第32話 光の楽譜/汚れの末の涙


 俺が戦いを続ける中、背景音楽とでも言うべきものが心の中で聞こえ始める――


幕を開けたのは緊張感を伴うストリングスたち……おどろおどろしい調子のオーケストラだとすぐに分かった。

要所要所鋭く唸るヴァイオリン。ヴィオラはそれに並行し、音域を整える。それから、ゆったりと確かな存在感を放つチェロが居て、ずっしりしたアクセントを与えるコントラバスも陰で演奏を支えている。

自然とシンバルやバスドラムと言った打楽器も加わって、ついにこの曲の主旋律が姿を現した。

じわじわと迫り来る深刻な絶望。時間が経つにつれて体を蝕む毒のように、聞く者に焦りを与え、急かし、徐々に正気を奪って行く……汚染の主に相応しい雰囲気を醸し出している。

ここへ更に、甲高い女性のコーラスも入り混じって、一気に威圧感が増す。


俺はこれが、歌が攻略の鍵・・・・だと確信した。


(拍を掴め。旋律を感じろ。もっとテンポを上げて、隠された核心部まで!)


指揮をするように剣を振るい、曲に合わせて舞うようにステップを踏む――この戦いで求められることは、俺がピアノで学んだこととよく似ている。

正しい鍵盤だけを最小限の動きで叩く。一番美しく聞こえるように、慎重にペダルを入れる。何一つ、1秒だって妥協しない。

そうして、極限まで自分を追い込んだ。そういった自覚さえ有耶無耶になるくらい心を傾けた時だった。傾け過ぎて、転んだ――転がり込んだのだ、誰かの精神の中へ。目に映る景色は色がうしなわれているものの、スラターン歓楽街にそっくりだ。


「誰かの記憶と言ったところか……」


どんよりとした空を見上げて呟くと、ポツポツと雨が降り出す。

ここでの俺は記憶の世界を俯瞰する霊でしかないようで、水滴は体をすり抜けて行く。雨脚は急速に強まるものの、濡れる心配は無さそうだ。

一方、前方には土砂降りのそれに晒される子供が一人、俯いた状態で立ち竦んでいた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 僕は戯女の子供だった。母親に愛は無かったし、彼女が働く娼館は当然、男である僕を必要とはしなかった。皆が僕を除け者にしていた。

それでも、他に居場所など無いから、雑用だけでもさせてもらって食い繋いだ。夜は店裏の路上でズタ袋を被って寝る。毎晩寒いうえ、憑き物とかいう怪物も怖くて仕方なかった。

……幼い頃からずっとそうだった。だけど、物心が付いた頃のある日、母親が死んだ。それからというもの、僕の待遇はますます悪くなった。食事をわざと抜かれたり、八つ当たりの対象になったり。そのうち僕は傷が増えて行って、病気に罹った。

皮膚に出来た大量の腫れ物が本当に痒くて、痛くて、掻き毟らずにはいられない。大量の血と膿が流れ出て、腫れ物はますます広がった。肉のない顔から細っちい足の先までブツブツまみれ、自分の身体ながら吐き気がするほど気味が悪かった。

娼館からも追い出された僕は、日々街を彷徨い歩いて、何でも口にした。人のご飯を盗んだし、雨水も飲んだし、雑草だって齧って、虫すら貪った。それも上手くできない日が続けばゴミ箱を漁ったり、下水を啜ったり、本来食べ物じゃないものだって飲み込んだ。

身体はもっと荒れて行った。同じ浮浪者でも、近寄る人はいないくらい醜くなった。

そして、覚えている。僕が人間・・を失った夜のことを。盗みをしくじって、僕は大人たちに痛めつけられ、道に捨てられた。この時は特に飢えの限界を迎えていたのだけれど、僕はすぐ近くに憑き物の死体を見つけた。肉が欲しかった。僕は屍肉に群がる鴉を押し退け、口元を真っ赤に染めて腐肉に齧り付いた。

喰って喰って喰って、ようやく息をするのを思い出した。そうして顔を上げた瞬間、満月が目に移る――僕は僕じゃなくなった。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 彼は泣いていた、雨粒に混じって涙を流していた。ひ弱な少年は醜い獣へと仕立て上げられ、被らされたその皮の下でずっとずっと慟哭していたのだ。

俺は居ても立ってもいられなくなって、彼の元に寄り、抱き締めた。さっきも言ったが、ここでの俺は霊的な存在。精神への干渉はできない――意味は無いと分かっていても、そうせずには居られなかった。


「今、解放するから」


そう囁いたとき、少年の表情が微かに揺れ動いた気がした。




 俺の感覚は戦いの場に戻って来て、オーケストラの方も丁度最高潮サビを迎える。


管楽器の織り成す重低音が新たに合流し、鼓膜どころか五臓六腑、体の芯から震えるほど荘厳な旋律が完成した。

甲高い女性のコーラスと、堂々たる男性のコーラスが一体感を引き上げた状態で、何度も何度も繰り返し同じ旋律を刻む。

それぞれの楽器が続々と絶頂へ到達していくのも分かった。


けれど、これは俺を追い詰める為に汚染の主が率いているものではない。祟りという牢獄に囚われた少年の遺志と俺の魂、その間を渡す橋だ。恐怖を追い越した今、不安を煽るような曲調は打って変わって、こちらを鼓舞しているようにすら聞こえる。


俺は主の身体に点在する特に巨大な膿瘍を狙って潰した。ブクブクに膨れ上がっていたそれらは水風船のように弾けて体液をぶちまける。物理的にも重いこの病巣は、まるで枷だ。

両脚の膿瘍を破壊すると、主は体に異常をきたし、地に打ち付けられるように倒れ込む。これによって背中にあった残り最後の膿瘍に剣が届くようになった。

もう抵抗はして来ない……俺は心して剣を構え、碧い導きの光がより強く閃くと同時に、とどめの一撃を振り抜いた。



 汚染の主は断末魔に目一杯天へと首を伸ばして、どこか寂し気な咆哮を上げた。鳴り響いていた曲もひっそりと終わりを迎え、彼は息を引き取った。


「さようなら、汚染の主。……せめて安らかな眠りを」


直後、その死体は盛大に弾け飛んだ。血飛沫の代わりにヘドロのような体液とたかっていた蟲が降り注ぐ。

最低な風景の中で、俺は一人、喪失感にも似た達成感に浸っていた。



・後書き――――――――――――――――――――――――――――――――――


 Boss:汚染の主

スラターン歓楽街を永く彷徨っていた巨大な憑き物

イモリのようなその体は、不潔など優に超えて猛毒を宿している

かつて一匹の卑小な憑き物でしかなかった主は

狩りの手から逃げ隠れ、汚物を卑しく啜り育った

人でなくなった後も酷い生涯だったが、葬歌を奏でる者の手によって

ようやく解放されたのだ


 奥義:擦り上げ斬り

単純故に洗練された、大剣士の切り札

体重を乗せた低い踏み込みで武器を地に叩き付けた後

力を溜めて火花と共に斬り上げる

人間程度であれば土砂ごと空高く吹き飛ばし、強大な怪物にさえ痛恨の一撃を与える

介錯の意を秘めた最後の一撃として振るうが良い


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