三〈セイ〉

 たてこもり事件から数日後の夜だった。立てこもりの件は落ち着き、平静な日常が訪れていた。またいつかぶりかえすかもしれないが、ひとまずの平静を楽しんでいた。

 欽ちゃんには金曜日の常連以外の客は少なかった。仕事で溜め込んだストレスを発散しながら酒を飲む人や、学校の先生や行事に対して不満を漏らし、コーラやジンジャーエールをおいしそうに飲む高校生などがいた。

グレープフルーツハイを飲んでいると、ストリートミュージシャンの演くんが、弾き語りを終えて、ギターを背負い、楽譜などが入ったバッグを首にかけ、手に譜面台を持って店に入ってきた。ずいぶん重そうだったので、僕は譜面台を持って手助けした。演くんはうめくように感謝の言葉を述べた。

「演くんお疲れさま」

 常連客に対するいつもの気軽さで欽さんが言った。

「お疲れさまです! 二時間歌うってのは結構きついですね。ちょこちょこ休んでましたけど、声かれちゃいました。昔作った歌を歌ってみたんですが、全然声が出なかったですね」

 演くんは背負った荷物をすべておろし、それを奥の座敷に置いてから、カウンター席に腰掛けた。彼は腰痛持ちらしく、そのとき痛そうな顔をした。

「年取るとどうしても声出なくなるからね。しょうがないよ。何歌ったの?」

 欽さんが焼酎を甕からコップに注ぎながら言った。これは欽ちゃんの常連であるロックンロール氏が注文した酒である。ギョロ目の長身の男で、多くの面白エピソードを持つ鋼の男である。

「自分の曲です。来月全曲オリジナルを歌うライブがあるんで、やっとかないといけないなと思って。昔の曲はキー下げようかな」

 演くんは奥さんが持ってきたおしぼりでざっくり手を拭き、瓶ビールを注文した。欽ちゃんの瓶ビールは星のマークがついたものである。

「演くん、俺あの曲すげえ好きなんだお。あれいいお。あんつったっけな、暇してるって歌ってるが」

 ロックンロール氏は房総出身で、勢いのある房総方言を使う。

「そのまんま、暇してるって曲ですね。歌ってきましたよ」

 演くんは嬉しそうにして、テーブル席に座っているロックンロール氏のほうを振り返って言った。ロックンロール氏はニヤニヤして楽しそうにしている。

「お客さん来た?」

 欽さんはCEOチェアに腰掛けていた。やはりこの席に欽さんがいると安心する。

「来たというか来ないというか。いつものことですけど。そういえば、鬼頭さんがインコ二匹持って来ましたよ。ポケットからインコ取り出して頭に乗せてました。たまたま通った女の子に見せつけて、気になって立ち止まった女の子の頭に乗せたり肩に乗せたりして遊んでました。わたしは弾き語るのをやめてその光景をただ見ていました」

「ほんとしょーもない!」

 ひなちゃんがひょいと身体を反らした。

 鬼頭さんとはこの界隈で知らない人はいないくらいの有名人で、飼っているインコを常にからだのどこかに入れて女の子の気を引いて遊んでいるのである。

「相変わらずだね。全然知らない女の子?」

 欽さんはこの界隈の人や出来事に詳しいので、知っている可能性はあった。

「そうですね。わたしも鬼頭さんも知らない女の子でした。でも鬼頭さんが女の子に聞いたところによると、そこの角のピザ屋で働いてるそうです」

「ピザ屋か。知ってる店員はいないな」

 欽さんはきっぱりと言った。おしゃれなところにはあまり縁がないらしい。

「あと、高校生が来ました。どこの学校かわかんないですけど、差し入れもらっちゃいました。温かいお茶ですって。突然ずんずん近づいてきたと思ったら、ビニール袋渡されて、これ飲んでくださいって」

「いいね。張り合いがあるね」

 欽さんは、可愛かった? と聞きたそうだったが、奥さんの手前やめたように思えた。奥さんが怒るととんでもなく怖いのは、欽ちゃんの客のあいだでは有名な話だ。

「演くん、音源化されてるのって何曲くらいあるの?」

 わっさんが実に興味深いといった様子で演くんに質問した。わっさんは欽ちゃんの近所にあるワット電気店の店主で、レコード鑑賞が趣味であった。音楽活動はしていないが、演くんの新曲をいつも楽しみにしていた。

「四十曲くらいはありますね。クオリティは低いですけど」

 演くんは自慢にならないように控えめに言ったようだった。実際の曲数はクオリティの低い曲も数に入れると数百曲あると聞いたことがある。

「いろんな人に聴いてもらわないと。もったいないよ」

 とわっさんが言った。

「ですかね」

 演くんはよく言われる台詞を投げかけられて言葉に困っているようだった。音楽をやっていると言うと、ほとんどの場合、いろんな人に聴いてもらわないと、と言われる。励ましの言葉に違いないが、時と場合によってはうんざりするそうだ。ひなちゃんがさりげなく話頭を転じようと、

「あやめさんあれからどうなんですか?」

 と言って、ニコチンフリーの電子たばこを吹かした。

「ツイッターをはじめて、ちょっとした有名人になっているそうだよ。興味がないからほとんど見たことはないけど。歯に衣着せぬ発言がなかなか人気らしい」

 正直やめたほうがいいと言ったのだが、本人がどうしてもやりたいというので仕方なく登録してあげた。本人はそういう作業が苦手なのである。

「今度みてみるよ。うちの娘はそっち系に詳しいみたいだから」

 わっさんは持っていたウーロン茶割りを傾けて言った。

「まあ、あのキャラクターだから、いかさない手はないとも思うけどね」

 欽さんが椅子にかけていた腕を顔の前で組んだ。

「ひなちゃん腎炎よくなったの?」

 演くんがギターをソフトケースに入れ、ファスナーを半分ほど閉じたところで、ひなちゃんに顔を向けて言った。

「復活しました! ただ薬のアレルギーで死ぬかと思いましたけど」

 いつも明るい彼女だったが、死ぬかとの部分だけは少し暗い感じがあった。

「それじゃ大きい病気できないよなあ」

 身内が病気になったような調子でわっさんが言った。

「欽さん、旅行いつからでしたっけ?」

 演くんがそれまでの空気をがらりと入れかえた。それは意図したものなのか、若さゆえの無遠慮からくるものなのかわからなかった。

「愛媛県の松山、道後温泉だよ。二泊三日。ちょっとキツい旅程だけどね」

 欽さんが渋い顔をする。

「夏目漱石ゆかりの温泉ですね。坊ちゃんの湯」

 いつか行きたいと思っていた温泉なので、すぐにそう答えられた。暇があればあやめと行ってみたいものである。あやめは休みたい日に休めるので、わたしだけがスケジュールをどうにかすればよい。いや、金の心配がある。彼女の預金があとどれくらい残っているのかちょっと見当がつかない。

「そうそう。俺たちがいない間、セイくん頼むよ」

 欽さんは本当に頼むといった感じで、ことさら引き伸ばしたように言った。奥さんは僕のほうをみて、ほほえみながら軽く頭を下げた。欽ちゃんがいない三日間、あやめが店を開けることになっているのである

「できる限りのことはお手伝いします」

 僕がいくぶんりきむように言ったとき、入口の引き戸が抵抗なく、横にスライドした。あらわれたのは、よく見る顔であり、その日の話題の中心になる人物だった。

「きたきた。噂をしてたら」

 わっさんが半笑いで嬉しそうな顔をした。

「お疲れっす。なになに、なんの話?」

 あやめが空間全体を覗きこむように首を動かした。カウンターに腰掛け、隣の席に愛用の麻のトートバッグを置いた。奥さんがすかさずおしぼりを渡して、いらっしゃいと声をかける。

「欽さんの旅行の話。道後温泉はどうって」

 拍子抜けしたような間延びした声で僕は言った。あやめと一緒にいると緊張がほぐれてよくそういう声になる。普段の声とくらべるとずいぶん違う。

「あたしひとりで行ったことあるけど、まわりは恋人だらけだったよ。別に寂しいとは思わなかったけど〔あいつさみしいだろうな〕って思われてると思うと癪だった」

 あやめは顔をしかめて、冷蔵庫から瓶ビールを取った。常連中の常連は自分で瓶ビールを取る。グラスをひとつ奥さんから受け取って、手酌で一杯飲み干した。

「ひとりだけで行ったの? すごいな。自殺だと思われたんじゃない」

「失礼な。わたしほど見た目が強そうで中身が繊細な人間はいないぜ」

「いや、だから自殺しそうに思われたんじゃない?」

「まあ、どっちでもいいや」

 あやめは斜め上を向いてツンとした顔をした。

 欽さんが仕切りなおすように一息おいてから、

「俺たちがいない三日間、よろしく頼むよ」

 と言った。顔を不安の色が横切った。

「大丈夫大丈夫。貸切の札出して、常連以外入れないようにするから。料理は作りかた教えてもらった焼きそばと塩焼きそばだけで、あとはフランクフルトしか出さないから。会計は計算が苦手だし、いろいろと面倒くさそうだから、その三日間のぶんはツケにしてあとで回収するってことで。セイには奥さんの代わりをやってもらう」

 あやめは僕に食事や酒などの提供を任せようとしているようだった。奥さんはいつも忙しそうに動き回っている。あやめはひとつのことに集中しているほうが実力を発揮できるタイプなので、カウンターの裏から動かないほうがよいかなとも思った。

「楽しそうだからその三日間全部来るよ。土日月だっけ? いつもは休みの日曜も今回はやるんだね。イベント的だからってことか。っていうか明日からじゃん」

 そう言って、わっさんが大事そうにレコードを取り出して慎重にプレイヤーにセットした。曲はドビュッシーの月の光だった。ピアノ独奏曲、ベルガマスク組曲のうちのひとつである。

「それでさあ、三日間だけ店名を変えようと思うんだけどなんにしようかなあ。居酒屋あやめちゃんだと、いまいち語呂が悪い」

 あやめはわりとどうでもいいことにこだわる性格だった。夏からのつき合いで、べつにこだわらなくてもいいんじゃないかという場面に何度か出くわしている。

「あやちゃんでいいんじゃないか?」

 反射的に言ってみたものの、安直すぎて却下されるだろうと僕は考えた。

「セイが欽ちゃんに来る前だから知らないと思うけど、前にあやちゃんって常連さんがいて、みんなあやちゃんと言えば彼女のことを思い出すんだよね。あやちゃんは子供が生まれたばかりでお店に来ることはないと思うけど、やっぱり違う名前がいいなあ」

 あやめは気難しい顔をして腕を組んだ。

「ちゃんにこだわらないで居酒屋あやめでいいじゃん」

 わっさんがもっともなことを言った。それを受け取って、

「それもそうだね。じゃあそれで」

とさらりと言ってそれで済ましてしまった。いとも簡単にこだわりは雲散霧消した。

「ちょー適当!」

 ひなちゃんが声を上げた。

 そのとき、電話の呼び出し音が店内に響いた。皆が誰か誰かと様子をうかがった。曲はロッキーが勝ったときの音楽だった。ちなみにパート2のサウンドトラックだった。あやめに何度も映画をみせられたのですっかり覚えてしまったのである。

「ロッキーじゃん! みなぎるわ!」

 あやめがファイティングポーズを取って空間にワンツーパンチを繰り出した。そのときカウンターに肘をぶつけて痛がっていた。余計なことをしたなと僕はこっそり笑っていた。

「どうした?」

と言って電話に出たのはわっさんだった。普段の話しかたとはすこし違った。

「え? ああ、そんなにつらそうなんだ。わかった。すぐ帰る」

 電話を切ったわっさんは、

「娘から電話だわ」

 と言った。

いつになく不安そうで、表情に動揺の色が浮かんでいた。

「嫁が体調悪いらしい。娘がめずらしく心配そうだったから帰ってみるよ」

 わっさんは視線がさまよっていて、じっとしていられないようだった。

「たいしたことなければいいな」

 欽さんが不自然なほどまじめな表情で言った。

 わっさんと奥さんは同い年で、恋愛結婚だった。詳しく聞いたことはないが、うまくやっているようである。わっさんは皆に簡単な挨拶をして、追いかけられるように帰っていった。かけていたドビュッシーのレコードはそのまま流れ続けていた。

「わっさんの奥さん、たいしたことないといいな」

 あやめは暗い顔をして沈んだ声で言った。普段あまり暗い顔を見せないあやめが見せた表情には特別な重さがあった。

「大丈夫。あんつこたねえよ。OK大丈夫」

 ロックンロール氏が太い声で言った。皆の気分を明るくしようとする彼なりの気遣いだろう。

僕はそろそろ帰ろうかと考えていたが、その状況で帰るのはどこか逃げるような感じがあって、僕はためらっていた。

そこで、欽さんが「よし」と前置きをして、

「では申し訳ないんだけど、明日の準備のために早仕舞いさせてもらおうかな。三日間旅行に行って参りますので、皆様よろしくお願いします」

 と勢いをつけて言った。

「よろしくお願いしますね」

 奥さんは丁寧に言葉を添えた。

「おみやげ待ってまーす!」

 ひなちゃんはいつもプラスの方向に空間を変化させる。そのエネルギーがどこから出てくるのか不思議で仕方ない。

「あたしはおみやげいらない!」

 あやめが声をあげた。厨房のフライパンが声で振動するほどであった。

「なんで!」

 ひなちゃんも声をあげるが、すぐにドビュッシーにかき消された。

「おみやげは買わないしもらわない主義なんです。前の会社のときも買わなかった。みんな会社のぶん買ってくるけど、あたしは絶対に買わなかった。おみやげなんて重いし、自力で行って自分のためのおみやげを買えと思うね」

 あやめは言い切った。それに対して即座に僕は、

「いちいち社会不適合者だな」

 と言ってグレープフルーツハイをごくりと飲んだ。

 すると、突然あやめが土間のほうに向き直って下を向いた。涙がぽたぽたと土間に落ち、丸いしみを作っていった。涙を拭いながら、

「社会不適合者なんてかっこいいもんじゃないよ。ただのクズだ。このあいだたまたま昔の仲間に会って近況を話したら、クズ呼ばわりされた。そんなこと言われなくたってわかってるよ。そいつは自分が救世主かなんかと勘違いしてる。いちいち正義を振りかざしてくる。正義なんて言ってるけど、人の上に立って見下したいだけなんだ。そいつも充分クズだ。あたしは社会的にはクズでも、人間的には正解だって思いながら生きてるよ」

 店にいた全員が表現しがたい深い同情に包まれたようになった。

「ごめん。僕が悪かった。あやめにとって、社会不適合者と呼ばれることは、周囲に流されない、主義主張を持った人間として、認められたことの証明だと思っていたんだ。気分を害するつもりはなかった。本当に申し訳ない」

 あやめはじっとしていた。涙を拭く気力もないのか、目は赤くなり顔はぐしゃぐしゃになっていた。たいして化粧をしていないので、そのほうの影響はなかった。

「送ってくよ。お互いちょっと飲みすぎたようだな」

 僕はあやめの肩を抱いて、あやめの分も会計して外に出た。欽ちゃんの立て看板と、電球がむき出しになったちょうちんの光が、道路の板石に当たり、鈍い光を反射していた。

「セイ~あたしは間違ったこと言ってるのか?」

「大丈夫。言ってないよ。ただ、酔っ払って言うと説得力がない。酔っぱらいの話なんか話半分で聞くだろう? 適度に心が開放されたほろ酔い気分のとき、いろいろみんなに聞いてもらったらいい。きっとなにかしらためになる言葉や、やさしい言葉が返ってくるに違いない。ただの飲み友達でも侮れないぞ。場合によってはなにかしら新しい世界が見えてくるかもしれない。僕は欽ちゃんがそんなお店だったらいいなと思ってる。だから改めてみんなに話そう」「うえーん」

 あやめはあからさまに、声を上げて泣き出した。彼女はアスファルト道路にうずくまった。僕はしゃがんで、しばらく彼女の前でじっとしていた。彼女が顔を上げて赤い目を向けたとき、僕はハンカチを差し出した。彼女は鼻をすすってからうらめしそうな顔をしたが、何も言わず僕の手から素早い動作でハンカチを奪った。奪ったハンカチに顔を埋めるようにして涙を拭ってから、ふらふらと立ちあがった。僕は立ちあがるときに手助けしようと手を伸ばしたが、ゆるい抵抗力で振り払われた。僕にできることは限られていると強く感じたが、無力感にさいなまれることはなく、むしろ清々しくほほえみが漏れるほどであった。

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