三国志好きによる三国志好きのための短編集
久保カズヤ@試験に出る三国志
「賀斉」
数多の船団に積み込まれていく大量の武具や兵糧。少し小高い丘からその様子を眺め、満足そうに頷く男が一人。
眉も髪も髭も整えられ、何やら高そうな香木を膝の上で撫でている。見るからにいけ好かない男だ。
しかももう良い年齢である。老年の域に入ろうかという男の振る舞いだからか、余計に目に余るものがあった。
「賀斉将軍、これで物資は全てだ。不足は御座いませぬか」
「おぉ、徐盛将軍。運搬ご苦労。これで賊の討伐に迎えますわい」
ガシャガシャと鎧を鳴らし、汗を浮かべながら丘に登ってきた男。名は「徐盛」。
江東に基盤を持つ孫権政権の中でも有数の勇将であった。
そしてその徐盛将軍を悠々と迎える男は「賀斉」といった。彼も孫権政権の将軍だ。しかも、その軍功は並ぶものが居ないほどの。
勇将と謳われた徐盛ですら、賀斉には頭が上がらない。戦場で命を救われたこともあるだけに、余計に尊敬の念は深かった。
「それにしても、いつものことですが将軍の戦は多くの物資が必要になりますな。都では文官共が髪を逆立てて怒っておりましたぞ」
「準備など多いに越したことは無い。それに本当に要求が多すぎたら、我が君が叱責してくださる。それがないなら、気にすることは無い」
「一応、形だけでも良いので頭を下げる内容の文書は送ってください。文官と上手く付き合うのも大切なので」
「本当に真面目だな、君は。分かった分かった、賄賂を贈ればいいのだろ?」
そう言って賀斉は笑うが、思った以上に徐盛がムッとした顔をしたので、慌てて「冗談だ」と取り繕った。
賄賂なんて贈れば主君である孫権の雷が飛んでくる。金の無駄遣いをとことん嫌う君主だ。賀斉も勿論そのことは分かっていた。
しかしそんな君主が治める国だからか、武官も文官も生真面目な人間が多かった。あとはやたらと血の気の多い軍人か。
平時は肩の力を抜いていたい賀斉にとって、少し気苦労の多い環境ではあった。
「それで今回の賊将の名は、尤突(ゆうとつ)か。ふむ、知らんなぁ。山越の人間の名か?」
「恐らく。中央の方でも尤突の詳細はよく分かっておりません。山越の、戸籍も申請していない平民と推測されています」
「平民が、万を超える民衆を蜂起させた、か。丹陽郡の南部はこぞって尤突に帰順しているらしいな」
「曹操が尤突に官位を与え、それを大義名分に蜂起していると報告されています」
「ふむ。いつも通り、現地に行って確かめるしかないか。我が君には、反乱はこの賀斉が鎮圧するので心配ないとお伝えしてくれ」
「ご武運を」
「君もな。曹操軍がまた濡須口に来るんだろ? なんとも忙しない世の中だ」
孫権政権が基盤を築くこの江東の地。長江沿いは開拓も進み、人口も多いが、それより南には未開拓の山間部が広がっていた。
その山間部には独立自尊を貫く少数民族が数多存在し、彼らが何度も何度も孫権に対して反旗を翻してきた。
三国志の呉王朝の歴史は、その反乱の歴史といっても過言ではない。反乱の鎮圧と治安の維持こそ、呉王朝の急務であったのだ。
賀斉はそんな孫権政権下において、反乱平定の実績を数多く積み重ねてきた将軍である。
この国の治安は賀斉が支えていると言っても過言ではない。ここまで物資を融通してもらえているのも、その実績があるからこそだ。
「お、そうだそうだ徐盛将軍。少し待て。もう一つ聞きたいことがあった」
「はい、何でしょう」
「今回だが、我が君から直々に副将を指名された。あの呉県の陸氏の者だ。確か名前は、陸議。知ってるか?」
「江東に暮らす者で、陸氏を知らぬ者は居ないでしょうが、陸議については私もあまり聞いておりません。ただ」
「ただ?」
「彼は周囲から神君と呼ばれているとか。民からは畏敬の念を込めて、同じ職場の者からは皮肉の念を込めて」
地方行政で並外れた実績を挙げているとの噂は聞いていた。故に民から神と崇められていても不思議な話ではない。
しかし「皮肉を込めて」という話は初耳である。思わず賀斉は眉を顰め、難しそうに低い声で唸った。
◆
外敵勢力との戦争と、内側の反乱勢力との戦争は似て非なるものだ。賀斉は経験を通してそう考えるに至った。
まず最も違うのが「誰が敵なのかが分からない」という点である。守るべき民と、殺すべき敵。その見分けがつかないのだ。
反乱は、民が敵になる。守るべき者を殺す戦い。それの名手と言われても、賀斉は嬉しくもなんとも無かった。
「丹陽郡に入る。気を抜くな。隊列を整えよ」
「ハッ」
賀斉の指示一つで、数万の部隊が足音すらも統一しながら行軍を始める。
兵車に座る賀斉の見た目も既に軍人のそれになっており、歴戦の名将に相応しい威厳を放っていた。
更に周囲の目を惹くのが、兵士一人一人の出で立ちである。
汚れ一つない武具や鎧は日の光を跳ね返し、馬も全て大きく逞しく、荷車にすら細やかな彫刻があしらわれていた。
戦争をする部隊というより、皇帝の行幸を守る護衛軍だ。群衆はそんな派手な隊列を物珍しく見守っている。
「涇県には既に陸議将軍の部隊が着陣していると聞いていたが、出迎えが無いな。何かあったのか?」
「確認の伝令を派遣しております。しばらくお待ちを」
「いや、いい。そのまま涇県に入る。戦時だ、陸議殿も忙しいのだろう。出迎えは不要と伝えよ」
「御意」
そのままあらかじめ決めていた通り、それぞれの部隊が各所へ分散していき、己が任地に向かっていく。
まずは索敵。情報を集め、敵を知り、兵を結集させる。この涇県も反乱軍に呼応した地域だ。油断をしてはならない。
部隊が分かれていくのを見届けながら、賀斉の本体は関所を抜けた。
その関所の先には、一人の将軍と数人の衛兵。彼らが深々と頭を下げるのを見て、賀斉は兵車から降りて彼らに歩み寄る。
「陸議将軍か」
「はい。お初にお目にかかります、賀将軍」
「兵の数が少ないように見えるが何かあったのか? 歓迎されていないのかと思ったわ」
「官吏や兵は皆、持ち場で職務に励んでおります。出迎えが簡素なのは、時間の無駄であると私が判断しました。お気に障りましたか?」
「えー、あ、いや、それでいい。でもさぁ、一言くらいあってもよかったんじゃない?」
「これより全軍の指揮権は将軍にお任せします。権限譲渡の運びは役所の方で、行きましょう」
一切表情を変えることなく淡々と。賀斉のくだけた冗談にも、口角を上げすらしなかった。
率直に言えば、無礼な奴だった。しかし悪意は全く感じない。もしかしてあれが素なのかと、賀斉は思わず溜息を漏らす。
呉郡陸氏といえばこの辺りでも最たる名門の家柄だ。傍流とはいえど、一族の中でも年長の陸議は今やその陸氏の当主でもある。
その家柄故に陸議も儀礼に五月蠅い、やたら高潔ぶる名門気取りの男だとばかり思っていた。しかし実際はその逆だ。
(なるほど、皮肉を込めた「神君」とはそういうことか。神でも気取ってるかのような冷淡さである、ということだな)
これは厄介な人間を押し付けられたものだ。
賀斉は眉を顰めながら、意地悪そうに笑う主君の顔を思い浮かべた。
陸議の後について行き、役所で権限の整理や確認を手短に済ます。
本当に陸議は無駄を嫌う性格らしく、会議も極めて簡素であり、儒者特有の悠長な儀礼なども一切が削ぎ落されていた。
そして仕事がとにかく早い。天才だ、そう思えるほどに。
人を見るに長けた孫権が目をかけるだけはある。恐らく将来はこの国の宰相になる才能だと確信できた。しかも若い。
だからこそ惜しい。
陸議は人間としての大切な何かが欠落している。このままだときっと、どこかで大きく道を踏み外す。
「では次に軍議に移りましょう。賀将軍、よろしいですか?」
「軍議か。事前の報告では分からないことが多すぎた。斥候もまだ飛ばしたばかりで情報もないだろ。軍議は明日にしようじゃないか」
「いえ既に数日前から調査済みです。敵の陣容や兵力、所在地なども把握済みです」
「…仕事が早すぎて、オジサンちょっと怖いんだけど」
陸議は長机に丹陽郡の地図を広げ、テキパキとコマを配置していく。賀斉には一切目もくれず。
仕方ない。とりあえずこの男の話を聞いてみるかと、頬杖をついて陸議の話を黙って聞くことにした。
「我々が着陣する以前は陵陽県、始安県、涇県に賊の主力部隊が配置されており、私の部隊が近づくとすぐに涇県の賊は霧散しました」
「尤突は陵陽で蜂起し、その地の県長を殺したと聞いている。となると陵陽県が中核か」
「はい。ここで守りを固めております」
「守りを? 方々への略奪ではなく、か。なるほど厄介だ。狙いは曹操の援軍だな」
「私もそう考えています。現に今、曹操は濡須口攻略に向けて軍を動かしている真っただ中です」
なので。陸議はそう言って涇県の駒を持ち上げて、そのまま陵陽県へとドカリと叩きつけた。
曹操軍が動く前に、今すぐにでも潰す必要がある。ようやく陸議の視線が賀斉の瞳を映す。異論はないな、と言わんばかりの気迫だ。
しかし賀斉は床几に深く腰掛けたまま大きな伸びをして、がしゃがしゃと鎧を脱いでいく。
「今日は疲れた。休む。腹が減っては戦は出来んだろ。お前らも休め」
「では夜に行軍を?」
「五月蠅いぞ。この軍の大将は私だ、思い上がるなよ坊ちゃん。ここから最低十日は腰を据えての書類仕事だ」
「曹操が動く前に叩かねば」
「次、私に口答えをしたら棒叩きだ。そして覚えておけ、私の行動全てに戦術的意味があるということを。よし、解散!」
この脅しは冗談ではない。流石の陸議もその思惑は汲み取れた。故に口を紡ぐ。
しかし胸の内では不満が爆発しそうになっている。それを顔に出さないくらいには、理性はあったが。
賀斉は「戦術的意味」と言った。その意味とは。
もしかするとこれは味方を欺くための嘘であるのかもしれない。敵を騙すにはまず味方からという言葉もある。
陸議は勝手にそんな解釈をしたが、一日経っても、三日経っても賀斉は動こうとはしなかった。
言葉通りに書類仕事を始めてしまったのだ。これは賊軍に「存分に準備をしてください」と言わんばかりの下策である。
「将軍」
「お、陸議か。お前はいつも仕事が早くて助かるよ。早すぎてちょっと怖いくらいだ」
「早く賊を攻めるべきです」
「聞いてなかったのか? 私の決定した方針に口を挟む奴は処罰を降すぞ。勿論、脅しじゃない」
昔、賀斉は自分の指示を聞かなかった部下を躊躇なく斬ったこともある。
その部下は、共に孫策政権に加わった同僚であり同胞であったにも関わらず、だ。
「承知の上です。それでこの江東の民を守れるのならば、命さえ惜しくはない。曹操が動く前に、何が何でも賊を叩き潰すべきです」
「ははーん、さてはお前、戦争初めてか?」
「これほどの規模の戦は初めてです。されど若き頃には孫策様の戦を直に体験しました。戦なら、嫌というほどに味わっております」
陸家はかつて孫家と対立関係にあり、戦争になったこともあった。
孫策と陸康。この二人の戦により、陸家は地獄のような兵糧攻めを味わい、九割もの人間が餓死したとされる。
陸議はその陸康の幼い息子を庇って戦線から離脱した、いわば生き残り。戦争を知らないはずがない。
流石に失言だったかと賀斉は顔つきを引き締め、官服をぴしゃりと正す。
「じゃあ、教えてやる。あと七日だ。七日ここで書類仕事をしていれば、勝手に敵が出てきてくれる」
「…意味が、分かりかねます」
「敵が待ってるところに自分から攻めかかる、これは愚策だ。昔これで私は痛い目に遭った。じゃあどうするか、考えてみろ」
そう言って賀斉はにやりと笑い、大量の書簡を積んだ木箱をどかりと陸議の前に突き出した。
いくら仕事が早いとは言えど、流石の陸議の表情も僅かに歪むほどの量の書簡。そのどれもがこの地の住民の「戸籍」の記録だ。
反乱を起こした住民の大半が戸籍を持たない少数部族の者達であるため、ここで再び戸籍を正確に記録し直すことにしたという経緯である。
基本的にこれはこの地を治める豪族や官僚の仕事なのだが、いざ調べ直せば不備のある戸籍記録ばかりが目立つ。
しかしこれは戦後にやればいいことだ。別に今やるべき仕事じゃないと、陸議はそう思っていた。
「ここら一帯の住民の戸籍をひとつひとつ正確に記録しなおす。あと七日で終わる量じゃ無いと思うのですが」
「当たり前だ。いくら頑張っても半年はかかるわ。正確にやろうとすればするほど長くかかる」
「そういえば、この戸籍の記録に不満を持つ民も多く、些か収拾に手間取っているという報告もあるのですが、これはいかに対処しましょう」
また面倒そうに頬杖を突き、どこか遠くに視線を向ける賀斉。
さっきぴしゃりと直したばかりの官服が、まただらんと緩んでしまっていた。
「陸議、どうして民は不満なのだろうな。家の所在地と、一族の名と年齢と性別、そして爵位と田畑の面積。これを記録するだけの話なのにな」
「何を当たり前のことを。税と徴兵ですよ。戸籍が役所に取られるということは、この二つを課せられるということです。そりゃあ嫌でしょう」
「でも代わりに領主が外敵から守ってくれる。飢饉が起きれば助けてもくれる」
「非常時の恩恵は体感しにくいですが、常時蝕んでくる害は煩わしく感じます」
「そう、だから蜂起した」
「…あ」
やはり明晰だ。このやり取りだけで恐らく問題の本質を理解したであろう陸議を見て、賀斉は満足げに自分の髭を撫でる。
戦争は数の勝負ではない。敵もまた人間であることを理解し、敵が何をされたら嫌なのかを考え抜く必要があった。
そして賀斉は今までの経験上、民衆や豪族らの反乱の多くは「戸籍」が原因であることを知っていたのである。
この丹陽郡は別に不作だったわけではない。なら食料に困っての蜂起だとは思いづらい。現に尤突は略奪に動いていないのだ。
ならば原因は孫権政権への何かしらの不満にある。その大元が恐らく戸籍。
今まで彼らは自立して、特に不自由なく生活が出来ていた。そこに突如として現れた孫権政権に、税や徴兵を課されるのは苦痛だろう。
「戸籍を取られるのを嫌がっての蜂起なのに、それを相手にされずこっちがのうのうと事務に励めば尤突の面目は丸潰れだ。故に、動く」
「動かなければ曹操の援軍が来るかもしれません。明らかにそっちのほうが敵にとって得策なのに」
「人間っていうのはそういうもんさ。君みたいに感情よりも理屈を優先できるヤツなんざ、この天下に数人と居ないだろうよ」
陸家の孫家に対する恨みは根深いものがある。親の仇なんてもんじゃない。一族総出の怨恨だ。
しかし今、その陸家は孫家に忠実に従い、臣下として働いている。それはひとえにこの陸議が当主になったからだと言える。
感情よりも理屈に重きを置く。それが出来る人間でなくば、今頃陸家は滅ぼされていただろう。まさに生まれるべくして生まれた異才だ。
いや、そもそも彼は感情というものを理解できない欠陥があるのかもしれない。賀斉は陸議の冷淡な表情を見ながら、ふんと鼻を鳴らした。
「お前は逸材だ。我が君も恐らく期待している。だがその考えのままでは使い物にならん。特に戦争ではな」
「敵を、理解する。難しいですが、何となく理屈は分かりました」
「…理屈じゃないんだが、まぁいい。分かったらもう行け、黙って俺のやることに従え。まずはこの事務仕事からだ」
「御意」
書簡が山積みになった木箱を軽々と抱え、陸議はキビキビと礼をして部屋を出ていった。
幾分か心を開いてくれただろうか。一切変わらない面構えから心情を読み取るのは難しいが、何となく賀斉はそう思った。
この反乱鎮圧を最後に隠居でもするかと思っていたが、あんな若い才能と張り合おうとする自分の気持ちに僅かながら驚きを覚える。
「そもそも『議』っていう名前が堅苦しいんだよなぁ。いっそのこと『遜』にでもすりゃ、ちっとはまともになりそうなもんだが」
一人で笑いながら、また机に広げられた書簡に目を落とし、賀斉はめんどくさそうに深い溜息を吐いた。
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