歯磨きの時間
三月
それに、くじらの話
真っ暗な暗闇に強烈な光、車のフォグランプみたいな光のビーム(『頭痛が痛い』みたいだ)を当てれば、空気中に漂っているほこりを見つけることができると思う。
当時の状況まで想定してみよう。
久々に屋根裏部屋に入ったとき、ちなみに馬鹿でかい電飾の付いたクリスマスツリーを引きずり下ろすためだったけど、下開きの仕掛け扉が古びたバネで跳ね飛んだ瞬間からずっと部屋にため込まれていた一年分のほこりが出口を求めて這い出してくる中、ぼくは懐中電灯でその空間を照らし出す。ソイツは今どきもう見ない電球がラッパ状の口にねじ込まれている型で淡い光をぼやぼやと辺りに
目当ての箱を見つけて、灰被りのようになったのを軽く
要するに、今こんな間にも空気中の塵やら微生物やらが全身の穴という穴から入ってきて、ついこの前詰め替えしたばかりの奥歯で、文字通り臼を引くように視界には留まらないミクロの生命が擦り潰されているという天啓だ。
『天啓』というのは、預言者みたく引っ切り無しに神からメールが送られてくる訳でも、この気まぐれのような発見が感傷的になりすぎる午後の副産物だという事実に目を伏せていたからでもない、加えてこんな重労働の前に
ただ連想のようにきっかけとしてこの話を思い出したのだ。そう、それだけ。だからこんな前置きはつまり…。
誰だって自分語りは熱中するモノだろう?
◆
ぼくは静かに体に纏わりつくシーツを剥ぎ、
つらく大変な現実に五感総てを使って対面する必要も無いだろう。代わりと言っていいのか、電気ケトルの表示を赤に変えて嗅覚から全身を目覚めさせるための支度をしていると、チャイムが鳴った。
―でぃんどーん。
朝早くから忙しない。ぼくは急いで上からパーカーを被り玄関まで急いだ、二回以上チャイムを鳴らさない為であったが効果は期待できない。
―でぃんどーん。
ほら、やっぱり。
「おはようございます」
「ええ。ご苦労様です」
扉の前にあった顔は、引っ越してきてからはよく見る顔だった。二つのレンズの繋ぎ目、鼻当ての上に控えめにだけど確かなワンポイントの意匠として第三の目が付いている。80年代からやって来たようなフレームの位置を少し直しながら彼は、冷たい風に肌を引き締めながら立っていた。なにせ毛穴が見えないから間違いない。
「先日の件ですけど…」
「それですか。あの、考えたんですが」「ええ」
「今回は遠慮します。一旦」
彼は見るからに落ち込んだようだった。
「ああ、ですが今度は。紹介だけです」
正直ぼくは彼に好印象を抱いているワケではない。けれどまだ腹もそんなに空いていない
「それじゃあ、何でしょう?」
「ワタシも色んなものを扱っておりまして」
「聖書以外も?」
「聖書のセールスマンなら、何でも売れるんじゃありません?」
まるきり胡散臭いくせに、妙な説得力のある発言だった。
「とは言ってもこんな時間から催促しにきたのではないんです。今回は『お試し』ですから」
「お試し?」
「コレなんですけど。ご存じですよね」
「ええ」もちろん馬鹿にされた訳ではないんだろう。
「歯ブラシですね」
「懇意にさせて頂いているので」恐らく皮肉だ、彼から何か買ったことなど一度もない。
「先行体験という感じですよ」
手渡されたソレをまじまじと見る。先から弓なりに毛先が生えて、ブラシというより櫛のような見た目だった。近いモノを探せば歯間ブラシだろうか?
「これが歯ブラシですか」
「特別製でして。クジラの歯を使っております」
「鯨?」
「そうです。勿論、調査用に捕獲された個体から獲られたモノです。完全に
「そういうんじゃなくて…」
「何か問題が?」
「でも、あんまり聞いたことないでしょ?クジラって…」
「古代から使われてきた実績のある素材ですよ。天然で、肌に優しく、歯とは言っても毛のようなものですから。何より
「サステナブル?」
「ええ。使えなくなった製品は再利用可能です。しかも他の部位も有意義に活用されていますしね」
「例えば?」
「ほら…、ヴァイオリンの弓とか」
たぶんそれは違うんだろう、知らないが。
「まあ。貰えるなら貰っておきますよ」
「それで結構です。細かいことですが、後日消費者調査に伺いますので」
「ええ。構いません」
「有難うございます」彼は今日一番嬉しそうな声を挙げ手元のボードに何か書き入れる。
「それでは」
「ええ、ご苦労様です」
その当人はぼくが扉を閉めるより早く、鼠色のスーツ姿はぬるりと消え失せた。
玄関に鍵を掛けた後(またすぐ家を出るのに)、確かに口の中が気持ち悪いのに思い当たる。普段は朝食を終えた後に取って置いてあるのだが、今日くらい習慣を変えても構わないだろう。
兎も角、受け取ったブラシをなぞってみる。確かに歯垢を削り取れそうなほど硬いが一方で歯茎を傷める程尖ってはいないようだ。ぼくはその必要十分な触感に満足してそれを咥内に突っ込んだ。
◆
ぼくは丁度その時二十五番目の妻と簡易な誓いを交わした後だった(まるでぼくには共感できないだろ、と言った感じで投げやりな説明だった)のだが、その行為が終わった後急激なる水流に呑み込まれていった。潮の満ち引きというより海中での核実験の余波のような、急激な引き波である。
体長数センチのオキアミにしてはかなり深刻な、少なくともプランクトンにとっては災害ともいうような波の後、完全なる暗闇、先の見えない
でも、もしかするとそっちの方が幾分良かったのかもしれない。
急激な渦は一旦落ち着き、少し暖かい水中に漂っているのはぼくら一族とその関係者、つまり魚、クラゲ、
創世記とそう変わりない、原書の世界の再演であった。だが閉じ込められてから十数秒、幸運にも潮目が変わりぼくらは押し戻される。沖合まで運んでいく海流に無事乗り込めたのだ。空間が圧縮され無理やり押し出されるように流される。
だが、誰一人沖合に辿り着くことはなかった。
今触ってるソレだ。舌でなぞっているソレ。その体毛のような檻が単細胞以上の細胞を閉じ込めて離さない。海水と体液だけが咥内から吐き出され、温かい地面に触れるようになって初めて獲物を捕まえる罠を明らかにする。対処法は一つ。
クジラのひげも、櫛でちゃんと
◆
残念だが、名もなき微生物の経験の共有はぼくになんの感慨ももたらさなかった。まず彼らに客体という理解があるのか怪しい所ではあるし、それよりも途中でぼくは気づいていたからだ。
きっと彼らには耳に相当する器官がないのだろう、ぼくにははっきり聞こえた、咽び泣くようなクジラの鳴き声だ。恐ろしいほどの暗闇で不安になった瞬間その鳴き声が反響する。
思い返せば、どこか間の抜けた瞬間のようだ。閉ざされた世界に差し込んだ光が、あんな巨体から発せられた音が、あんなモノとは。
ぼくはようやく止めていた手を動かした。埃まみれの箱のふたを一応閉めて暗闇を振り返り、何も忘れ物などないはずだけど確認してしまう。そして仕掛け扉の階段に箱を持ち出す瞬間、いきなりぼくの腿を震わせるバイブに肝を冷やす。
箱を一旦置いてポケットを弄り液晶を叩くと、まだやって来ていない彼女からの連絡だった。
『ごめん、スターバックス寄ってた』
彼女も律儀なことだ。ぼくなら言い訳も、連絡すらしないだろう。
歯磨きの時間 三月 @sanngatu
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