二〈あやめ〉

 あたしはセイのマンションで酒を飲んでいた。オートロックのすぐれたマンションである。コンクリートで囲まれたマンションはしんしんと冷えて、ファンヒーターの風が届くエリアの外は多少のいら立ちを覚えるほど寒かった。セイの家のなかは相変わらず整理整頓されていて、生活感がなかった。いつか寝たベッドが妙に懐かしく、枕に顔をうずめたときの香りがよみがえってくるようだった。今日もまた、そこに顔をうずめるのかもしれない。安心感があるようで、不安感があるようでもあった。セイと過ごす夜は、いつもそんな感情がつきまとった。

缶チューハイとビールで乾杯した直後、待ち構えていたようにセイが口を開いた。

「やはり、あやめは非常に危険なことをやったようだ」

 セイはスマートフォンの画面を見ながら、あからさまにとがめる口調だった。批判ばかりのツイッターか、わたし個人の特定合戦が繰り広げられている掲示板を見ていたのだろう。スマートフォンの画面の光が、下からセイの顔を照らしていた。

「そんなこと改めて言われなくてもわかってるよ。さんざん警察でも言われたし」

 わたしは飲んでいたビール缶をテーブルに叩きつけた。鋭く乾いた音がして、部屋のやわらかなものに吸収されて消えていった。セイはスマートフォンを見るのをやめ、左手で頭を抱えるようにした。しばらくきつく目を閉じてから、深く息をした。

「テレビ出演したことで勢いは収まったけれど、まだ住所を特定しようという動きがある。住所を特定されてしまえば、真由子さんたちにも迷惑がかかるかもしれない」

 セイは声を荒らげることはなかったが、腹の底から出したような重苦しい声だった。コンクリートの壁に反射したきわめて短い余韻のあと、ファンヒーターの音が時を刻むように空間を支配していた。空間は退屈そうにつぎの言葉を待っていた。

「なんでそんなに説教くさいの? いままであたしがいろいろ自由にやってきてもそんなこと言わなかったのに」

 わたしは眉間にしわを寄せた。セイの家までこんな話をしに来たわけではなかった。ふたりでゆっくり楽しい酒を飲みに来ただけなのだ。できることなら、たまには寄り添うくらいはしたかったのである。

「今回はいつものとは違う。あやめはいろいろな人を巻き込む可能性のあることをやったんだ」

 セイは缶チューハイを手にして、酒の入った血走った目でわたしを見つめ、異論を認めない断定的な口調でそう言った。わたしは多少いら立った。

「でも、あたしはすべての人質を解放した。犯人をぶちのめした。それが結果なんだよ。あたしが動かなければ、誰かが殺されていたかもしれない。あたしはあの時点で、最善の手段を取ったつもり。なんと言われようが、あたしはなにひとつ間違ったことはしていない。最後まで結果はわからない。だからあたしの信念でやった」

 なんの計算もなく思いに任せて一気に言った。言ったあと、深いため息をついて窓の外に目をやった。雲のない空は月齢不明の月明かりで白かった。

「人間万事塞翁が馬というわけか。あやめは今後起きる良いことも悪いことも、すべて受け入れていく覚悟があるってことなんだな」

「あたりまえじゃない。あたしが課長をぶんなぐって会社を辞めたのだってそう。あの出来事があったから、いまこうやってセイと話してるんじゃない。あたしの行動を否定するんだったら、あたしとセイの出会いを否定してるようなものよ」

 わたしは状況に似合わないセンチメンタリズムに襲われて、語尾につれて声が震えた。出会いを否定するという言葉が、思いのほか深刻な響きに感じられた。

それからしばらく沈黙が流れた。お互い何度か酒をあおったが、喉が鳴る音もしなかった。わたしは飲んでいるビールが空になったので、セイの冷蔵庫を勝手に開けて、つぎの缶を取り出して口を開けた。冷蔵庫にはわたしが飲む分と、セイが飲む分が簡単に仕分けられていた。ただし泥酔した場合はこの限りではない。

「この話はもうやめよう。お互いを傷つけるばかりだ。僕はただ、あやめとあやめが大切にしている人たちが傷つかなければいいなと思っているだけなんだ」

 セイの言葉に嘘はないようだった。しかし、そもそもそっちから話しはじめたのに、と思わずにはいられなかった。セイの優しさはときに押しつけがましくもある。

「もし住所を突き止めて家にくる人がいたら、直接話してみようと思う。インターネット上でのやりとりなんてまわりくどいことはしない。直接話すだけで済まないようなら、あたしは真由子さんのところを出る」

 セイが再びスマートフォンでインターネット上の動きをチェックした。セイはびっくりしたような顔をして、すぐに憂いを帯びた顔を見せた。わたしは自分にとって不都合なことが起きているのだと覚悟した。

「あやめの卒業アルバム写真が貼られてる」

「えーっ! 見せて!」

 スマートフォンをひったくるような勢いで飛びついた。セイはあえて見せまいとして、上げたり下げたり右左によけたりしてわたしをからかっていた。

「髪長いな」

わたしはセイの手からスマートフォンをひったくった。

「あーっ、高校のだわ! 絶対笑わないと決めていたのに写真屋のおっさんに無理やり笑わせられて、中途半端な汚い笑いになってるやつだ!」

 当時の撮影風景を思い出し、写真屋のおっさんへの怒りがこみ上げてきた。笑顔を撮るというプロとしての仕事をまっとうしたには違いないが、何枚か撮って選ばせるくらいの余地は残しておいていただきたいものである。

「住所も載ってるな。でも、真由子さんのところじゃない。もしかして実家?」

 わたしから一度引き取ったスマートフォンを操作し、再び差し出した。その画面を見たとき、わたしは方頬に勝ち誇ったような笑みを浮かべた。この情報を晒した人間に、賞賛の拍手を送りたかった。このまま勘違いされ続ければ、わたしに怖いものはない。

「それ、おじいちゃん家の住所だ。高校生のとき、親の仕事の関係で住んでいたんだよね。卒アルにはおじいちゃん家の住所が載ってるから、それを晒したんだな」

 おじいちゃんの家がある千葉の中途半端に栄えた街を思い出して、漁港独特のにおいが鼻によみがえってくるようだった。

「なるほど。それにしても、おじいちゃんが面倒に巻き込まれる可能性があるな」

 セイはまだ状況を憂えている。老人がいやな思いをするのは避けたいのだろう。

「大丈夫。なんつったって、おじいちゃんは元ヤクザの組長だから。どんな火の粉も振り払うと思う。家は四方八方監視カメラがついているし、高い壁が家をぐるりと一周している。ヘタなことはできないはず」

「だからあやめはヤクザ映画が好きなのか」

 セイはやっと腑に落ちたという感じで抑揚をつけて言った。わたしは子供の頃からヤクザ映画をみて育ったのである。特に好きなのは実録シリーズだ。

 話に一区切りがつくと、空腹が襲ってきた。わたしの家には食材がなく、食事を抜いて来たので胃痛がしてきていた。薬を飲むほどではないが逆流性食道炎なのだ。

わたしはそわそわし始めた。やがていらいらもしてくるだろう、要するに、

「おなかすいた。なんか食べたい」

 という要求であった。

「なにか作ろうか? 出前?」

 作ってもらうのはどうにも悪い気がした。セイはすっかり酔っていて、作るのは面倒に違いない。出前だとしたらピザか寿司である。出前の魅力は捨てがたかったが、いったん外に出てみたいという気分のほうが強かった。わたしは思い切って、

「気分転換にどっか行こう。面倒じゃなければ」

 と言った。すると、

「全然。支度しよう」

 と待っていたかのように言った。外食という選択肢がもともとあったのだろう。

 セイはすぐに部屋着からいつもの小奇麗な格好に着替え、身支度を整えた。惚れ直すというほどではないが、その清潔感にあたらめて好感を持った。わたしも少しだけ化粧と髪の毛を直して、それなりに見られるようにはなっていた。

 狭い玄関でブーツや靴をやりとりして、わたしたちはマンションを出た。あたたかいところから急に寒いところに出るのはつらいが、一気に外出気分に持っていかれるのは好きだった。ガラス張りの高級そうなエントランスを抜け、風が痛い外に出た。

マンションを出て駅前のほうにあるいて行くと、遠くからだったのではっきり見えたわけではないが、北口の大通り沿いにあるファミレスの近くに、見たことのある人影があった。出てくる人を待っているんだが、これからくる人を待っているんだか、ちょっと見当がつかなかったが、山崎くんにとても似ているような気がした。

「あれ? 山崎くんじゃない?」

 目の悪いわたしは眉間にしわを寄せて言った。質問というより確認であった。

「確定的なことは言えないが、おそらくそのようだな」

 セイは山崎くんの心理状態まで探ろうとするような目つきをして言った。

「まわりきょろきょろしててめっちゃあやしいんだけど」

 山崎くんは誰の目に見ても挙動が怪しかった。両手をもみ合わせ、上着のポケットに手を突っ込んだ。貧乏ゆすりでもするように、からだ全体を揺らしていた。

「これは話しかけないでスルーするのがよいかもしれないな」

 セイは探るような目つきのまま、山崎くんの状況を自分の状況に置き換えたような態度で発言した。自分自身も経験したことのある状況なのだろうか。

「なんで? ロジックで考えるセイにしちゃあ直感的な意見だね」

 セイはもともと文系だが、数学者にあこがれているにわか理系なので、普段はロジックで考えるように努力しているのだ。

「あの動きは教室で居眠りしていてビクッとなってしまって、それが恥ずかしくて誰も見ていないか周囲を確認したときの状況に似ている。これが根拠だ。彼はいま、誰かに自分の存在が認められるのを極度に嫌がっているに違いない」

 セイは想像力を極端に働かせた。

「そこまで言うなら追求はしまい。のちのちタイミングをみて聞いてみるよ」

 わたしたちはこっそり山崎くんに気づかれないように移動した。なにも悪いことをしていない自分たちがこそこそしなければならないことにとても窮屈な思いがした。

わたしたちはその場所を離れて路地に入り、昔ながらの定食屋に入った。元はとんかつ屋だったが、それだけではやっていけないので、必然とメニューが増えていったというパターンのお店だった。近くに学校があるので、学生向けに普通盛りでも量が多い。

セイはカツカレー、わたしはカツ丼を食べた。元とんかつ屋の看板を背負っているだけに、両方とも美味であった。わたしは生ビールを頼み、セイは常温の日本酒を一合頼んだ。ビールサーバーの管理が悪いようで、すえた香りのする生ビールが出てきたので、わたしは機嫌を損ない、こういう場合にいつもするように、瓶ビールを頼み直した。グラスを二つ用意してもらって、以降セイと瓶ビールを何本か空けた。

「飲みにきてる客にさあ、仕事なにやってんの? って聞くの野暮だよね。無職の人だったら気分悪いじゃんね。適当な職業をでっちあげてかわせる話術がありゃいいけど、それができない人にとっちゃあ一種の刑だよ。いまは真由子さんのとこでけっこうがっつりバイトしてるからあたしはいいけどさ」

 わたしは自然と沸きあがる怒りを抑えるために指の関節を鳴らした。

「酒飲んでるときに仕事の話ばっかりするのも考え物だな。以前、演くんが欽ちゃんのお客さんに文句言ってたな。酒飲んでるときくらい小難しい仕事の話やめて楽しい話しましょうよって。べろべろだったから相手にされてなかったみたいだけど」

 演くんは駅前で弾き語りライブを行っている二十歳の若者である。見た目はおとなしそうだが、意外にアグレッシブである。酔いすぎると面倒くさい。女好きには見えないが、実際はやることをやっていて、最近自分が意外にモテることに気づいたそうである。

「やっぱりさあ、資金もないし具体的になにからやっていいのかわからないし、ただなんとなく思ってるだけなんだけど、雑貨屋やりたいんだよね」

「自分で経営しなくても、雑貨屋店員の求人くらいあるんじゃないか? 今後自分が開業するときのためにも、働いてみるのは悪くないと思うよ」

 セイが言うのはもっともで、実は求人雑誌で雑貨屋店員の仕事がないか調べたことがあった。しかし、ありそうでなかなかないのだ。自分の好きなものがいかせて、それでいて条件のよい仕事は、なかなか手放さないのであろう。

「まあね。でもまたあたし喧嘩しないかなあ」

 わたしは飛び出しそうなほど目をむいて、拳を振って目の前の人を殴るフリをした。

「世の中そんなに嫌な奴ばかりではあるまい」

「嫌な奴ではない人間を嫌な奴に変えてしまう能力があたしにはあるような気がする」

 セイはちょっと嫌な顔をした。

定食屋の高い位置におかれているテレビに信金強盗の映像が流れていて、もちろんわたしの姿も映っていた。しかし荒い映像なので、定食屋のほかの客が目の前のわたしに気づくことはなかった。気づかれたところで、適当にあしらうだけだ。ただし喧嘩腰でこられたときはこの限りではない。

 わたしたちは油くさいニオイを全身にまとわりつかせたまま定食屋を出ると、近くにある駅前で唯一まともなオーセンティックバーであるクリープの前にたどりついた。クリープの大きい重みのある扉を引くと、いつも通りセンスのいいジャズが外まで漏れてきた。店内はいつも通り、上等な大人の雰囲気が漂っていた。

「いらっしゃいませ」

 バーテンダーは綺麗に洗われたカッターシャツとしっかりした生地のベストがきまっている。自然とわたしたちも背筋が伸びて、かしこまった感じになる。

「今日はおふたりで。どちらかへお出かけでしたか」

 ふたりで何回かお店に来ているので、関係性は理解されていた。さりげなく話題を引き出そうとする気遣いのある態度が心地よく、むしろ積極的に話したくなってしまうのだ。

「いや、特に。セイの家でお酒飲んで、多少いざこざがあって、気分転換に定食屋に行ってきました」

 バーテンダーは笑った。彼の笑いかたは独特で、生やした髭が歪むのと一緒に妙に記憶に残る。今日のことも、記憶にしっかりと刻まれるだろう。

「ご注文は」

 わたしはいつも通りブラッディー・シーザー、セイはタリスカーの10年を注文した。セイはどういう気分の揺れなのかわからないが、タリスカーかラフロイグかアードベッグを頼む。セイはラフロイグをストレートで注文した。

「カスミちゃん、ルミちゃん、あと誰だっけ――ユウコちゃんとは最近会ってる?」

カウンターのいちばん奥に座って酒を飲んでいた中年の男性がセイに対してそう言った。よく名前を覚えているなと思った。女たらしに違いない。バーテンダーは、余計なことを言ったなという顔をしていた。

「もちろん仕事場では会いますよ。プライベートではまったくですね」

 本当かよ、という言葉が頭のなかをさっと通り過ぎた。敵視しているわけではないが、もやもやするには違いなかった。最近、セイのスマートフォンのカメラロールに、三人のなかでもいちばん浴衣姿が似合いそうなカスミちゃんの写真が保存されているのを発見したからであった。

写真といってもセイとふたりで写ったものではなく、ハロウィンのときの仮装した彼女の姿をおさめたものだったが、白い肌に真っ赤な唇が鮮やかで、自分にはない若さと魅力がわたしの女心を刺激した。アップにした髪が浴衣にとても似合いそうで、夏祭りのときセイが、

「浴衣姿の女は素敵だ」

 といって目で追っていたときの記憶を思い出させた。彼女は間違いなくセイのタイプだ。事情を話してハニートラップとしてセイに送り込んでみたいが、取り返しのつかないことになりそうなので、ちょっと想像しただけで戦慄した。わたしは基本的にも応用的にも自分に自信がない。わたしはもやもやを消すために、手元のブラッディー・シーザーをいつもより多いひとくちで飲んだ。

「昨日、立てこもり事件があったの知ってます?」

 とわたしは言った。特になんの感情も乗せずに言ったつもりだったが、内心得意になっていたのは読み取られていた気がした。

「知ってますよ。あれ、あやめさんですよね」

 バーテンダーは知ってて当然という顔をした。いつその話を切り出すのか待っていた様子であった。わたしは急に恥ずかしくなった。

「うわぁ。知られていたか」

 わたしは照れ隠しに芝居がかった動きで大げさにカウンターに突っ伏した。

「あやめさんのことをご存知のかたなら、あの映像をみたら一発でわかると思いますよ」

「まあ仕方ない」

 セイが軽く言葉を挟んだ。

「あれ君なの?」

 さっきの中年の男性が言った。どこか馬鹿にしたような調子だった。反射的に、

「はい」

 とぶっきらぼうに答えた。

「驚いたな。インターネットで騒がれてるだろ」

 と男性は言いながら、そっぽを向いてロックの茶色い酒を傾けていた。

「そうなんです。いまどうなっているかちょっと見てみます」

 わたしがちょっといらいらしていると気づいたのか、セイが代わりに応答した。セイはカウンターの手元に置いたスマートフォンを取り上げて操作した。

「おっ、ウェブ検索の急上昇ワードと、ツイッターのトレンドワードの第一位が『缶詰』になってますね! 立てこもり女はランキングから消えました」

 セイは嬉しそうにめずらしく大きな声で言った。スマートフォンの画面をわたしのほうに向けてきたが、わざわざ確認するのも面倒なので反応はしなかった。

「いぇーい」

わたしの話題は、その日から急に下火になった。缶詰工場のラインで蟹の缶詰に唾を入れる動画をアップロードした学生の出現で、皆の興味はそちらに引っ張られたからであった。そのときほどバカに感謝したことはない。人のことは言えないが。

「祝杯だね」

 といってわたしはセイと乾杯した。これで完全に終わるとは思っていなかったが、とりあえずの安心は得られたのである。なによりも真由子さんたちに害が及ぶことは避けられただろう。

わたしたちが二杯目に取りかかっていた頃、入口ドアの鈴を鳴らしながらひとりの男が店内に入ってきた。照明を落とした店内だったが、わたしはすぐに誰かわかった。猫背で上着のポケットに両手を入れるという、いつもの冬のスタイルだった。

「あれー? 山崎くんじゃん」

 単純に山崎くんが来たという驚きと、どうもあやしいなという疑いが共存していた。

「びっくりした! あやめか。偶然だな。よく来るのか?」

 と言って山崎くんは、はじかれたように猫背を起き上がらせた。

「ちょこちょこ来る」「俺は、はじめて来た」「どっか行って来た?」「いや、家から来た」

 と言っていた山崎くんだったが、無論わたしとセイはさっきファミレス前にいる山崎くんを見かけているのである。わたしに嘘をついているということは、よほどの理由があるに違いない。いずれ話してくれるだろうから、いま追求するという無遠慮な真似はしなかった。

セイとわたしは立てこもり事件や缶詰事件についてあれやこれやと会話し、一時間ほどが打ち過ぎた。席が離れていたせいもあって、山崎くんとはまったく会話をしなかった。

わたしとセイは会計を済ませて店を出ようとした。そのときまだ山崎くんはクリープの長いカウンターのなかほどで、ミックスナッツをつまみにサントリー山崎のハイボールを飲んでいた。彼はわたしたちに目を合わせないような形で軽く礼をしただけだった。

外は重々しく冷えていた。わたしはコートのポケットに手を入れて、マフラーに顔をうずめた。セイは一度月を見上げるように上を向いたあと、帰り道の方向に目を向けて、

「あやめには隠し事をせずなんでも話すんだろう? なにかあやめとふたりだけで話したいことがあるのかもしれない。いまはまだ話す時期じゃないと思っているのかもしれない」

 と言った。

「そうか。そういうことか」

 わたしはいままでの山崎くんの行動や態度を振り返って、過去の山崎くんデータベースと照合して、勝手に結論をくだした。

「なんだ。ひとりで納得して」

「女性関係。彼の悩みはこれだ」

「僕もそうじゃないかと思ってた。さっきは女性とこっそり会っていたんだろうな」

 わたしたちはセイの家に向かって歩き出した。わたしはちょっと歩いてすぐ立ち止まって、セイがさっきしたのと同じように、月を見上げるように上を向いた。しかしそこに輝く月はなかった。雲がかぶっている様子もなかった。理由はわからなかった。

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