第8小節目、史上イチ孤独な日
一夜にしてあたしは、取るに足らない女生徒のひとりから、芸高のゴシップ女王の座に躍り出た。
学校の女の子たちが、廊下ですれ違うたびに、あたしの方を見てひそひそ話しをしたり、にやにや笑ったり、あからさまにそっぽを向く仕草をしたりする。
ーーーあんたが秘密の恋人なんじゃないかってちょっとした騒ぎになってるの
どう考えたって、それが火種だ。
確かにあたしは昨日、授業中に少し刺激の強い絵を見てひっくりかえるという大失態(ほんとは違うけど)を犯しはしたが、あたしが倒れたくらいじゃ、この凄まじい反応はありえない事だ。
昨日の夜はもっと…
昨日という一日に、もっともっと沈みこむようにして、静かに静かに、浸っていたかったのに。
結局、あの後はこの事と、「鍵」の事で、頭が一杯になってしまった。
教室に入れば入ったで、今度は西園寺新を「推し」ていた子たちからの質問攻めにあう。
その質問の答えの裏側には、隠さなければならない「真相」が控えてる。
だから何も言わず、舌を出したり、笑って誤摩化したりしていると、それがますますあたしを窮地に追いやった。
こんな時こそ頼りになりそうな絵麻の席は、そろそろ授業が始まる時間だというのに空席のままだった。
(くそう! …はかったな)
あたしに何の連絡もよこさないところを見ると、大方、あの子が通ってる予備校の先生でもある「彼氏」とよろしくやっているに違いない。
突然降って湧いたようなこの忌々しい状況からまるで目を逸らすかの様に、目の前の空いた席を眺めながら意識的に別の事に思考を飛ばしてみる。
いいな…。
予備校。
あたしたちの言う予備校とは、美大予備校とか、美術研究所とか言われる、美術大学を受験するためのテクニックを学ぶ、総合的なスクールの事だ。
美大っていうのは、絵の描き方を学ぶ場所ではない。
そもそもある程度絵が描ける人が、作品を方向性を模索したり、プロになるべくデザインする経験を広げたり積み上げたりする、そんな場である。
だから、そこで学ぶ為には、ある程度の技能を最初っから身につけておく事が必須なのだ。
予備校に通い出してからの絵麻は、特にデッサンにおいては、それまでとは比較にならない程めきめきと上達していた。
シビアだけれど、親友である絵麻だって、限りある席を取り合うライバルのひとりなのだ。
あたしみたいな少し恵まれない生徒たちの為に、先生が好意で開いてくれている放課後の補習だけでは、時間的制限が厳しい事もあって、その差はどんどん開いていくばかりに思え、あたしは不安でどうしようもなかった。
だからせめて、夏休みに夏期講習だけでも通わせてもらえないかと、昨夜もまた、遅くに帰宅した両親にかけあってみたけれど。
夏期講習の授業料だけだって、15万円、25万円の世界。
その価値を理解できないふたりが、簡単に首を縦に振る訳がない。
ーーー学校だけで何とかなるって事で、わざわざ高い金を出して私立に通わせてるっつうのに
ーーーいいじゃない。 あんたは結構恵まれてる。 進学できなければ、うちの店で働きなさいよ
パパもママも、結局その一点ばりでーーー実は、お互い言ってることはてんでバラバラなんだけどーーー交渉はその日も不発に終ってしまっていた。
それどころか、昨夜はあたしの虫の居所がかなり悪かったせいで、今までにないくらい険悪なムードになってしまった。
結局今朝は、二人とはひと言も言葉を交わす事無く、家を飛び出した。
そういう訳で、朝から誰一人とも、まともに口を利いていない。
17年間生きてきて、こんなに寂しくて、孤独な気持ちになった事ってなかったかもしれない。
踏んだり蹴ったりとはこのことよーーー。
あたしはそれでも、耐えれるだけ耐えてその場をやり過ごし、午前中の授業が終るチャイムが鳴るのをじっと待っていた。
そしてそれが鳴ると、みんなが空腹に気をとられてる隙を狙って、お弁当を手に、そっと教室を出た。
天気がいいのだけが、救いだった。
C棟の
あたしがひとりその場所で、パパの作ったお弁当に舌鼓を打っていると、膝の上に置いたそれが、突如として日陰になった。
「おお、すっげぇ。
「あ!!! 泥棒!」
あたしが箸を延ばそうとした分厚い卵焼きに、いきなりぬうっと手が伸びてきて、瞬く間にそれは、宙に浮いてその手の持ち主の口の中に入っていく。
「美味い! 何でこんなに
あたしは、恨めしそうに顔を上げた。
そこには、この状況をつくり出した諸悪の根源とも言える人物が立っていた。
「
「何って…。 俺に話しがあるんじゃないかと思って」
けろりとしてそう言われると、無性に腹が立った。
好きでもない女の子と噂になってるってのに、なんでそんなに平然としていられるのだろう?
明石さんの事となると、簡単に取り乱すくせに…。
「あたし誰にも言ってないよ。 だからそれ以上、近寄らないで。
こんなところ人に見られたら…もう学校に来れなくなっちゃう」
「そうか。 じゃあ、俺、行くわ」
あたしは咄嗟に立ち上がり、叫んだ。
「ま、ま、ま、待って!」
考えるより先に、引き止めていた。
「や、やっぱり、ちょっと待って…き、聞きたい事が」
「何?」
「か、鍵の事を…」
「鍵ィ?」
「友達があの授業の後、保健室にあたしの様子を見にきたら、中から鍵がかかってて開かなかったっていうの。 ど、どういう事?」
「…ああ、鍵、ね」
しばらく、妙な間があった。
「そういや実は俺もさ、おまえにちょっとばかり話しがあるんだ」
質問をスルーし、答えようとしない。絶対にわざとだと思う。
それが余計にあたしの胸の中の嫌な予感を増殖させて、それはまるで、煙のようにもくもくと立ちこめる。
「放課後、屋上に来てくれる? もちろんひとりで」
「だめだよ。 放課後はデッサンの補習があるんだもん…。 昨日も休んじゃったし」
そう答えると、西園寺新は、いきなりあたしの眉と眉の間に向けて、人差し指を突き出した。
「
おまえは今後一切、俺に逆らう事は許されないだろう」
(なんですって?)
そうして、あたしの目の前で、胸ポケットからおもむろに最新モデルのスマートフォン取り出し、それをチラつかせて言った。
「大きな傷があったよな」
「…えっ?」
「わかるよな? この意味が」
(…やられた)
体じゅうから血の気が引いて、立っていられない。
あたしはシュワシュワと、穴の空いた空気人形みたいにその場に崩れ落ちた。
甘かった。
昨日、起きた瞬間に感じた、あの冷たく、蔑むような視線を甘くみていた。
「ここにばっちり収めさせてもらったよ」
今度はまるで、悪魔のように。
「放課後、必ず屋上に来いよ。 いいな?」
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