Episode Memory:34 風と契約

 幸奈は買ったお菓子を机に置き、手をつけることなくベッドに倒れ込む。

 すんすんと赤くなった鼻を鳴らし、倒れ込んだままぼんやりとしていた。


「人間の少女よ」


 部屋に響いたのは、低く、静かな声。


「精霊王……?」

「久しいな」


 見上げると、そこには精霊王の姿があった。

 だが、その巨体は以前と同じように上半身しか現れていなかった。

 あの事件以来、精霊王とは一度も会っていなかった。


「お前に詫びにきた」


 精霊王から発せられたのは、幸奈が予想していなかった言葉で。

 驚く幸奈に精霊王は告げる。


「あのとき、私はお前を利用した。人間が犯した罪は人間の手でさばくべきだと私は思っていた」


 精霊王は続ける。


「お前が精霊界に来たときに全てを思い出し、どのようにしてあの男を止めるのかを見守ることにした。しかしその結果、シルフの生命核が破壊されてしまった。……私は無能な王だ」


 うつむく精霊王。

 幸奈はなにも言えなかった。


「シルフが四大精霊であるように、私も精霊王として生きていかなければならない。私の代わりはどこにもいない。……これから王として全ての精霊を守ると、改めてここに誓う」


 たとえ拒否したとしても、決められた立場で永遠に生き続けなければならない。精霊王も同じなのだと知った。

 幸奈を静かに見下ろす。


「詫びとしてお前を精霊界に招待しようと思うが、どうだろうか」

「精霊界に?」

「精霊王が許したと言えば、それを否定する人間などいない」


 精霊王の声に、幸奈は自然とうなずいていた。


「あちらでは好きなように過ごせばいい」


 その瞬間、まぶしい光に包まれ、幸奈と精霊王は部屋から姿を消した。


 幸奈が目を開けると、そこは一面の花畑だった。

 絵に描いたような青空から、暖かい日差しが降り注ぐ。そして、風に乗って花と草木のどこか甘い香りが幸奈に届いた。

 部屋からそのまま来たせいで幸奈は裸足だったが不快感は一切なく、むしろ包み込んでくれるような安心感があった。

 その光景に幸奈は見覚えがあった。以前、凜とシルフと精霊界に来たときも同じ場所だった。


「あの、精霊王――」


 見渡しても精霊王の姿はなかった。

 幸奈の頭の中にあることが思い浮かぶ。

 もしかしたら、精霊王があえてこの場所を選んだのではないか。もしかしたら、シルフはここに住んでいて、手がかりを探すときも見慣れた場所から始めたかったのではないか。


「シーちゃん……」


 もしかしたら、ここにシルフがいるかもしれない。


「シーちゃん! いる!?」


 花畑に声だけが響き、返事は誰からも返ってこなかった。

 幸奈はゆっくりと歩き出す。不安にさいなまれながらも、心のどこかでシルフはいると確信に変わっていった。

 永遠に続く花畑を歩いていると、小高い丘が目に入った。そこにそびえ立つのは一本の新緑。

 そして木の下にいたのは、人生の半分以上を一緒に過ごした親友の姿。


「シーちゃん……」


 ひときわ強い風が吹き、その風に幸奈の言葉が乗って木の下にいた精霊に届く。

 蝶々の羽根が生えた、童話の世界に出てくるような愛らしい姿をした妖精。

 たった二週間会っていなかっただけなのに、何十年ぶりの再会のような気がして。

 込み上げてくる感動と興奮を抑え、幸奈は丘を登る。落ち着いて、いつも通りに声をかけよう。


「シーちゃん、久しぶり。元気だった?」

「……あなた、誰?」


 幸奈の足が止まる。


「人間よね? どうして人間がここにいるの?」


 その言葉を、幸奈は数秒間受け入れられなかった。そんな面白くない冗談をシルフが言うなんて。

 だが、目の前にいる精霊は幸奈に「はじめまして」と言わんばかりの視線を向けていた。


「……シーちゃん、あたしのこと覚えてる?」

「私の名前はシルフよ。それに、あなたとは初めて会うわ」


 人間を初めて見たわ、と興味ありげな視線を向ける。

 幸奈はそのとき確信した。シルフの記憶がなくなっている。

 それは、精霊もどきを通してリヒトの力が影響してしまったのか。それとも、生命核の回復のために記憶を犠牲にしなければならなかったのか。幸奈には分からなかった。


「……あたし、あなたに会いに来たの」

「そうなの? ……あぁ、私と契約しに来たのね」


 幸奈に向けて微笑むシルフ。


「近いうちに人間界へ行くつもりだったけど、あなたの方から来てくれたのね」


 幸奈の周りをぐるりと一周し、腕を組んで幸奈をまじまじと見つめる。


「やっぱり契約してくれる人間って運命を感じるのね。あなたとは久しぶりって感じがしないもの」

「あたしも……そう思う」

「それじゃあ、早速契約しましょ。大きく息を吸ってちょうだい」


 息を大きく吸い込むと、蝶々の羽根が軽やかに動き、風が幸奈の元に届く。


「そのままその風を飲み込んで」


 ごくん、と飲み込む。

 風は軽く、わたあめのようなふんわりとした感覚がした。


「これで契約完了」

「え?」

「精霊の力を体に取り込んでくれれば契約は完了するの。簡単でしょ?」


 シルフは微笑んだ。

 こんな簡単なことを、自分は十年も引き延ばしていたなんて。


「そういえば、あなたの名前も聞かずに契約しちゃったわ。私はシルフ。あなたの名前は?」

「……あたしは春風幸奈。よろしくね」

「幸奈ね。……もしかして、シルフだからシーちゃんって呼んでたの?」


 うなずく幸奈。シルフは首を傾げる。


「私、あなたと会ったことがあるかしら? 記憶力はいいつもりだったけど」

「……あたし、シーちゃんと十年前にもう会ってるんだ」


 目を見開くシルフ。


「あなたが十年前にあったのは、本当に私?」

「うん。だって、シーちゃんは一人しかいないもん」


 幸奈を静かに見つめるシルフ。


「……幸奈、あなたのことを教えて。好きなことや好きなもの、あなたの楽しかった思い出も。私の知らないことを全部教えてちょうだい」


 そして幸奈は全てを話した。

 自分のこと、初めて出会ったときのこと、洸矢たちやチームのこと、精霊界に行くことが決まったこと、精霊もどきやラインに出会ったこと、精霊祭のこと、リヒトの計画とそれを止めたこと。自分の人生と、シルフと過ごした思い出全て。

 シルフは幸奈の話を最後まで静かに聞いていた。


「……そう、私はあなたと親友だったのね」


 シルフは眉を下げる。


「覚えていなくてごめんなさい」


 幸奈は首を振る。


「そのリヒト・グレイアという男の力は、死ぬまで続くでしょうね。おそらく、その男が生きている限り、私の過去の記憶は戻らない」


 あのとき、リヒトに生きて償ってもらうと言った。それがこんな形で影響が出るなんて。

 うつむく幸奈。


「えっと、あの、違うのよ……あなたを悲しませたいわけじゃなくて……」

「分かってる。でも、あたしは全部覚えてるから……。だから、今日がシーちゃんとの始まりの日。今日からまた、シーちゃんとの思い出をもっとたくさん作っていきたい」


 止まっているわけにはいかない。ここからシルフとの物語が始まる。

 二人は顔を見合わせて笑う。


「それじゃあ、人間界に行きましょ」

「あ、待って!」

「どうしたの?」

「さっきは言ってなかったけど、シーちゃんとひとつ約束してたんだ」


 幸奈はにこりと笑う。


「精霊界、案内して!」

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