第3小節目、思い描く未来

それから。


午後の授業をすべて終えると、あたしは言いつけどおり、先生がいつも籠っている、に向かった。

これこそがあたしにとって最もプライオリティの高い、本当の重要事項と言えるだろう。


だけどあたしは自分のことなんてすっかり忘れて、目の前に突如として現れた悲恋のストーリーに、あれからもずっと心を痛めていた。


あたしから見て、ふたりは良く似ているように思えた。

ふたりともまだ、たった高校3年生。

それなのに、あの諦めの良さが、あたしには理解できなかったし、切なかった。

だからさっき、迂闊にも涙を見せてしまった。

美優なら、きっとこんなことでは、泣いたりはしないのだろう。


(あたしって、つくづく馬鹿みたいだな。 滑稽というべきか)


だけど、何かと残念なあたしには、こんな風にしか出来ないのだ。


★★★


「失礼します」


軽くノックして引き戸を開け、準備室の中に入る。

美術室に隣接した、広さで言えば、教室の3分の1くらいのこじんまりしたスペースだ。


先生は放課後、職員室にいることは滅多にない。

美術室に集まった補習の生徒を見ながら、合間にここで、100号、150号といった大きなキャンバスと格闘している、というのが習慣だった。


今も戦いの真っ最中みたい。

もう一度控えめに扉をノックすると、やっとあたしに気づいたと見えた。

ひと一人すっぽり隠れちゃうほど大きなキャンバスの横からひょいっと顔を出し、手招きをする。

そのまま空いたパイプ椅子にあたし座らせると、古くて小さな冷蔵庫にあったお茶を紙コップに注ぎ、手の届く位置にある小ぶりなワゴンの上に置いた。


「どうぞ」


絵の具で汚れた「白衣」からは、テレピンの、何にも例え難い鼻の穴をツンと刺すような匂いが漂ってくる。


そして、今日は暑いわね、などと口にしながら、乾燥棚にある画用紙を4枚ほど手にとって、あたしの真向かいに腰掛けた。


「体調は?もうすっかり大丈夫?」

「はい、もう全然。ただの寝不足だと思います」

「そうか。じゃあ………。

誤摩化してもしょうがないから、単刀直入に伝えることにしよう」

「え? はあ」


不味まずい。 先生の顔が、いつになく険しい)


「清家さん。 きみ、このままじゃ厳しいわよ、狙ってる美大ところ


その言葉を聞いて、一瞬にして。

いや、この期に及んで、やっと。


あたしはそれまでぼんやりと浸っていた赤の他人のラブストーリーから、超・現実に引き戻される想いがした。


「えっ」

「まだこの時期、はっきりとは言えない部分は多いんだけどさ………」

「そうだな、せめて、学科で挽回できるくらいの学力があれば、今のペースのままでもぎりぎり合格ラインに持っていけるのかもしれない。

でも……そうだ、こないだの模試、偏差値どのくらいだった?」


「はあ。 えっと…よんじゅう…だったかな?」


消え入りそうな声で弱々しく答えると、先生の大きなため息が聞こえた。

それが、今あたしの置かれてる現実的な立ち位置を的確に示しているのだろう。


「自覚を持って欲しい。

君が目指してるとこ、かなりの難関だよ」

「……」

「このところ、わたしが見てる限りでは、どうにもこうにも集中力に欠けてるっていうか………。

一昨日は、倒れちゃったし、体調不良ってことで、百歩譲って仕方ないとしてもだよ。

昨日にいたっては、補習だけじゃなく、午後の授業もぶっちぎって無断欠席。心配するじゃない?

その上、なんだか今日は今日で、余計なビックニュースも耳に入ってきたし・・・」


「いいえ、そ、それには訳が」

「どんな言い訳だって? 一個づつ聞かせて貰おうじゃないの」


そう言って、先生は、さっきここに持ってきた4枚の画用紙のうちの1枚を、あたしの目の前に広げた。


(あちゃー、すっかり忘れてた)


それこそが、あの朝あたしが仕上げようとして出来なくて、そのまま放置していた問題の静物デッサンだった。


チェック柄の布で半分隠れた植木鉢、透明のビニール袋に入った黄色のテニスボール、ケミカルなブルーのホース、そして、この中では一応主役とみえる昔の精肉店に置いてあるような、古ぼけた鉄製の緑色の計り。


先生が目の前に広げた1枚は、そんな、到底絵になりそうもない見た目も値段もチープなものばかりのラインナップが、あたしの手によって、さらに弱々しく、実に貧相なていで、そこに辛うじて存在しているという「クソ」みたいなデッサンだ。


「えっ……と……」

「まあ、形は辛うじて取れてるとして…。いや、それだって全然甘いんだけどさ。

それより何より明らかに全体がぼんやりしすぎてるし。

調子が足りないというか、そもそも描き足りないというか」

「そ、それはまだ途中だから」


先生は、あたしの、その頓知のまるで効いていない下手な言い訳に思いっきり眉をひそめる。


「だとしてもよ?

あのさあ、工業デザイン科を志望してるんだよね?

だったらまず、この時点で計りの目盛りが全部省略されてるってのはどういう事なの?

これだけで基本アウトだって、先生、毎回口を酸っぱくして言ってるよね?

このデッサンは、構造を説明するためのものだって」


「いや、で、でも……。美しくないからつい、なんちゃって」

「これ、笑ってすませるな」


「じゃあ、次はこれ。この平面構成」


次に先生が出してきたのは、更に苦手とする色彩構成の習作だった。

この時は「画材」がテーマで、あたしはペンキの缶と、刷毛を選んだ。

それをグラフィック化して、自由に画面を創るといったものだ。


「これさ、構成もアイディアも悪くない。色も面白いと思うけど……

君の場合、それ以前の問題なんだよ。

まず画面とマージンの境がガタガタ。

マスキングテープ使ってるんだよね? なんでこうなるのかなあ?

しかも、この背景の一番広い面。 これ、全然平塗りじゃないし」


先生はその、濃淡のあるブルーで塗られた部分を、指でコンコン、と叩く。


「あ、そ、それは…。

塗りたくってたら、なんだか面白くなってきちゃって・・・気がついたら遊び出していたというか…えへ」


「えへ、じゃないっ!」


普段あまり見る事のない先生の迫力に、あたしは両肩を窄めた。


「あのねえ。

さっきのデッサンもそうだけど、ここに絵画的な処理って必要ないの。

これは平塗りの課題。

この程度の手仕事が技術的に出来るかどうか、それも同時に見られているのよ」


先生は、小さな一度ためいきをついて、再び穏やかな調子に戻って、あたしに語りかけるように呟く。


「これも、それも、あれも、どれについても・・・。

上手い、下手という話でもなければ、テクニックの事を言っている訳でもない」


「わたしが言いたいのは・・・。

そもそも受験の課題についての取り組み方が甘いというか、姿勢そのものが根本的にズレている事が問題だって事なの」


「……」


「印象的な世界を創る子だって、ずっと思ってきた。

君はいいものを持っていると……」


先生は、まあ、いいものっていうのはさ、大抵の人が持ってるものなんだけどね、と軽い調子で付け加えてから、あたしを真っすぐに見据えた。


「だけどそれが、今、君が向き合わなくちゃならない「受験」ってものと、うまく噛み合ってない。

君の思い描く未来を切り開くには……。

これをどうにかしてうまく合わせていかなくっちゃ、どうしようもないのよ」


(あたしの思い描く未来)


そう言われると、あたしの足元は、とたんにぐらぐらと揺れ出した。


いつかは、何者かにはなりたいと願う。

でも、ずっと、ずっと、確信まで行き着けないでいる。


あたしはいったい何を、どうしたいのだろう。

いつもぼんやりしたところを漂っている。


突き詰めて考えようとしても、いつのまにか全然違うどうでもいい事で頭がいっぱいになっている。

そうやって、貴重な瞬間(とき)を失いながら、毎日は暴走する。


『晴れて立派な女優になったその日には、高額のギャラを手にして、借金とは綺麗さっぱりオサラバする』


そうきっぱりとあたしに言った時の、オレンジ色に染まった美優の迷いのない美しい横顔が、ふいにまぶたに浮かんだ。


「先生。ごめんなさい。でも、あたし、やる気はみなぎってるんです」


それは嘘ではなかった。

あたしは椅子から立ち上がり、それだけはわかって欲しいと、両足を揃え、からだを折り曲げ、頭を垂れた。


「昨日は、ちょっとばかりアクシデントがあって…。

今日からは、本当に、本当に心を入れ替えて、死ぬ気でやりますから…」


もう一度頭を下げようとした、その時。

脇に抱えていたスケッチブックから、はらり、と、明らかにそれより薄い、1枚の紙が滑り落ちた。


(あっ!)


それは僅かな滞空時間をもって、無情にも先生の足下の方へ。

あたしとは違う手が、それを反射的に拾い上げる。


(まずい!!!!!)


あたしがそれを即座に奪い取ろうとすると、先生は左肩を捻り、上手い具合にかわした。


(ああ、ああ! ジ~~~~~~ザス!)


それは、明け方まで夢中になって描いた、『キスした男女の落描き』だった。

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