第12小節目、新しい友だち
校門から徒歩5分圏内にひっそりと存在する、かなり寂れた公園。
小さ過ぎるが故にその恵まれた立地条件にも関わらず、我が校の生徒にすら完全にスルーされている、
ここは、あの二人の秘密の場所なのかもしれない。
ところどころペンキの剥げた、今では見る事も少なくなった鉄製の遊具が、どことなく郷愁を誘う。
滑り台もある。
(うちの近所の、あの公園によく似てる)
太陽が西に傾きかけて、巨大なシンボルツリーの枝と枝の隙間から、点点と、クリームイエローの光が煌めく。
かすかな夕方の匂い。
時が、夜に向かって急速にピッチを上げて歩き出すころ。
(あーあ、今日も休んじゃった、補習)
ブランコの赤いプラスティックの椅子のひとつに腰掛けて、それを小さく揺らしながら、あたしは彼女を待った。
「清家さん」
どっきーん!
彼女は予想より、幾分早くやって来た。
意識が浮遊しているさ中だったあたしは、ここでもまた不意を付かれて心臓がひっくりかえりそうになる。
この娘ってば、なんでこう、前触れもなく、いきなり現れるんだろう?
「びっくりした・・・全然足音がしないんだもん」
「ああ、そりゃ、バレエやってるし。見て、このがに股」
確かに、彼女の膝は、不自然なくらいに外を向いている。
あの衝撃の日、廊下から教室を見て、最初に目に入ったのは確かにこの足だった、と確信できた。
顔までしっかりと確認したのだから、そんなの今更思うまでもないんだけれど。
「今からわたし、これまで誰にも言った事がない話ばかりすると思うんだけど…。 秘密、守れる?」
まだ殆どまともな会話すらした事がないあたしに向かって、急にそんな事を言い出す彼女に、正直言ってなんだか押されているような気持ちになった。
「あたし、口は固いと思うよ」
明石さんは、それには答えもせず、綺麗な顔を少し近づけて、あたしの目をじいっと見つめた。
うん、あなたになら、なんとなく言っても大丈夫な気がする、と何の根拠もないくせにそう言い放つと、空いていたもうひとつのブランコの椅子に、同じように腰掛けた。
キィ…、キィ…
ブランコは、それ特有の摩擦音を立てる。
明石さんはつま先までぴーんと延ばし、勢い良くこぎ出した。
キィ、キィ
その音は、段々早くなる。
あたしも負けまいと、全身のバネを使って、風を切る。
「…しね、…めるの」
耳障りな金属音は、穏やかな低いトーンで話し出したその娘の声を、いとも簡単にかき消してしまう。
「なあにー? 全然聞こえなーい!」
「学校辞めるんだー、わたし!」
「…はあ?!」
「辞めて働くの…デビューするのよー!」
「デビューって!? バレエ!?」
「違う!ドラマに出るの!オーディションに合格したのよ!」
「オーディション?! エ、エェー?!」
今、なんて言った?
声を張らないとちっとも成り立たない会話にピリオドを打つべく、どちらともなく漕ぐのを止めた。
ブランコの揺れるスピードはじわじわと緩まっていく。
「…あのさ。 実は私ん
明石さんはさっきよりだいぶボリュームを落として、唐突にそう切り出してきた。
「それなら、うちだって似たようなもんだと思う」
「やあねえ。 レベルが違うって。
大学なんて到底望めないし、なんなら食べるものも我慢するくらいだよ」
「食べるのってーーーそ…そうなの?」
「うん、いわゆる底辺ってやつ。
だけど、なぜかみんなあたしのこと、お嬢様だと思ってるみたいで。
説明がめんどくさいから、あえて否定はしてこなかったけど」
「お姫様っぽいからじゃない?ホラ、動作なんか、洗練されてるし」
「なるほど、バレエ様様ってわけね。
でも、わたしがお姫様だった事なんて、発表会で役がついた時くらいで、実生活じゃ一度だってなかったわ」
「そお? あたしでさえ家に帰れば、パパに姫って呼ばれてるけど・・・」
「ああ。わたし、父親なんて、いたことないし」
しまった、という気持ちが、あたしの眉頭を大きく動かす。
それまで、隣であたしの横顔をちらちら眺めていた彼女は、ブランコから足を揃えて飛び降りると、背中を向けたまま言った。
「いいよ、気にしないで。 そういうもんだって思ってるから」
明石さんはもう一度ブランコに座り直すと、ポケットから出したガムを口に放り込んだ。
「こっからが本題なんだけど」
顎を忙しく動かしながら、同じように
「
「ああ・・・うん。乗馬クラブの、なんだかスッゴイお金持ちの人でしょ」
「正確にいえば、親がね。 親が金持ちなだけだけど」
なんでそこ、拘るかなあ。
こうして話しをしてみると、その娘は少し変わった感覚の持ち主だと言う事が、次第に見えてくる。
明石さんは、質問したわけでもないのに、あまり笑えない身の上話を、人ごとみたいにぺらぺらと打ち明けた。
父親は物心がつく前に、多額の借金を残して蒸発。
母親はその時、父親の遠い親戚である関谷家に肩代わりしてもらった借金を、住み込みの家政婦として働きながら返済しつつ、なんとか生計をたてている事。
特待生として通っているバレエ教室は月謝こそかからないものの、それ以外に発生するコンクールにかかる費用や高額の衣装代などは、出世払いで返済するという事で、先生にすべて…今度は明石さん自らが直接借金を申し出て、なんとか続けていた事、など。
「母子二代に渡って借金まみれだよ、あっはっはっ」
そういって、大きな口をあけて笑い飛ばしたかと思うと、今度は立てた人差し指を口びるに当てがう仕草で、あたしを手招きして近くまで呼び寄せ、急速に声を潜め始めた。
「ここからは、内緒話」
そんなふうなポーズをされると、どうしても、くちびるに目がいってしまう。
しかしこの娘、本当に綺麗。
「だけどさ、おかしな事に、母が払い続けているはずの借金が、今になっても殆ど減ってないの。
もう15年以上も返済し続けてるっていうのに」
「え、どういうこと?」
「母はこの高校にわたしを通わせるために、またお金を借りたんだと思う。
それしか考えられないもの。
…バレエのクラスがあるからって、関谷のおばさんが強く勧めるもんだからここに決めたんだけど…失敗したわ」
「学費高いもんね。私立だから」
「うん。で、それをチャラにする条件で、わたしはこのままだと恐らく、99%、将来は関谷と結婚させられる事になる。
ようするにハメられたってやつ」
「まさか」
「ううん、マジよ。 母も関谷のおばさんもそんな雰囲気だもん。
あいつは小さな頃からわたしにご執心だから」
外堀を完璧に固められている。
言うなれば、わたしは担保のようなものなんだ、と、吐き捨てるように言う。
「だから、これまでも、
あいつはともかく、おばさんにバレたら住む所がなくなっちゃうかもしれないでしょ」
(
「だったら、その彼氏に頼めば。 あの人だって、大きな病院の御曹司なんでしょ」
「…あのねえ。
あたしも最初からそういう下心が全くなかったっかって言ったら嘘になっちゃうけどさ。
残念ながら、新のお母さんって後妻さんで…まあ、なんていうか、わたしとそんなに立場的には変わらないのよ。 それに」
「仮に
今度はあたしの運命の舵を取る人間が別の人に変わるってだけ。
そんなのまっぴらだもん」
(うん。それはよくわかる)
考えも及ばなかった色んな事情に、脳が消化不良と呼吸困難を同時に併発しながらも…。
あたしは、頼めば、なんて軽々しく言った事を恥じた。
「だから今回のデビューの件は、あたしが翼を手にする一世一代のチャンスなわけ。
逃すなんて、絶対出来ない」
(そうか。 だから、あたしという人間を犠牲にしてまで、二人の関係は秘密にしたいのか)
「ごめんね、変な事に巻き込んで…勝手だって良くわかってる。
でも、それも、わたしがいなくなれば、すべて終るはずだから」
二人は全然違う場所で、全く同じ事を言う。
勝手だってわかってるって。
そして、明石さんは空を仰いで、独り言のように言った。
「終わりにするって決めたから」
ーーーこの、強くて気高い少女の涙が、どうか、今、こぼれ落ちませんように。
あたしはもうそれ以上、今だによくわからない西園寺との関係について、わざわざ聞くのは辞めにしておいた。
こんだけしゃべっても、明石さんはその件についてはほとんど口を噤んだままだ。
それは、あたしなんかが触れてはいけない領域に思えた。
「撮影は、いつから?」
ふたりの影が、ブランコの周りの低い柵からはみ出る程に長くなっても、あたしたちのおしゃべりは続いた。
「9月がクランクイン。 夏休みから広報活動が始まるの」
「広報って? まさか、主役?」
「ふふ。残念ながら、ヒロインの恋敵で、意地悪で、バレエの上手な美少女の役ーーーつまりヒールってわけ。
でも、最初から出ずっぱりなんだ。
ぴったりでしょう? わたしって、ちょっと意地悪そうに見えない?」
美少女の役だって。
自分で言うかな、と半ば飽きれちゃったけど、オレンジの煌めきが縁取る横顔の輪郭は、確かに完璧に思えた。
「そうかもね。 こんなところだって人から見たら、あたしが虐められてるように見えたりして」
「ふん。清家さんには頭が上がらないから、好きに言わせておくか。
…これから忙しくなるぞー。 撮影に入ったら、ほぼ軟禁状態なんだって。 過酷でしょう?」
「まあ、あたしたち受験生だって、最後の追い込みに入るもの、似た様なもんかもよ」
「わたしね、絶対にやり遂げてやる。
そして、晴れて立派な女優になったその日には、高額のギャラを手にして、借金とも関谷家とも綺麗さっぱりオサラバする」
「それが夢なんだ」
夢。
美貌、才能、根性、自信。
一見、あたしたちの欲しいものを全部手にしているように見える、この美少女が口にする夢は、バレリーナになる事でも、お金持ちと結婚する事でもない。
ましてやスターになるというのでもない。
借金を完済する事こそが「夢」なのだと、何の躊躇もなくきっぱり言い切る。
あたしは、この、「新しく出来た」風変わりな友だちのために、あたしの取るに足らない毎日のほんの2ヶ月くらい、犠牲にしたって構わないような、そんな気持ちになっていた。
ーーーーーわかってねえな
わかったよ。
あの時、あんたが何を言いたかったのか、今ならよくわかる。
あたしのリクエストの答えるべく、「勿体ないから、一度だけね」と笑いながら、サーモンピンクに染まる雲に今にも届きそうな跳躍を見せてくれた
自由を体現する天使みたいなその姿に本気で心を揺さぶられながら、あたしはあの時のひと言ひと言を、かみしめていた。
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