抱擁

「遂にだ。」

男は感嘆の息を漏らす。真っ白の部屋の中、男はただ一人、目の前のモニターを見た。そこには宇宙船がうまく軌道に乗っていることを告げる線が、地球の上空に映し出されている。これから実験用の無人機はそのままエンジンを停止して、宇宙になすがままにされるだろう。そして立派な宇宙ゴミの完成である。

「よくやってくれた。」

男は草臥れた白衣を翻し、回転椅子にそっと腰を下ろす。その肘掛けに両肘を乗せると、そのまま両手を組み、穏やかな笑みを浮かべた。

「これで、悲願が達成される。」



男は鬼才な科学者であった。幼き頃からその才能を発揮し、本来踏むはずの段階を、ヒョイと言った具合に飛び越えてきた。そして導かれるまま、多くの頭脳が集まる場所へと足を踏み入れ、さらにその場を蹴散らした。

多くの予想、多くの仮説、多くの謎、ランダム、それらを次々と、多くの結果、多くの理論、多くの現実、規則性へと変え続けていく。

最初の頃、多くの者は彼を現代の〇〇と言って持て囃した。しかし男はあまりに多くの分野で活躍しすぎたから、その空欄は彼自身が当てはめられるようになった。

そして彼は崇められ、畏敬された。様々なデマも飛び交った。あぁ、そう、男にとってそれはかの有名なあのお方の様に水の上を歩けるとか、そんな程度の低いデマと同じようなものだった。

「苦労した。初めて、心血を注いだ。」

非凡な頭脳にとってもこれは大きなプロジェクトだった。


最期は宇宙に抱かれたい。


これは元来からの悲願。16歳のあの頃から夢を見て、そして取り掛かったのは研究用と言って購入した自宅の私有地の地下にそれなりのものを揃えた28歳の時。今、58歳にしてそれが為されようとしている。

ただ宇宙船を作るだけなら何もここまで時間はかからなかった。

大きな問題は彼が天才であること。

宇宙に抱かれて最後を遂げると言う悲願を掲げて色々なものを調達したり、資金を集めようと思っていても、それが簡単に成り立つことではないと、聡明な男は知っていた。男の死を止めようとする人は大勢いる。そして男の孤独を知らないものが、無責任に彼に罵声を浴びせることも難なく想像できた。

彼らは彼ら自身のために男を支えてきた。そして、今度も彼らは彼ら自身のために男の悲願を阻止しようとする。

男は決心したのだ。誰にも頼らず、ただ己の研究成果によって資金を調達し、己の交渉術によって材料をかき集め、己の技術によって宇宙船を形作るための機材を作る。孤独な男の悲願を達成するには孤独に戦うほかない。


「早速、取り掛かろう。」

男は暫しの思案の後、その椅子から立ち上がり、プログラムを実行する。きっと明日には宇宙船が出来上がっていて、明後日までにその宇宙船を所有している無人島の発射台にかけて、明々後日に打ち上がる。その後、目下に地球を置いて、贅沢な最期を迎える。そしてその死体は永久に周り続ける。宇宙に抱かれる。孤独な男によく似合う最期だ、と男は満足げに頷く。

「さて、支度をしようじゃないか。」

男は久方ぶりに自宅の一階へと上り、だだっ広いだけの大きな図体の中を機械的に動く。次に一枚の紙と一本の万年筆を取った後、数えられる程度にしか使わなかった椅子に腰をかけ、付属の小さな机にそれらを置き、そこに言葉を綴る。

「よし。」

男は他にすることはないかと考えて、そしてやめる。自分は研究ばかりやっていたのであって、隠すものも託すものもない。ただ自己満足のために綴る以外、何も出来ない。男はその孤独感に呑まれそうになる。ただそれもすぐに泡沫に消える。だってその孤独も、宇宙によって終わるのだから。


「遂にやってきた。」

男は無人島の中、最期を共にする相棒の中から緑を見る。購入した無人島は中央に小高い山があるだけの何の変哲もない島。発射台に向くかと言えばそうではないが、一回しか使わないから、まぁいいだろうと妥協して買った島だった。

「そろそろ。」

時間になれば自動でプログラムが実行され、そしてこの宇宙船は悲願を乗せて打ち上がる。今までに感じたことのない高揚感に身を委ねながら、息をひっそりと整える。

「うっ。」

男は少しばかりの轟音を上げながら自身が浮き上がるのを感じる。そしてしばらくすれば、圧迫感に嗚咽する。命が危険に晒されるような感覚に体は熱くなり、それを快感と錯覚する。


「あ。」


聡明な男は気がついた。その圧迫感が無くなっていくのを。そして青ざめた。早すぎる。

「どこで。」

男は一生をかけた悲願がなし崩しになっていくのを肌に感じた。徐々に体が冷たくなって行く感覚もする。絶望に打ちひしがれて、己の無力さに涙も出ない。何もできないことを悟り、それらの感情を逃すように、視線を無機質な画面から外へと移した。


男は息を呑んだ。

男は目にした。

地球が、我らの大地が、美しい青の星がこちらに向かってくるのを。

男は狭い船内でそれに向かって両手を広げる。

そうすればどんどんそれは男に向かって加速する。

男は地球も手を広げていると思った。

孤独な男は、初めて受け入れられたと思った。

地球が、私を必要としている。

地球が、私を求めている。

地球が、私を抱きしめてくれる。

社会から目を背け、冷ややかな目でその行末を悲観した私を。

「なんて、美しいんだろう。」

加速して行く船内で男は初めて涙した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る