恐怖の妖怪(2)

 翌明朝、明理は自宅の洗面所で顔を洗っていた。タオルで顔の水滴を拭き終えると、それをカゴの中に捨てて洗面所を出る。


(万が一に備えてやることはすませた。あとはもう、覚悟が決まり次第ポータルをくぐりに行くだけだ。欲を言えば最後にノアに会って昨日のことを謝りたかったが、もうここまで来たら後の祭りだ)


 リビングに出た明理は窓をあけ、部屋に入り込む新鮮な空気を吸い込む。


(この三年間、なんだかんだ楽しかったな。誰かの道具としてのリーダーでなく、自分ががやりたいことを自由にやれる独立した指導者ってのは良い。未練はある、だがその未練の解決は後継者に託すとしよう)


 明理は息を吐き出し、ポータルのある空室へ向かう。しかし部屋のドアに手を掛けた瞬間、明理の目から涙が一滴こぼれ落ちる。


「え?」


 手の甲に付着した涙の雫を見ている内に、更に多くの涙がこぼれ落ちていく。


「……安心した。オレにもまだ、人間性は残ってたんだな」


 目元を乱雑に擦る明理。頬を叩き、意を決して再びドアノブを掴む。そしてドレッサーの前に立ち、テーブルの中心にあるボタンを押してポータルを展開する。


「行こう。世界を守る為に……愛しい人を守る為に」


 明理はポータルに手を突っ込み、総隊長室の扉の前に転移する。扉の前に立った明理は、室内で物音がするのを聞く。そこで明理がドアを蹴って無理矢理中に入ると――


 今まさに、ノアが開いたポータルに触れようとしているのが見えた。


「ハ、ハロー」

「……は?」


 直後、ノアはポータルに触れて姿を消す。明理は一瞬呆気にとられていたが、我に返った明理は急いでポータルに飛び込む。


 ポータルから森の中へ転移してきた明理は、無銘金重を抜くノアと、それをジッと見つめる妖怪の姿を見る。


「何、やってんだ?」

「戦うんですよ! 一度私にとんでもない恥をかかせた、憎きコイツとね!」

「今すぐオレの背後に戻れ」

「嫌です!」


 ノアは妖怪に向かって駆け出す。慌ててグリップを手に取る明理だったが、ふとノアの挙動に違和感を覚えて立ち止まる。


(待てよ。アイツは昨日、妖怪を目の前にして怯えてたよな。昨日と状況は変わらない、なのにどうしてあんなに活き活きとしてんだ?)


 妖怪はそのカタチを鎧武者に変化させ、刀を振り上げてノアに対抗する。ノアが妖怪の間合いに入り、妖怪が刀を振り下ろすその刹那、ノアはさっと横に身を翻す。


 そして妖怪の横腹を蹴り、首・胸・腹の三箇所を横一文字に切り裂く。攻撃を妖怪は後方によろめき、さらにノアが胸に蹴りを入れた事で大きく後ろに吹き飛んだ。


「やはりな。奴は恐怖で相手を怯ませることに力の全てを割いていて、肝心の戦闘技術はそこまで高くないんだ」

「やはりな、じゃねえよ! お前一体何をして来たんだ!」

「『恐怖に対処したくば、それを上回る恐怖体験で塗りつぶせば良い』って教えてくれたのは貴女でしょう? 私はそれを実践して来たのです」


 ◇  ◇  ◇


 総隊長室を出たノアが向かったのは、1階の虎の間だった。扉を開けると、そこには相変わらず部屋の中心で仁王立ちする白虎隊教官・榊宗玄の姿があった。


「む、貴様はいつぞやの。何の用だ?」

「用件を伝える前に、まずは謝らせて下さい。貴方のやり方を全面的に否定してしまった、その愚行を」

「……何?」


 ノアは地面に膝を着き、頭を垂れる。


「ごめんなさい! 何も知らない素人のくせに、ずっと採用されてきた貴方のやり方を無条件に疑ってしまって! 貴方の言い分もしっかり聞くべきだったのに!」

「フン、別に気にしておらんわ。俺のやり方にケチを付けてきたのは、貴様が初めてではないからな」

「それで、貴方にお願いがあるんです。今から20時間だけ、私だけに力を貸して頂けないでしょうか?」

「なんだと?」

「罵詈雑言を浴びせておいて虫が良いのは分かってます。ですがどうしても、恐怖の妖怪を打ち倒す為に貴方の力が必要なんです! 私に特訓をつけて下さい! それも、貴方が想像する中で一番厳しい特訓を」

「……貴様、本気で言ってるんだな? 取り消すなら今の内だぞ」

「覚悟は出来ています」


 宗玄はノアの目をじっと見据える。しばらくして、ようやく目を離した宗玄は懐からボロボロの紙を取り出す。


「俺が教官になって80年間、ずっと誰にも課していなかった特訓メニューがある。この特訓を誰かにさせれば、そいつを廃人にしかねないと思ってな」

「!!」

「それを貴様に課す。付いてこい、特別に稽古場を貸し切りにしてやる」

「……はい! わかりました!」


 ◇  ◇  ◇


「教官は、もし恐怖の妖怪に再び負けたらもう一度あの特訓を課すと言いました。そうなるくらいなら汚れた雑巾を飲んで死ぬ方がマシだと、そう思う程に厳しい特訓でした」

「何だよそれ……想像したくもねえ」

「でもそのお陰で、無事奴から発せられる恐怖を打ち破ることが出来ました。もう大丈夫です! 万事、私にお任せ下さい!」

「……本当、お前はなんなんだよ」


 明理はカメラを取り出し、撮影を始める。それと同時に恐怖の妖怪がノアに襲いかかり、ノアはそれに応じて刀でつばぜり合いを行う。これにノアは難なく打ち勝ち、今度は右から左下へ袈裟斬りにする。


(殆どの妖怪はあんな風に切られたら死ぬだろう。だが、奴の場合はそうじゃない。いくら奴の事を凝視しても生命線が見えない事と、何か関係がありそうだが)


 ノアは少し後ろに下がり、明理の方を見る。そしてようやく撮影されていることに気づいたノアは、一息ついてから口を開く。


「あの、あなたには奴の生命線、見えてたりしないですか?」


 明理は静かに首を縦に振る。


「ああ、撮影中は喋っちゃいけないんですよね。すみません」

(それは確かにそうなんだが、このリアクションには同意も込められているんだよ! 気付け!)


 妖怪は次にライフル兵へと姿を変え、アサルトライフルの銃口をノアに向けてトリガーを引く。放たれた弾を刀身で弾くノアだったが、最後の一発が右鎖骨に命中してしまう。


 ノアは負傷箇所を押さえて片膝を突く。そんなノアに対し、妖怪は銃口を向けながらゆっくりと近寄ってくる。


「……それ、まさか恐怖を煽ってるつもり? 甘い、本当に甘いぞ恐怖の妖怪! 今の私を怖がらせたかったらね、プランク100分の刑を課す事以上に恐ろしい体験を与えなきゃダメだろう!」

(なんつう事させてんだあのジジイ!)


 突然、妖怪はノアの目の前から姿を消す。そしてノアの首元につかみかかり、両手で握りしめつつ持ち上げる。


(しまった! 奴に触れられたら、与えられる恐怖の最大値が上書きされちまう! これでノアの努力も――)

「ふ、ふふ……」


 ノアは不敵な笑みを浮かべていた。


「『舐めやがって、絶対怯えさせてやる』、そう思っての行動だろう。素直にライフルで撃ち殺せば良い物を……中途半端な意地なんか張るから、今から私に出し抜かれるんだ!」


 妖怪の腕を力強く掴むノア。


「――システムオンライン! ゲームフィールド展開!」

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