第16話 火の聖誕祭 前編


 ルドウィーグは元々神仏だとか宗教に対する興味が薄かった。年に一度の聖誕祭を彼はこれまで17回経験してきたわけだが、大して喜んだ覚えが無い。街を挙げた大袈裟な宴の意味にイマイチ納得が行っていなかったのだ。しかし、18回目の今夜、彼の様子は少し違っていた。

夕食を終えたルドウィーグは自室の天窓の下、ベッドに寝そべり、自分で作った曲の楽譜を満足そうに眺めていた。それはシルビアと出逢ったとき路上で練習していたのもこの曲だ。当時はまだまだ未完成だった上に、失敗作として破棄するつもりだった。そんな自己満足すら行っていないものを聞かれたのがもどかしくて、その場から逃げてしまったのである。

後日、ルドウィーグがシルビアにこんな心の内を明かすと、彼女は次のように言った。


「なら、相応しい曲が出来るまで待っていても良いですか?」


あの美しい瞳でこちらに真っ直ぐ視線を送っていたのも含めて、ルドウィーグはよく覚えている。この言葉を受けてからというもの、彼にとっての音楽は自己満足の域を超え、彼女の期待に応えられるように努力を積み重ねたのだ。

シルビアとの出会いをもたらした曲を――自分にあるもの全てを込めたこの曲を今までの集大成として彼女に贈り、恋の気持ちを告白するつもりでいる。それに関して緊張はしていたが、不安は殆ど無かった。この確かな想いならきっと、シルビアの心まで手が届くから……仮にそうでなくとも、それはそれで受け入れられる。

だからこそ、今年のルドウィーグは穏やかな気分で聖誕祭を過ごせているのだろう。



 夜も深くなって来た頃だった。何の前触れもなく、強い風が吹き出して窓ガラスがガタガタとやかましくなった。ルドウィーグは違和感を覚えて、鍵盤を叩いていた指を止める。とっくに引いてあったカーテンをめくって窓を覗くと、近所の家々の窓辺で同じことをしている人が沢山見受けられた。また、人々は街の南西部の方が妙に明るい事に気付いているようだった。

そのまま遠くを見つめていると、窓ガラスに触れていた手の感触に変化が訪れた。先程までルドウィーグの体温を奪っていた筈なのに、次第に温まっている。彼は、自分の体温が移って行ったのかと思ったが、ここまで急速にそうなるだろうか。

続けて今度は聴覚が異常を検知する――南西から変な音がすると思ったら、それは凄まじい数の悲鳴だった。


「……火?」


ルドウィーグがそう気付いた頃には、はっきりと目視できる範囲内の景色もポツポツと火のあかに染まり始めていた。想像以上に燃え広がるのが早い。大勢の人が向こうから一目散に逃げて来て、この辺りの住民もその流れに加わって行く。

ルドウィーグの困惑も確かな危機感へと変わり、彼は窓から離れて二階から駆け下りようとした。が、丁度階段を駆け上がるマリアと鉢合わせた。


「母さん、外が!」

「あなたも気付いたのね。取り敢えず――」

「もう皆逃げ始めてる! うちも早くしなきゃ! ……早く、えっと……」


ルドウィーグは切羽詰まって怒鳴ったが、続ける言葉すら上手く思い浮かばない。そんな息子に対して、マリアは優しくもしっかりと宥めた。


「ルイ、落ち着いて」

「うん……」

「良い子ね……確かに、私たちには考えられないような事態が起きている。けれど、こういうときこそ混乱に流されちゃいけないわ。的確に生き残る為の行動を取りましょう」


ルドウィーグは一度平静を取り戻したが、それ以上に感心していた。母子家庭だった事もあってマリアは彼にとって大きな助言者だったが、ここまで肝が据わる人物だとは思っていなかったのである。こんな立派な親に教わって17歳になるのに浅薄な考えで騒ぎ立てた自分を恥じつつも、ルドウィーグも急いで自室に戻り、鞄に荷物をまとめた。




「ルイ、もう出るわよ!」

「分かった!」


一階からのマリアの催促が耳に入ると、譜面台から楽譜をひったくるように回収し、クシャッと詰めるのを最後に鞄の紐を結んだ。滑るように階段を駆け下りて、玄関で待っていたマリアと合流する。


「お待たせ、行こう」


二人が外に出ると、既に向かいの家すら火の粉を飛ばしていた。それでも二人は冷静さを保ち、計画を立てる。


「どう逃げようかしら」

「他の人は東に行ったよ。多分火に追い立てられて湾を目指したんだ」

「でも遠すぎるし、恐ろしく混雑している筈よ……それに、何かおかしい」

「……?」

「スクルド川の方へ行くのはどう?」


廃屋地帯も含めれば、防壁街は島の都市の中でも群を抜いて広く、その直径を移動するとなると半日以上掛かるのだが、二人の家は元々街の端に近い。水辺で火を避けながら北上し、ほぼ最短距離で街を脱出する計画だ。


「……それなら、良いと思う。そうしよう」


二人は早速、煙除けの為に濡らした布でマスクをし、火と煙を掻い潜るように走り始めた。

なるべく何も考えないようにしながら。



 水路を辿って上流に進み続けること数時間。水路の幅は次第に広がり、今ではもう跨げそうもない程の川幅のある水路の脇を走っていた。

比較的被害の少ない場所を選んで通った道中であっても、生まれ育った街が瓦解し、良く見知った風景がすさんでいく様子は嫌というほど目に飛び込んで来る……ルドウィーグは思わず目を背け、少し前から揺らめく水面を――遠くから照り付ける赤い火を映した水面だけを見て走っていた。

 ただ、突然その景色に変化が訪れる。石で護岸された水路は突然途切れ、より大きな流れと交わっている……目指していたスクルド川だ。ここは支流である水路との合流場所であり、あとはこの河川敷の通りに真っ直ぐだ。


「ハァ……ハァ……大丈夫? ルイ」


マリアは一息吐きながら煙除けのマスクを外し、ルドウィーグの方を向いた。彼も彼で、額の煤を拭いながら言う。


「母さんこそ、結構息切れてるけど……」

「まぁね。けど、危機に直面すると案外無理できるものみたい」

「……ん? あの人どこ行くんだ?」


ルドウィーグは対岸に人影を見つけた。マリアもそれを見て、様子を目で追う。

その人は真っ直ぐ一つの建物へ向かって居た――礼拝堂だ。

見ると、開いていた大扉が丁度閉まり始めているではないか。ギリギリ間に合った者も居れば、二人が見ていた人のように間に合わない者も居た。どうやら礼拝堂が満員になるほど中に避難している人が居るらしい。


「あんな所に居たって焼け死ぬわ。むしろ袋の鼠よ」


マリアは静かにそう呟くと、少し間を開けて口を開いた――その少し間で覚悟を決めたように芯の通った声で。


「……ルイ、先に行ってて」

「は? 何言ってんのさ! そんなことして母さんが戻ってこなかったら俺、どうしたら良いの?」

「ごめん、違うのは分かってるの。でも……私には姉さんが居た、十年ちょっと前に死んでしまったね。自慢の姉さんだった……今でも憧れているわ」


マリアはこれまで、自分の家族や配偶者に関する話を滅多にしなかったので、それはルドウィーグにも初耳の事実だった。ただし、今の切羽詰まった状況で昔語りをやっている余裕は無い。


「だからそのお姉さんを見習って、今からあそこに行くって言うの?」


ルドウィーグも大方話の筋に予想が付き、怒ったような口調で反論する。


「やっぱり、母親としては失格行為かしら……」


マリアは勇気がしぼんだように声を落し、ルドウィーグの腕を握ったまま屈(かが)み込んだ。

何物も、愛するただ一人の息子には代えられはしない。少なくとも彼にこんな顔・・・・をさせるべきではない。

マリアはそう分かっていた。

だが、ルドウィーグもそんな可哀想な様子の母親を見下ろしているのは胸が痛かった……彼は酷く迷った挙句、


「……ううん。そういうところが、俺の自慢の母さんだよ」


と、結局彼女を否定し切れなかった。

その理由はとても簡単……下らなくて、けれど大事な理由。

彼は誇り高く、どこまでも善良な母を慕って育ったのだから。彼女にはいつまでもそう在って欲しいのである。


「ありがとう、ルドウィーグ・・・・・・


マリアは愛する息子へ迅速なキスをすると、スカートの端を持って礼拝堂へ駆け出した。


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