第2話
『落ち着け、シンジ。まだ、終電までは時間がある」
なんとか落ち着くように、声に出して言った。
―――スマホがない。財布がない。机の中だ。
財布に入れていたお金とクレジットカード、定期券、それに身分証明になる免許証なども勿論無かった。
『どうする?どうする?……どうするシンジ!どうやって家へ帰る」
シンジは、ゆっくりと駅に向かいながら、頭をフル回転した。
『会社に取りに戻る?』―――いや、無理だ。
二十三時を過ぎると、全館が自動施錠されてしまい、警備会社に連絡して人を呼んで開けてもらうしかないが、深夜連絡は、所属長以上の権限のある人にしかできない。
『たまたま会社の近くで呑んでいて、遅くなってしまった顔見知りを、駅で待ち伏せしてお金を借りる』―――いや、無理だ。
知り合いは少ないし、うちの課はクリスマス会でこの近くで呑んでいるものなどはいないだろう。
『じゃあ、交番で事情話して』―――いや、無理だ。
警察はお金を貸してなんてくれないだろう。鉄格子の中に泊めてもらうのも気が進まない。
色々考えているうちに、駅に着いてしまった。
お金がない。知り合いに連絡ができない。
シンジは、自分の証明もできない。
夜更けの街に、何も持たずに放り出されると、こんなにも心細く、こんなにも情けないものかと。
大学を出て、今年上場企業に入社したシンジは、そんなことを考えたことも、感じたこともなかった。
オフィスにいたさっきまでの自分と、いまの自分は明らかに違った。
―――なにものでもない明らかに無力な自分。
……おれは誰?
(いや、今は、そんなことをしみじみと思い知らされて、打ちのめされている場合じゃ無いんだ) ―――シンジは我に返った。
顔を上げると、二台並んだ自動改札機の前だった。
急ぎ足の人たちが慌ただしく自分を追い越して、改札機の中へと流れていく。
ほぼ空っぽのカバンしかもたない自分には、これ以上、前へ進むことの権利がないことは分かっていた。が、それでも微かな希望に
……と、そのとき、視線を感じて横を見ると、駅員さんが相談用窓口の向こうから、不思議そうな顔でこちらを見ていた。
なぜか慌てて視線をそらしたその時に、背中に軽い衝撃を感じた。
「わっ、ごめんなさい」
と、その声に振り返ると、バックの中身があたりに散らばり、拾おうとして屈み込む女性がいた。
「いえ。ボクの方こそ、すみません」
シンジも慌てて足元の手帳を拾うために腰を屈めたときに、女性の見上げる顔と目があった。
「ぅわ!」
シンジは身を反らして、声を上げそうになった。―――心臓が止まる。
そこには、シンジが一方的に好意を寄せている、憧れの
蒼井は、シンジと同期入社で、社内のエリートコースである情報コンサル部だった。
同期といっても、毎年5百人前後が入社する会社だと、新人教育のワークショップなどで顔をみる程度で、直接話をしたこともない同期の方が大半だった。
シンジと蒼井も、その程度の同期だったが、 ワークショップのグループリーダーとして、発表したものが最優秀をもらった、容姿端麗の蒼井は会社からも一目を置かれていて、知らない同期は誰もいなかった。
ちなみに、そのときのシンジのグループは、うしろから二番目。
そんなシンジからみれば、蒼井は眩しすぎる高根の花で、自分から話しかけるなど、死んでも無理な存在であった。ちなみに、その時ビリだったのは、取りまとめが時間切れで、発表出来なかったグループ。
蒼井は、手帳をバックに押し込みながら、軽く会釈をすると、シンジの横を通り、改札機を抜けて上り方面の階段を小走りに消えた。
シンジは頭の中が真っ白になっていて、自分の足元に落ちていた手帳すら拾ってあげることもできなかった。
ただ、止まった時間の勝手な夢の中で、ボーっと突っ立っているのが精いっぱいだった。
少しして、我に返ったとき、シンジは人類史上、最大級の自己嫌悪の中にいた。
『あー、なンも言えなかった』
シンジは、大きな声を出して、泣き叫びたかった。
蒼井は、東京方面なので、乗る電車が上りの終電だった。
シンジは、小田原方面の下りだから、まだ、二本あった。
ホームから最終電車のブザーが聞こえて、電車が発車していくのが分かった。
シンジの中で、なにかが終わった。
『シンジ、お金のこと頼めばよかったのに』
『……いや、彼女も急いでいたから無理だろ』
シンジの心の中で、超合金で出来たシンジ一号とシンジ二号の言い合いが始まった。
シンジは相変わらず自動改札機の前で、未練がましく立っていた。自らがこの状況の打開策を見いだせなければ、何事も起こるはずは無かった。
そう、無かったはずだった。……が、終電が行ってしまった上りのホームの階段から、 一 人の女性が降りてくるのがみえた。
「えっ?!」
それは、見覚えがある女性。
(蒼井さん、なんで)シンジの心の中がざわついた。
その衝撃は、映画で言うと『全米がざわついた!』に近かった。
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