「張飛」


 密集した人の群れ。皆が皆それぞれに逃げまどい、辺り一面に土煙が立ち込め、もはや数歩先の様子すらよく分からない。

 それもそのはず。今この群れには先導者が居ないのだ。居ないというより、逃げたと言った方が正しいか。


 時は二〇八年「長坂の戦い」とも言われるこの戦役。

 乱世で荒れた天下を六割方も平定した英傑「曹操」が、ついに天下統一の総仕上げへと動き出した。その第一歩と言ってもいい戦役であろう。

 曹操の狙いはただ一つ。反曹操の旗印として天下の輿望を集める男「劉備」の首であった。

 劉備は不思議な男であった。曹操の存在が大きくなればなるほど、天下におけるその影響力が大きくなっていくのだ。

 まだ拠る土地すら持たない流浪の有名人に過ぎないが、曹操はことさらに劉備の名を恐れていた。


 ついに開始された南征。劉備は曹操の軍勢に成す術もなく、曹操を恐れる民衆や役人を皆引き連れて逃走。

 その数は十万とも百万とも言われる大所帯だった。拠る地を持たない男が、それだけの人間を従えていたのだ。

 胆の冷える思いで曹操はすぐさま追撃の部隊を派遣。自軍最強の精鋭部隊「虎豹騎」を惜しみなく投じたのである。

 何が何でも劉備の首を取れと命令を下し、虎豹騎は「長坂」の地でようやく逃げる劉備軍を補足したのだった。


「劉兄ぃ! どこに行ったぁあ!!」


 巨大な黒馬に跨りながら、虎髭の大男は銅鑼のような声を張り上げていた。

 しかし逃げ惑う人間の群れの中では、そんな大声もすぐに掻き消され、黒馬もどこへ足を踏み出せばいいのか戸惑っている有様だった。


「こなくそがぁ! 我先に逃げる大将があるかってんだ!!」


 曹操が劉備を恐れてるのであれば、また劉備も曹操を恐れていた。曹操の名を聞くだけで顔を青ざめるほどだ。

 これだけの民衆を引率しておきながら、曹操が追撃の部隊を出したと聞くや否や我先にと逃げ出してしまったのだ。

 劉備を慕って着いて来た者達である。その劉備がどこに行ったか分からないとなれば、混乱するのは当たり前の話だった。

 最たる側近の将であるこの「張飛」ですら、劉備の所在を知らないのだ。これではもはや混乱に収拾はつけれない。


「張将軍! ここにおったんすか!!」

「おう、劉兄はどこだ!」

「俺達も同じことを聞こうと思ってやした!」


 張飛の側に駆け寄ってきたのは直下の部隊長である。兵士の姿もちらほらと見えるが、およそ二十騎にも満たない。

 お前らも知らないかと聞いても、皆が首を横に振るばかり。苛立ちを抑えきれず、張飛はその部隊長の肩を鎧の上からボカリと殴った。


「かっ、肩が、外れるぅ…」

「それでここはどこだ! 何もかもが分からん!」

「確か、長坂ってとこだったはずッス。だからえっと、とりあえず東に向かえば良いって事前に聞きやした!」

「よしお前ら、東ってどっちだ!」


 皆が皆、思い思いの方角を指さしていた。

 旗揚げ当初から着いて来てくれた兵士達だ。いざ戦うとなれば頼もしいが、学が無さすぎるのが問題だった。

 張飛は思わず頭を抱えて「この馬鹿野郎どもが!」と叫ぶ。


「関兄が昔、地図を見ながら教えてくれた。東は右だと。俺は兄者達の教えてくれたことは絶対に忘れん!」

「やっぱり関将軍は流石っす!」

「そうだろう! よし行くぞお前ら、俺について来い!!」


 張飛は大槍を天に掲げ、どかどかと右手の方向へ駆けだした。

 劉備が逃げた方角と真逆であることは、誰一人として気づいていないままだが。



「張将軍! 川に出たっすよ!」

「確か関兄が船団で先に江夏へ向かってたはず。だったら劉兄もそれに合流しようとするだろう」

「じゃあ川沿いに進めば皆と合流できるってことっすね!」

「でも、こんな川幅が狭いとこに船団が来るのか?」


 群衆をくぐり抜け、ようやく見えた河川。しかし船団が通るにはあまりに手狭で、水深も大船が通るには浅いだろう。

 というかこの川には見覚えがあった。一度この川を渡ったはずだ。子供や老人は桟橋を、泳げる者は泳いで渡った川である。


「おい」

「はい!」

「もしかして俺達は逆走してたんじゃねぇのか?」

「俺達も今、同じことを言おうと思ってやした!」


 どうして早く言わなかったのかと再び拳を出そうとした瞬間のこと、遠くから馬蹄の音が聞こえ、張飛は瞬時に顔つきを引き締める。

 戦だ。兵士達も皆、股で馬の背を引き締め、槍を構え直す。戦場で育ってきた者達だ。切り替えも早かった。

 軍と逆走したということは、追撃してくる敵の前面に出るということである。この瞬間、図らずとも殿軍を請け負ったことになったことに気づいた。


 虎豹騎。

 それは曹操直属の精鋭騎兵の部隊であり、決戦で勝負を決める際に必ず投入される切り札であった。

 その切り札を一番最初に投入したのだ。曹操の劉備の首にかける思いが並々ならぬことの証左である。


「全隊一時停止」


 虎豹騎の先頭を駆ける赤き鎧を身につけた若武者。名を「曹純」と言い、この虎豹騎の隊長である。

 彼が軽く右手を上げるだけで、騎兵隊はまるで一匹の獣の如く同時にぴたりと足を止めた。

 それだけでも、全員が相当な実力を持っていることが分かる。この天下で最強の部隊と言っても過言ではないだろう。


「川の向こうにいるあの男は誰だ」

「斥候によれば劉備軍の将"張飛"であると。恐らく殿を務めているのでしょう」

「僅か十数騎でか」

「伏兵の有無は今調べさせています。押し通りますか?」

「…張飛は侮れまい」


 劉備と言えば天下のあらゆる戦場を渡り歩いてきた男だ。その軍勢の精強さを知らない者は居ない。

 そして劉備が加わった戦場で、必ず聞く名が「関羽」と「張飛」である。

 恐らくだが一個の将としての才覚は、この二人が天下で群を抜いていると思っても良い。


 火薬もまだない時代。その時代において「たった一人」の活躍が、戦場の流れを一気に変えることはままある話だ。

 そしてこの張飛はその域に入っている男である。曹純だけでなく、天下の武人がそれに異を唱えることはないだろう。

 彼が戦場で名乗りを上げるだけで戦況が覆ることすらあるのだ。油断して良い相手ではなかった。


「矢は」

「先の追撃戦でほとんど撃ち果たしています。ここで使用すれば、劉備を再び補足した際に撃てる予備が無くなります」


 素早く渡河を行うには桟橋を利用したいところだが、今しがた急いで張飛の兵と思しき者達が橋を打ち壊し、火を放っている。

 急げばまだ間に合うだろうが、今度は退けなくなる。曹純ほどの将でも迷いを抱くほど、張飛という名の存在は大きかった。

 そもそも劉備がこれほど早く逃げるとは思わなかったのだ。早く逃げすぎたため、民衆が混乱し、追撃の速度が鈍ってしまった。

 劉備の妻子は複数名ほど捕獲に成功したが、身内の人質なぞ意にも介さない男である。妻子と言えども無駄な収穫であった。


「後続を待とう。彼らに先行させた後、川を渡る。伏兵の有無はそれで明らかになる」

「御意」


 そして対岸にて、急に足を止めた虎豹騎を訝しげに眺める張飛達。

 慌てて桟橋を落として渡れないようにしたものの、相手は全員が軽騎兵。馬が泳げる程度の河川だ。橋を落とした程度で追撃を止める理由はない。


「来ないっすね、敵。何ででしょうか?」

「伏兵が居ると思ってるんだろ。ふん、馬鹿な奴らだ」

「それは笑えるっすね! こっちはただ道に迷って逆走しただけなのに」


 にやにやと笑みを浮かべる部隊長の肩を、もう一度殴る。なんだか馬鹿にされた気がしたのだ。

 しかし、そうであればなおさら引くに引けなくなった。ここで背後を見せれば間違いなく敵は動くだろう。

 遠目からでも分かる。相当な練度の精鋭部隊だ。あれには一瞬たりとも勝機を見せてはいけないと本能が告げている。


「あれだけの精鋭、育て上げるのは苦労しただろう。一兵だって失いたくないはずだ」

「な、なるほど、だから、伏兵を必要以上に、警戒してると。うぅ…肩が砕けるぅぅ…」

「俺だってお前らを一人も失いたくはねぇよ。気持ちはよーく分かる。さて、どうしたもんかな」

「張将軍…っ! 俺達、一生着いていくッス!」


 河川を隔てた膠着状態。張飛の推測はそのおおよそが当たっていた。

 虎豹騎が無理な追撃に移らないのは、彼ら一人一人が精鋭であるからこそだった。

 馬を自在に扱える人材を鍛え上げるのにどれほどの年月と労力が必要か。名馬一頭がどれほど高価か。

 軍人として暮らす年月が長ければ長いほど、その重さは身に染みてよく知っている。

 故に優れた部隊を率いている指揮官ほど、無意識のうちに避けられる危険は避けるものだ。


 その最中のことである。虎豹騎の後方に土煙が見える。

 あれが味方なはずが無いと張飛は思わず眉を顰め、舌打ちをした。 

 曹操軍の増援だ。千は居るであろう兵力であり、この部隊を試しに渡河させてくればもはや打つ手はない。


「よーしお前ら、俺が逃げるまでの時間稼ぎだ! 派手に死んで来い!」

「えっ、さっきと言ってることが違う!?」

「冗談だ。死ぬときは一緒だ」

「あれ? でもなんかちょっとおかしくないっすか? やけに敵の増援の足並みが乱れてるッス」


 確かに、規律正しいことで有名な曹操軍にしてはやけにゴタゴタしているように見える。

 翻弄されているというか、もたついているというか。何か異変が起きているのは確かだ。

 そして僅かに、土煙の中に鮮血が見えた。張飛が思い切り目を凝らして、ようやく分かるほどの赤色。

 その鮮血が舞った地点から、一騎が天を駆けるかのように飛び出した。


 鮮やかな白馬。黄金色の矛先。

 誰もが戦を忘れ、見惚れてしまうほどの美しさ。


「子龍じゃねぇか!!」


 張飛の銅鑼のような声が轟く。それもそのはず、劉備の親衛隊長である将軍「趙雲」が、敵の増援の先頭を駆けていたのだ。

 敵に寝返ったのかと一瞬疑ったが、追いすがる敵兵を矛で払い除ける姿を見て疑いは消え去った。

 趙雲は虎豹騎を迂回するようにグンと進路を変え、張飛もそれに合わせて趙雲の向かって来る川岸の対岸へと駆ける。

 事態をまだ掴めていないのか、虎豹騎は張飛に遅れて後に続いた。


「子龍! 早くこっちに来い!!」


 しかし遠くで趙雲は首を振る。

 よく見ると馬の腹には数本の矢が付き立っており、更に趙雲は何らかの荷物を胸にたすき掛けていた。

 いや、荷物じゃない。あれは赤子だ。あの赤子を抱えている限り、趙雲は泳げない。

 馬に泳いでもらうしかないが、その白馬ももはや限界のようである。


「お前らはこの場で待機だ。子龍を保護しろ、絶対に死なすな」

「し、将軍は?」

「ちょっくら行ってくるぜ!」

「えぇぇ!?」


 大槍を天に掲げ、河川にザブンと飛び込んだ。

 張飛ほどの巨漢を背に載せてなお、黒馬は易々と河を駆けるように泳ぐ。

 そうしてあっという間に対岸へたどり着くと、趙雲に手を振って馬から降りる。


「益徳、なぜ橋を落としたんだ。だが、まぁ、助かった。この恩は生涯忘れん」

「早く乗れ。こいつなら川も一瞬で渡れる」

「生きて帰って来い」

「誰を心配してるんだお前は。俺は張益徳だぞ」


 趙雲は白馬から黒馬に乗り換え、そのまま河川に飛び込んだ。

 単騎でここまで駆けてきたのか。息も絶え絶えの白馬の前に腰を下ろし、張飛はよくやったとその額を撫でる。

 安心しろ。主人は無事だ。お前が救ったんだ。そう告げると白馬は僅かに呻き、そして瞼を下ろした。


「さて、壮観な眺めだ」


 張飛を取り巻くように、敵の軍勢が周囲を取り囲んでいた。馬上で矢をつがえ、こちらに照準を合わせている。

 背に抱える盾を左腕に構え、右手で大槍を握りしめる。


「泳いで逃げないのか? 潜れば、矢は躱せるやもしれんぞ」

「誰だオマエ。まだひよっこじゃねぇか」

「名乗る必要はない」


 まだ青年ほどの若さの指揮官。才気はありそうだが、まだ青い。

 青年が指示を飛ばすなり、一斉に歩兵が張飛に向けて投網を飛ばした。


「──我が名は張益徳! かかってこいやぁあ!!」


 その瞬間、張飛は耳が割れんばかりの怒鳴り声をあげた。

 あまりの音量に馬は仰け反って騎兵を振り落とし、投網もてんでバラバラに放り投げられてしまう。

 すると張飛は大槍を構え、逆に投網をまとめてひっかけると力の限りグイと引き、網を握る数人の歩兵をそのまま川へと投げ飛ばした。


「くそっ、絡まってやがる。さぁ、俺は名乗ったぞひよっこ。返礼でお前も名乗れ」


 網を足で抑え、力任せに矛を振り上げてブチブチとちぎる。

 普通、人の力じゃどうにもできない強度の網を、まるで綿糸のごとく引き裂く張飛に兵士は自然と後ずさりしてしまった。

 逃げるなら今だ。そう直感が告げるが、張飛は退かない。というか退けなかった。


 泳げないのだ、単純に。


 天下の北端の荒野で生まれ育ち、泳ぐ機会は愚か、潤沢な河川を見る機会すらほとんどなかったのだ。

 その代わり馬には乗れた。馬は泳げるから今まで不便もなかったが故に、今この瞬間まで自分が泳げないことに張飛は気づかなかったのである。

 そう。部下も見守っている中だから堂々とはしているものの、内心、冷や汗が止まらない状態なのだ。


「わ、我が名は曹休。張益徳よ、降伏せよ。そうすれば殺しはせん」

「それは敵を追いこんでから言う台詞だ。まさか俺に勝てるとでも思ってるのか?」

「ほざきやがって…」


 その様子を遠巻きに眺めるのは、虎豹騎の指揮官の曹純と、増援を率い駆け付けた「程昱」である。

 普段は曹操の参謀として働く官僚としての顔を持つ程昱だが、彼はその前半生を武人として生きてきた人物だった。

 故に老いた身でありながらその巨躯を活かして鉞を振るい、こうして馬を駆けさせることも軽々とやってのけた。


「張飛に趙雲に、更には関羽も。劉備の下には綺羅星の如く無双の豪傑がひしめいておりますな」

「程昱殿、あの張飛の態度、どのように見ますか」

「兵法に則れば、兵が多いときは少なく見せ、少ないときには多く見せるもの。単騎で微塵も臆さないところを見ると、更に伏兵が疑わしいですなぁ」

「ここを死に場所と決めての殿、とは考えられませんか?」

「それもあり得る。しかし、こうも兵が怖気づいていては戦になりませんな」


 先の趙雲の一騎駆けをまざまざと見せつけられてしまった兵士達だ。あれは人間業ではない。腰が引けるのも無理はなかった。

 そこに現れた張飛という豪傑。皆で一気にかかればすぐに首を取れるのに、誰もがその最初の一歩を踏み出そうとはしない。

 一人で戦況を変えることの出来る英傑とはこういう人間のことかと、曹純は胸の内に熱いものが込み上げてくる。


「こうも見事に足止めをされた以上、劉備の首には届きますまい。我ら役目は終わりです。追撃は諦め帰還しましょう」

「張飛は如何にすべきか」

「上策は多少の痛手に目を瞑り首を獲ること、下策はこのまま放置すること。決戦はまだここではないということを考慮くだされ」

「私も武人だ、豪傑には敬意を払う。首は欲しいが、多勢で一人に挑んだとあらば虎豹騎の名折れよ。牛金!」

「ハッ」


 程昱にも張飛にも劣らない巨躯、そして柱の如き棍棒を易々と片手で振るう騎兵が一人。

 虎豹騎の中でも群を抜いた豪傑として知られる武将「牛金」。曹純が兄の曹仁から預けられた切り札である。


「勝てるか?」

「全力を尽くします。決して虎豹騎の名を損なう戦いは致しません」

「殺せずとも良い。張飛を川に叩き落してやれ。それを皆で嘲笑い、悠々と帰還するとしよう」

「御意」


 兵士の囲いを掻き分け、一騎で前に出る牛金。意図を察したのか、張飛もじりじりと一歩前に進む。

 確かに劉備を討つのが難しくなった以上、その片腕である張飛の首は極めて重要である。

 しかしここで張飛を本気で討とうとした瞬間、伏兵が一斉に飛び出し、川を渡ってくる可能性もあった。

 現に対岸で張飛の配下が助けにも来ずじっと成り行きを見守っているのが不気味でもある。彼らが出撃の機を見定めているのだとしたら。


 虎豹騎は曹操の切り札であり、戦場の決定機に投入される精鋭部隊だ。その精鋭を決戦でもない追撃戦で消耗するのは得策ではない。

 加えてこの増援部隊は今さっきまで趙雲の一騎駆けを目の当たりにした者達。伏兵が現れればまともに戦えないほど士気は堕ちていた。

 その全ての可能性を考慮した上での「一騎打ち」。これは互いの面子を保つための中間択であった。


「名は?」

「牛金。参る」


 張飛の左手には流れの早い河川があり、正面には巨漢の猛将。並の豪傑ではないことはハッキリと分かる。

 勢いよく馬が駆け出し、張飛は腰を落として地を踏みしめた。

 空気を圧し潰し、張飛の眼前に繰り出される巨大な棍棒。張飛は逃げもせず、大槍を振るって正面から力比べを挑んだ。

 

 金属同士が克ち合う高い音が鳴り響く。ぐしゃりと砕けたのは張飛の大槍の方であった。

 駆け抜け、馬首を返し、牛金は再び張飛に迫る。

 誰が見ても絶望的な状況。しかし張飛だけは思いきり口角を上げ、更に腰を落として両腕を大きく広げた。



「我は燕人"張飛"!!」



 大きすぎる名乗り声に牛金は僅かに背を逸らすも、勢いそのままに再び棍棒を両腕で振るう。

 今度も張飛は逃げることはなかった。正面から牛金の挑戦に応じる。

 右腕に構えた盾。今度はそれで棍棒を受け止めると、僅かに勢いを逸らしてみせた。


 砕ける盾。僅かな隙間。


 張飛はその隙を潜り抜けると、そのまま左の拳を振りぬいて馬腹を殴りつけた。

 たった一撃。その一撃で巨大な馬も、そして牛金も宙を舞って河川へ叩き落されてしまったのだ。

 あまりの圧倒的な光景に誰もが言葉を失い、腰を抜かす兵士も居たほどである。


「次は誰だ? 死にてぇ奴からかかってこいや」

「ここまで虚仮にされて、黙ってられるか!」

「よせ、休!!」


 曹純の制止も聞かず、一騎の若武者が飛び出した。曹休である。

 誰もが戦意を失う中で怒気を露わにし駆けだす青年に、張飛は思わず笑みがこぼれる。

 牛金とは違い鋭い突撃であった。流石、虎豹騎に属するだけはある。


 姿勢を低く突き出される矛は目にもとまらぬ速さだ。しかし、張飛には届かない。

 張飛は足下の砕けた大槍を構え直し、その矛を跳ね上げた。

 曹休の体は馬から離れて飛び上がり、思い切り地面にたたきつけられる。


「良い意気だ、曹休! お前を覚えておこう!」

「なっ、待て!!」


 張飛は曹休の馬に跨ると、馬腹を股で締め上げ、そのまま河川に飛び込んだ。

 軍人にとって愛馬というのは自身の命と同じであり、妻子以上に大切な存在である。

 その馬を奪われるのは軍人にとってこの上ない恥辱だった。曹休は周囲の兵士の制止を受けながら、喉が張り裂けんばかりに叫ぶ。

 しかし張飛は一瞥もくれることなく、悠々と川を渡り切ってみせた。


「張将軍! ぶ、無事っすか!?」

「右腕が動かん。これは折れてるな」

「え! でも無事でよかったッス! めちゃくちゃカッコよくて、手の震えがまだ止まらねぇっすよ!!」

「へへっ、そうだろう! それじゃあ、このまま帰るぞ!」

「はい! 一生将軍に着いていきます!!」


 馬を手に入れられてなんとか助かったと胸を撫で下ろし、張飛は意気揚々と河川から離れるように駆けだした。

 そして趙雲はどっちの方角に向かったのかと配下達に尋ねると、また彼らは全員でバラバラの方角を指し示したのであった。

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