第19話 火の聖誕祭 前編

 1年と少し前、ルドウィーグはコンサートの幕間で弾いた曲を失敗作としてボツにするか悩んでいた。

そんなとき、出会ったばかりのシルビアが


「でしたら、満足の行く曲が出来るまで待っていてもいいですか?」


と言った。美しい翠眸から向けられる眼差しも含めて、ルドウィーグはよく覚えている。

この応援を受けてからというもの、彼は音楽を自己満足の域から連れ出し、期待に応えられるように努力を積み重ねた。

その実力は次第に認められ、最近は楽団長から


「今年の聖誕祭コンサートにお前の曲を出してみないか?」


とまで言われた。

ルドウィーグはその舞台に、シルビアに聞かせた最初のあの曲・・・で立つ事を決心したのだ。

ピアノ曲としての改訂は勿論、オーケストラとしてもより良いものとなるよう、自分にあるもの全てを込めた。



 明日のコンサートでルドウィーグはシルビアに集大成を贈り、約束を果たすと同時に、かねてより抱いていた恋の気持ちを告白するつもりでいる。

緊張はしていたが、不安は殆ど無かった。この確かな想いならきっとシルビアの心まで届くから、彼は信じているのだ。




 夜闇も深くなって来た頃だった。

何の前触れもなく、強い風が吹き出して窓ガラスがガタガタとやかましくなった。

ルドウィーグは違和感を覚え、鍵盤を叩いていた指を止める。

とっくに引いてあったカーテンをめくって外を覗くと、近所の家々の窓辺で同じ事をしている人が沢山見受けられた。

……街の西部がぼんやりと、しかし広範囲に渡って光っている。

ルドウィーグがそのまま見つめていると、本来なら掌から体温を奪う窓ガラスが妙に温い事に気が付いた。


 続けて、今度は聴覚が異常を検知する――妙なざわめきがすると思ったら、それは痛々しい悲鳴と怒号がおびただしい数合わさったものだった。


「……火?」


ルドウィーグがそう気付いた頃には、はっきりと目視できる範囲内の景色もポツポツと火のあかに染まり始めていた。

想像以上に燃え広がるのが早い。

向こうから大勢が怒涛のごとく走って来て、近隣住民もその流れに加わって行く。

ルドウィーグの困惑も確かな危機感へと変わり、彼が部屋から飛び出したところ、丁度マリアと鉢合わせた。


「母さん、外が!」

「あなたも気付いたのね。取り敢えず――」

「もう皆逃げ始めてる! うちも早くしなきゃ! ……早く、えっと……」


ルドウィーグは切羽詰まって怒鳴ったが、続ける言葉すら上手く思い浮かばない。

そんな息子に対して、マリアは優しくもしっかりと宥めた。


「ルイ、落ち着いて」

「ハァ、ハァ……ごめん、分かってるんだけど」

「良い子ね……確かに、私たちには考えられないような事態が起きている。けれど、こういうときこそ混乱に流されちゃいけないわ。的確に生き残る為の行動を取りましょう」


マリアは肝が据わっていて、言葉には説得力があった。

ルドウィーグは自分の母親に感心しつつも平静を取り戻し、自室に戻りって鞄に荷物を纏めにかかった。




「ルイ、もう出るわよ!」

「分かった!」


一階からのマリアが催促すると、

ピアノの譜面台から楽譜をひったくるように回収し、クシャッと詰めるのを最後に鞄の紐を結ぶルドウィーグ。

滑るように階段を駆け下りて、玄関へ。


「お待たせ、行こう」


二人が外に出ると、既に向かいの家すら盛んに火の粉を飛ばしていた。

それでも二人は冷静さを保ち、計画を立てる。


「どこへ逃げようかしら」

「他の人は東に行ったよ。多分火に追い立てられて湾を目指したんだ」

「でも遠すぎるし、恐ろしく混雑している筈よ……それに、何かおかしいわ」

「?」

「追い立てられてる気がするの。……スクルド川の上流側へ向かうのはどう?」


廃屋地帯も含めれば、防壁街は島の都市の中でも群を抜いて広く、その直径を移動するとなると半日以上掛かるのだが、二人の家は元々街の端に近い。

水辺で火を避けながら北上し、ほぼ最短距離で街を脱出するプランだ。


「……それなら、良いと思う。そうしよう」


二人は早速、煙除けの為に濡らした布でマスクをし、火と煙を掻い潜るように走り始めた。

なるべく何も考えないようにしながら。



 ルドウィーグとマリアが水路を辿って上流に進み続けること1時間弱。

規模は次第に大きくなり、今ではもう跨げそうもない程の川幅のある堀の脇を走っている。

比較的被害の少ないであろう道中でも、惨状は嫌というほど目に飛び込んで来た。

生きたまま燃やされて絶叫する者、親の遺体を前に泣き崩れる幼子。

犠牲者は数え切れない。

二人とも良心深いので、できることなら彼らを助けてやりたいと思ったが、皆手が届かない範囲に居た。

助けに行けばこちらが死にかねない状況ばかりだったのだ。

ルドウィーグは生まれ育った街が、よく見知った風景が、絶望に満ちた地獄と化している事など信じたくなかった。

だからこそ、照り付ける赤い火を映した水面だけを見て走っていた。


 ただ、突如その景色に変化が訪れる。

石で護岸された水路は突然途切れ、より大きな流れと交わっている……目指していたスクルド川だ。

ここは支流である水路との合流場所であり、あとはこの河川敷の通りに真っ直ぐだ。


「ハァ……ハァ……大丈夫? ルイ」


マリアは一息吐きながら煙除けのマスクを外し、ルドウィーグの方を向いた。彼も彼で、額の煤を拭いながら言う。


「母さんこそ、結構息切れてるけど……」

「まぁね。けど、人間危機に直面すると案外無理できるものみたい」

「……ん? あの人どこ行くんだ?」


ルドウィーグは対岸に人影を見つけた。

マリアもそれを目で追う。

その人は真っ直ぐ一つの建物へ向かって居た――礼拝堂だ。しかも、開いていた大扉が丁度閉まり始めているではないか。

何とか間に合った者も居れば、あと少しのところを締め出された者もいる。

どうやら礼拝堂へ避難する人が殺到し、既に満員を迎えたようだ。


「あんな所に居たって焼け死ぬわ。むしろ袋の鼠よ」


マリアの見立てが正しければ、二人が見捨てて来たのとは比べ物にならない数の命が一度に犠牲になるだろう。

彼女は若干の沈黙を挟んで再び口を開いた。


「……ルイ、先に行ってて」

「は? 何言ってんのさ! そんなことして母さんが戻ってこなかったら俺、どうしたら良いの?」

「ごめん、違うのは分かってるの。でも……私には姉さんが居た、十年ちょっと前に死んでしまったね。自慢の姉さんだった……今でも憧れているわ」


マリアはこれまで、自分の家族や配偶者に関する話を滅多にしなかったので、それはルドウィーグにも初耳の事実だった。

ただし、今の切羽詰まった状況で昔語りをやっている余裕は無い。


「だからそのお姉さんを見習って、今からあそこに行くって言うの?」


ルドウィーグも大方話の筋に予想が付き、怒ったような口調で反論する。


「やっぱり、母親としては失格行為かしら……」


マリアは勇気がしぼんだように声を落し、ルドウィーグの腕を握ったままかがみ込んだ。

何物も、愛するただ一人の息子には代えられはしない。

少なくとも彼にこんな顔・・・・をさせるべきではない。マリアは分かっていた。

だが、ルドウィーグもそんな可哀想な様子の母親を見下ろしているのは胸が痛かった……彼は酷く迷った挙句、


「……ううん。そういうところが、俺の自慢の母さんだよ」


と、結局彼女の決意を否定し切れなかった。

その理由はとても簡単……下らなくて、けれど大事な理由。

彼は誇り高く、どこまでも善良な母を慕って育ったのだから。

彼女にはいつまでもそう在って欲しいのである。


「ありがとう、ルドウィーグ・・・・・・。絶対に生きて戻って来るわ」


マリアは愛する息子へ迅速なキスをすると、スカートの端を持って礼拝堂へ駆け出した。






・後書き――――――――――――――――――――――――――――――――――


 ドリフト諸島の地図

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