賃金に釣られて講師の仕事を引き受けた。いち学生に過ぎなかった学生は不田房が講師として仕事を始めた年に演劇講座を受講し、その後紆余曲折を経て不田房栄治の個人的な相棒、演出助手として仕事をするようになった。


「いや無理ですよ、だって新刊が……」

「新刊?」

「えぁ、その、最近好きな作家のですね……新刊が発売されてて……読んでましてぇ……」


 だから、不田房のことを四六時中考えていられるはずがない。そういった意図の鹿野の発言を真正面から受け止めた不田房は、


「俺! 鹿野の! 好きな作家さんの新刊以下なの!?」

「ええ……それは……はい」

「はいなの!?」

「その辺にしとけ、ふたりとも。鹿野、豚足食べるか」


 終わりの見えないやり取りに、宍戸が割って入る。「食べます」と頷いた鹿野の手にタブレットを渡した宍戸は、


「とにかく、鹿野だけじゃなくて俺だって新年会で聞いた話なんて薄っすらとしか覚えてなかった。鹿野を責めるなら俺のことも叱れ」

「宍戸さんは……大前提として四六時中俺のこと考えてくれないから……」

「当たり前だろ」

「えーん!」


 いい大人の駄々、かなり見苦しいな……と思いつつ鹿野は手の中のタブレットを操作し、豚足、皮蛋ピータン、それに水餃子とかぼちゃ餅を注文する。


「宍戸さん、何か飲みますか?」

「紹興酒がいいな」

「俺も〜!!」

「不田房さんはオレンジジュースにしましょうね」

「どうして……」


 どうしてもこうしても、今この場で不田房栄治に酔い潰れられでもしたら、何のために集まったのかまったく分からない飲み会になってしまう。それだけは困る。鹿野は、不田房がイナンナ主催の公演の仕事を引き受けているあいだ、演出助手のバイトをさせてくれる別の現場を探すつもりでいたのだ。結局仕事はあるのか、ないのか。ちゃんと教えてもらわなくては。

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