5.女神を迎える祭りの日
「こんなとこにいたんすか、坊っちゃん」
ひょいと覗き込んできたリュカに、テオドアは曖昧に頷いた。
侮辱の嵐をなんとか耐え切ったテオドアは、一人、公爵家の敷地内にある小さな森の中にいた。
既に、星々は輝き始めている。早く小屋に帰らなければ心配をかける、と分かっていても――どうしても今は、母と顔を合わせたくなかった。
「うん、ちょっとね。考え事がしたくて」
「へえ。まあ、そういうときもありますよね」
「……もしかして、母さんに頼まれて探してくれてた?」
「そうっすけど。大丈夫です。オレもサボれるんで」
そう言って、リュカは小川のほとりの、テオドアの隣に腰掛けた。
テオドアも特に異議を唱えず、黙ったまま、黒々と夜闇を映した水面を眺める。息をするたびに、殴られた腹が痛んだ。
彼らの思惑に乗せられて、怒りを抱いてしまった。暴れそうになる気持ちを手懐けるのに必死で、最後のほうなどは、意図せず聞き流していた。
とは言え、母への
「……」
本当に、耐えるだけで良かったのか?
後悔にも似た気持ちが、胸のなかで渦巻いている。
あそこで啖呵を切って、一発でも二発でも殴り倒して、母を連れて公爵家など飛び出していたら。ここまで無力感に苛まれることもなかっただろうか。
こんなところなど見切りをつけて、平民として生きていくほうが楽なんじゃないか……。
しかし、飛び出したとして、どうやって生きていける?
生活の基盤は? 糧は? 平民になったほうが幸せなんて、どうして言い切れる?
テオドアは、何度目かわからない溜め息をついた。
「それ、なんの溜め息っすか?」
「……僕って臆病だなあって」
「あー」
二度目の人生なのだから、もっと上手く立ち回れる気がしていた。
もちろん、第一夫人たちの直接的な嫌がらせなどは、あまり気にならないでいられている。だが、こういうとき後先顧みずに飛び出していける気概は、なくなってしまった。
一度死んだせいで、臆病になったのかもしれない。
「でも、みんなそんなもんじゃないすか? 人間なんだから、思い悩むのも当たり前すよ。考えなしに困難に立ち向かうのだけが勇気だとは思わないです。オレはね」
「ずいぶん、達観してるんだね」
「オレだって、いろいろ考えて生きてるんで!」
リュカがちょっと偉そうに胸を張る。年下らしいその仕草に、テオドアは自然と笑みを浮かべていた。
「魔力が無いから、実は公爵の子じゃないかもなんて言われてさ。……母さんを悪く言うためだったのは分かっていたんだけど。どう否定していいかは分からなかった」
テオドアは、ヴィンテリオ公爵の顔を知らない。物心ついたころは既に、彼はこの家に寄りつかなくなっていたからだ。
しかし、屋敷には顔を出さないくせをして、第一夫人とはテオドアの下のルネリーゼをもうけている。自分に匹敵する魔力の持ち主が、諦めきれなかったのかもしれない。
すると、リュカがなにやら信じがたいものを見るような目で、テオドアを見返した。
「は? 誰が言ったんすかそんなこと。こんなにそっくりじゃないすか。髪も同じ赤だし、顔だって」
「……リュカ、公爵と会ったことあるの?」
「あ、やべ。……やだなあ、王都に用事があったときにチラッと見掛けただけですって」
「……?」
なんだか分からないが、彼は公爵に会ったことがあるらしい。
ただの慰めではなさそうだったので、とりあえず納得しておくことにした。
リュカは慌てた様子で、「そうだ!」と上擦った声を上げた。
「気分転換に、今週末の〝選定〟! 見に行ったらどうです?」
「依代が選ばれる〝選定〟に? でも……」
魔力無しが見に行ってもいいのだろうか。と
「坊っちゃんが言いたいこと大体察しますけど、大丈夫です。庶民が見物に行ったって良いんすから。見るだけならタダだし、女神さまもお許しくださるでしょ、きっと」
「そういうものかな」
「そうすよ。オレも家のチビたちの面倒見終わったら行くつもりです。だって」
と、ここで、リュカはにやりと笑った。
「あのいけ好かない一番目の奥さまと坊ちゃんがたが、選ばれなくて地団駄踏むとことか、拝んどきたいじゃないすか!」
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〝選定〟の日は、どの国も大賑わいだという。
この世界には、境界の森を境に、五つの国がある。小国を含めればもっと数は増えるが、大国と呼べるのはその五つだ。
千年来、依代候補の出来不出来で覇を競い合うこれらの国は、戦争こそないものの微妙な関係が続いていた。
しかし、今日このときだけは、同じように国を挙げて祭りをし、儀式を執り行い、女神を迎える準備をする。
今日は、平民も労働から解放され、あらゆる人間が女神の選定を見ようと神殿に押し寄せる。
光の女神が降臨するのは、自らを祀る「光の神殿」だという。
「あっ! え、ええと、奇遇ですね、テオさん……!」
「あ、こんばんは。クレイグの――お姉さん」
労働から解放されているとはいえ、禁止されているわけではない。商売を
ただでさえ、神殿への道は混むというのに、店の前に立ち止まる者で人並みがつっかえることも多々あった。
例に漏れず出店を眺めていたテオドアは、後ろから声を掛けられて振り返る。
そこには、クレイグの姉が、はにかんだ様子で立っていた。
祭りに繰り出す若い娘らしく、おめかしをしている。編み込んだ長い髪に花の髪飾り。細かな刺繍が施されたスカート。ほんのりと頬が紅いのは、人々の熱気にあてられているのかもしれない。
「は、ハンナです。そういえば、まだ名乗っていませんでした」
「ハンナさん。……お一人ですか?」
「いいえ、弟と少しはぐれてしまって。まあ、人混みに押し潰されて死んでなければ会えると思います」
ハンナは、少し粗雑な口ぶりで言った。それだけ弟を信頼しているのだろう、と、テオドアは解釈した。
「テオさんは、お一人で?」
「ええ。母は儀式に興味が無いらしくて」
かき入れどきだというのに、道具屋の店長は店を開く気がないらしく、今日は仕事がない。
リュカの勧めもあり、気晴らしに祭りに繰り出すことにしたが、母は「人が多いのは苦手だわ」とテオドアを見送った。
自分は祭りにも儀式にも興味が無いのに、テオドアが見物に行くとなるとノリノリで上等な服を――いつかのためにお金を貯めてこっそり買っていたという――渡してくれたのは、ありがたいやら申し訳ないやら。
髪型をセットしてもらうのだけは全力で断ったため、いつものひとつ結びではあるが、よくまとまっていると思う。
それでも、シンプルだが値が張っただろう服のおかげか。今のテオドアは下級貴族の子息、あるいは金持ちだが質素を好む少年だと言い張れるようにはなっていた。
小屋の中の錆びかけた鏡を覗いて、「これが服装のもたらす効果か」と、自分で感心したくらいである。
「やっぱり、テオさんも儀式を……見に行くんですよね。その、もしよろしかったら……」
ハンナは視線を落とし、少しの間、口を開いては閉じてを繰り返した。なにか、言いたいことがあるらしい。
もちろん聞くつもりはあったが、彼女が立つ場所は、人がたくさん通る場所と微妙にかぶっている。
誰かにぶつかられでもしたら事だ。せっかく、綺麗な服を着ているというのに。
「すみません、ちょっと……」
テオドアはぱっと手を取って、ハンナを出店のそばまで引き寄せた。
「ひいっ!!」
「は、ハンナさん!?」
その途端、ハンナは引きつったような声を上げて、ばたんと後ろに倒れてしまった。
慌てて抱き留めて、強く引き寄せすぎたかと顔を窺う。耳まで真っ赤になった彼女は、見る限り、単に気を失っているだけに見えた。
だが、どうしていきなり?
「おー、いたいた。ハンナお前、なに人様にめいわ……本当になにしてんの……?」
「く、クレイグ……」
人混みをかき分けて現れたクレイグが、怪訝そうな表情でテオドアを見た。
「よく分からないんだけど、人にぶつかりそうで危なかったから手を引いたら、気を失ってしまって」
「……あー、なるほど」
と、クレイグは何故か遠い目をした。
「それはアレだよ、姉貴の……えーと、持病みたいなもん」
「持病!?」
「お前は気にしないで良いよ……うん。すぐ治る。ほんとほんと」
歯にものが挟まったような言い方だったが、理由は終ぞ教えてもらえなかった。
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