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第八章
かつてシンガーは殺し屋に間違われたことがある。現在勤務中のコンビニの面接に行く際、同チェーンのコンビニの閉店で職を失った彼に本部の社員の紹介という情報伝達が文字を伴わない口頭で行なわれた為、発音が似ていた全く別の店舗に行ってしまったのだ。何の約束もしていないのに謎の鞄を持った黒ジャケットの男が面接に来たそこの店長はきっと命が狙われていると思ったに違いない。のこのこと事務所から売り場に出れば確実にあの鞄の中のサウンドサプレッサー付きの22口径自動拳銃で額を撃ち抜かれるに違いないと《ゴッドファーザー》のワンシーン風の空想が駆け巡ったはずであろう。ただその店長にそんな空想が駆け巡ったたかどうかは所詮シンガーの空想でしかないので、かつてシンガーは殺し屋に間違われたであろうと空想したことがあるというのが最も正確な表現である。その《ゴッドファーザー》のワンシーン風の空想において具体的に《ゴッドファーザー》三部作のどの作品のどのシーンを最も参考にしたのか。それは一作目の前半部のレストランにおいてマイケル・コルレオーネが事前にトイレの貯水タンクの裏に隠したリボルバーでソロッソと警察署長を射殺したシーンであった。状況とかロケーションが大分違うのでそれをそのまま再現する訳にもいかないが警察署長が食事中に殺されるというのを参考にして店長にはなんかこうサブマリンサンドイッチかなんかを食べながら売り場に登場して欲しいというのがシンガーの演出プランだった。不機嫌そうな表情で、面接の約束なんかしてねぇーぞ的なセリフを言いながら歩いて来るところをシンガーが絶妙なタイミングで銃を鞄から取り出し間髪入れずに顔面に二発発射。プシューッと噴出する血しぶき。店長は突っ立ったまま真後ろにダーンッと転倒。悲鳴を上げる女性店員。床を転がるサンドイッチ。銃をやや上に上げた上で手を離して銃を床に落としてからその場から歩き去るシンガー。出来ればこんな感じにして欲しいというのがシンガーの希望だった。シンガー自身の空想なのでそもそも全てシンガーの希望通りにはなるはずではあるのだが、これが本物を暗殺計画となれば何もかもがシンガーの希望通りとはならないのは世の常であろう。それにそもそもシンガーがマジックからサイオンの中で話を聞いた段階ではそれが殺しの仕事だということはそれとなくは仄めかされたがはっきりそうだと言われた訳ではない。その上、実際にその任務に採用されるには組織の幹部クラスにある人物と面接しなくてはいけないらしい。コンビニ店員の面接とは違い殺し屋の採用試験となれば一体どんな服装でどんな態度で臨めばいいのだろう。本屋にはその種の就職試験対策参考書は置いてないはずなので全てシンガー自身の空想でなんとかやりくりするしかない。彼にはその仕事が是非とも必要だった。提示された報酬は五百万円だった。彼の中古のセリカは長年しつこく乗り続けた所為でメンテナンスを担当していたトヨタ系ディーラーからの執拗な「早く新しいクルマを買え」プレッシャーに彼は晒され危機的な状況にあったのだ。五百万あればギリギリA90スープラが買えるし、数年待てば次期86が買える。シンガーにとってそのカネは法を犯してでも欲しいカネだった。
そもそも仕事をクビになる以前に面接で落とされまくっていたシンガーは面接が苦手で大嫌いだった。出来る事ならそんな物はもう一生したくなかったのだがスープラを買う為だったら仕方有るまいと思った彼は酒でも飲んでから行くことにした。ただ酒を飲むだけだったらスーパーでバーボンを買ってセリカでラッパ飲みしてから行けばいいだけだったが、折角飲むのだったらどこかバーに行ってキラキラした照明と客の喧騒と雑音といった名も無き人々が形作る街の活力を肌に感じながら酒に酔いしれたい。そう思ったシンガーはどこか〈アルテミス〉以外のなるべく安いバーに行ってみたいと思った。なぜなら面接は〈アルテミス〉の中にあるVIPルームで行なわれるので面接の前に同じ場所で酒を飲んでたら多分都合が悪そうだったからである。そんなことをふとマジックに漏らすと彼もそれに付き合いたいと申し出たので、情報誌で探した〈バウンシー〉というバーで待ち合わせすることとなった。
群がる客引きによる恐るべき総攻撃を巧みに回避しつつようやく〈バウンシー〉の前に到着すると自動ドアを通って入店した。中のテーブル席では仕事帰りと思しき数人の集団がカラオケを歌いまくりながら大騒ぎしていた。威勢がいいなと思いつつカウンター席に着くといつものようにジン・トニックを注文した。バーテンは涼しげな目とボブにした黒髪が特徴的な女性で貰った名刺にはユミコと書いてあり、その店ではバカラというブランドのグラスを使っているという解説をしてくれた。いろんな国の王室でも使っているブランドらしい。そのバカラに注いだジン・トニックを貴族的な気分で飲んでいるところへマジックも合流し一緒に貴族的な酒を飲み、適当に盛り上がりそうな曲を歌いまくってから店を出ると〈アルテミス〉へと向かった。二時間くらい居てカラオケを無数に歌いまくりジン・トニックを六杯飲んで一人三千円だった。衝撃的なコスパだな。絶対また行こうとシンガーは心に誓った。途中でラーメン屋でラーメンを食べ、ファイヤーマートでアーモンド・チョコレートを買ってから〈アルテミス〉に到着すると結局またそこでジン・トニックを注文しチョコレートを食べながらそれを飲んでいる最中にタケザキに声を掛けられ一度も足を踏み入れたことのないそもそも存在すら気づいていなかった謎のVIPルームのある方向へと案内された。シンガーとマジックは入口の前で門番をしていた五十代の大柄なボディガードに身体検査された。酔っていたシンガーはふざけて《ブラック・レイン》のガッツ石松のモノマネをしてみた。
「アーモンド・チョコレートしか持ってねぇよ」
普通面接会場でそんなことを言ってたら不採用になるはずだったが面接の前に銃や刃物で武装していないか身体検査するような普通の面接ではなかったので武器を持っていないことを確認すると二人は中へと通された。
「オオ、よく来てくれたな。まあ、座ってくれ」
VIPルームのテーブル席の奥中央にクロカワとマヤが座りその両脇に護衛と思しき目付きの鋭い手下が二名座っていた。組織の幹部であるクロカワは非常に友好的な雰囲気で、テーブルの上のメロンやシャンパンなんかを勧めてくれた。いいね。束の間の歓談の後、クロカワは手下に目配せし部屋から出るよう指示してからマヤに言った。
「マヤ、ちょっと仕事の話があるんだ。悪いが外してくれないか」
「もちろんよ」
シンガーは優雅に歩き去るマヤを懸命な努力で全く興味が無いような無関心な目で眺める振りはしたが、その実、その圧倒的な美しさで気を失いかけていた。ある種の美はほぼ凶器に匹敵する破壊力を備える。そんな命題が自然にシンガーの頭に浮かんだ。ゲーテかオスカー・ワイルドが言いそうな命題だな。何でも何か思い付いたらゲーテかオスカー・ワイルドが言ったってことにしていたシンガーはそう思った。
「これが標的だ」
クロカワはテーブルに数枚写真を置いた。シンガーは食べ終わったメロンの皿をテーブルに置き写真を手に取った。標的の写真を見せるってことは我々は採用になったってことなのか? いや、そもそもここに来る前から既に採用にはなっていたってことだったのかもしれん。ファミレスの勘定書きを見るような何気なさを装って写真を見るとほっそりとした体にフィットしたスーツをノーネクタイで着こなした老紳士と彼を護衛する屈強そうな表情の護衛役が映っていた。こいつら見たことあるな。確か、ビリーの家で偶然見たあいつらの写真じゃないか。確か、名前は――
「コバヤシ会長……ですよね」
クロカワはシンガーの推量に頷いた。
「よく知ってるな」
「一度お見かけしたことが」
「そうか。この方は我々の組織のトップだ……どういうことか分かるな」
「ええ、権力闘争の一環ってことですよね」
「……この仕事に関しては一切を他言無用だ。さっきいた若い衆もこの件に関しては何も話していない。知ってるのはタケザキくらいのものだ」
「分かりました」
「そっちはどうなんだ」
クロカワはマジックに向かって言った。
「分かりました」
「よし、いいだろう。今日はこの辺にしておこう。後は好きなだけ飲んで行ってくれ。俺の奢りだ」
「それはどうも」
シンガーはそう言い、マジックと共にVIPルームを出た。奢りと言われても既に七杯もジン・トニックを飲みシメのラーメンとチョコレートも食い終わりすっかり満足してしまっていたシンガーはとっとと帰ることにした。早く帰って早く寝て起きたらスターバックスに行ってコーヒーを飲みながらNBC《ナイトリー・ニュース》で世界情勢を確認してから《白痴》を読み、セリカでペプシを飲みながら歌の練習をし、帰宅し、食事し、就寝してからまた起きてファイヤーマートで夜勤をしなくてはならない。そういつまでも酒を飲んでる訳にもいかんのだよ、そこらのゴロツキとは違う堅気の労働者なんだから。レジで弁当やサンドイッチやパンやお菓子を民間人に供給し、若い先輩女性店員からは「お菓子にはおしぼりを付けなくていいです」と厳しく注意され打ちひしがれた気分で帰宅しペプシを飲みながら《ニード・フォー・スピード》の自己ゲームプレイを鑑賞してからまた歌の練習し、そしてまたファイヤーマートで夜勤し先輩から無数に注意されるといった日常が永久反復する。ニーチェは永劫回帰という術語を使ってヘーゲル的弁証法による絶対精神への止揚を否定しようとしたが、シンガーは逆にその退屈で反復的な個人的永劫回帰としての日常に対抗するアンチテーゼとしての幻想的且つ魅惑的な個人的絶対精神への道を阻む壁を破壊し一歩足を踏み入れたいという欲望の虜になりつつあった。ニーチェにおいては絶対精神などという平和主義的且つユートピア的価値観こそ退屈且つ凡庸で古典主義的な英雄崇拝や戦乱の勝利における栄光こそが人類の未来を切り開くという特有の価値観においてこそ永劫回帰という術語を使いたかったのであろうが、シンガー自身にとっての個人的永劫回帰は非日常的冒険への憧憬のもとに単に殲滅せしめるべき物でしかなかった。敵を倒し、報酬を手に入れ、ハイパワーなクルマを買い、超越的なスピードに陶酔したかった。そういった超越的存在への憧憬という一点においてはシンガーもニーチェに近接した価値観を根底においては共有していたと言っていいだろう。
敵を倒すにはまず武器と計画が必要だった。案外ちょろかった面接試験をパスしシンガーは事前準備フェーズへと移行した。クロカワはこういった極秘任務の遂行にあたっての前線基地として使用できる大きな倉庫を備えた廃工場を郊外の丘の上に所有しおり、そこの私道へ三台のクーペが乗り入れた。三台は雑草だらけの駐車場に到着しカマロから降りたタケザキがFR―Sのマジックとセリカのシンガーを引き連れ操業当時は電子デバイスを製造していた工場建物の入口へと向かう。三人はシャンデリアが吊るされた吹き抜けの玄関ホールを通り奥の会議室へと進む。三人はコの字に配置された折り畳み式長テーブルの脇にパイプ椅子を設置しそれぞれ着席するとマジックとタケザキは早速と言わんばかりにラッキーストライクのソフトパックの中から一本取り出し火を点けた。当然、シンガーは高音が出なくなるので喫煙においてはそれを眺めるだけだった。十年前にほぼ何の苦労もなく自然と煙草を止めたシンガーは最近では酒も週に一、二回しか飲まなくなりセリカのセルフパーティーで飲む物は人工甘味料がたっぷり入ったペプシに限られた。ペプシでも意外と甘さとカフェインと炭酸のお陰で結構いい気分になれたので以前のように週八ペースでアルコールを流し込まなければ生きて行けないという人生のフェーズから脱却することに成功した。そもそも三十代は日々をとことん楽しまなければならないという義務感から毎日酒を飲まなくてはならないという強迫観念に支配されていた。その頃からこれをこのまま続ければ人生の早目な段階で何らかの恐るべき病気、多分ガンになり莫大な治療費に苦しめられるだろうとは先代と先々代の死に方から類推はしていたので四十代前半で飲酒量は大幅に減少させなくてはならないと思ってはいたのだが丁度ストレスで胃腸の調子が悪くなった時、酒の所為かもしれないと思ったことをきっかけに平日の飲酒をきっぱり止めペプシに切り替えた。人生にもすっかり飽きたので死ぬのは平気だが、ガンでカネが掛かるのは大いに困る。そういう四十代的価値観で生活習慣を改革したシンガーは三十代の二人が将来起こり得る恐るべき危機を一切気にすることなくラッキーストライクを吸う様をまだ気楽でいられる若者の姿という観察対象としてノスタルジックに眺めたのだった。
「まず最初に」タケザキが口を開く。「昼メシどうする?」
時刻は丁度十一時四十五分頃だった。マジックが続ける。
「どこか食いにいこうか。みんなで」
シンガーは同意する。
「いいね」
「マック?」
「ラーメンは?」
「中華料理屋にしようか?」
「どこ?」
「〈クマハッチン〉は?」
「いいね。行き易いし」
「妥当な線だな」マジックはシンガーに確認した。「〈クマハッチン〉でいい?」
「いいよ」
「よし。決まり」
「じゃあ」タケザキは言った。「始めようか」
彼は現段階で決定済みのコバヤシ会長襲撃計画の概要から始めた。短機関銃と自動拳銃で武装したマジックとシンガーが二台の盗難車で会長と二名の護衛が乗るポルシェ・パナメーラ・ターボを強制停止させ敵全員を無力化する。ロケーションや細かいクルマの動きや何かはこれから詰めるとし、武器と車両は既に準備済みということだった。シンガーは提案した。会長はたまに日曜日になるとシェイカーの自宅にチェスをしに行くって話だから日曜日にビリーの家の周辺で張り込みしてパナメーラが出て来たとこをどこかで待ち伏せしたらいいんじゃない?
「いいね」
「最高だな。決定だ」
三人は更にどこでどのように待ち伏せしどのような段取りで攻撃するかについて細かい議論を重ねた。その細かい議論という名の悪企みが終わるとすっかり腹ペコになった三人だったがまだ終わりではなかった。タケザキは会議室の壁際の戸棚から武器の入った鞄を出しマジックとシンガーはそれらの動作を確認し予備のマガジンにもキチンと装弾されているかどうか等の確認作業を終えてから車両の確認の為倉庫に移動した。倉庫はテニスコートほどの広さで中に二台の盗難車が置かれていた。共にダークグレーのZ33型日産フェアレディZとS15型日産シルビアだった。マジックはシンガーに言った。
「先に好きな方選んでいいよ」
「いいの? じゃんけんとかしなくて」
「いいよ」
「じゃあ、シルビアだな」
「だよな。じゃ、俺は33で」
彼らは倉庫の車両用扉を開くとそれぞれの盗難車に乗ってエンジンを掛け、敷地内で試験走行を始めた。二台の日産車は工場建物の周りを一周するとまた倉庫内に戻ってクルマから降りた。両車とも機関良好で何の問題も無かったが相手がパナメーラ・ターボとなるとどうなるのか正直全く分からなかった。それはそれで何とかやりくりするしかあるまい。といったところで本日の予定も順調に消化し終えた訳で既に一時半になっておりちょっと遅めの昼食へと出掛けようかという話になった。
三台のクーペが〈クマハッチン〉の駐車場に到着すると三人はクルマから降り引き戸を開けて店内に入った。地元密着型の非フランチャイズ店らしい手作りの写真付きメニューを眺めてから店員を呼ぶと彼らは中華丼、タンメン、五目チャーハン、瓶ビール大、ぎょうざ、春巻、野菜炒め等を注文する。タケザキはシンガーに聞いた。
「お前もビール飲むだろ?」
「いや、俺は飲まないよ。クルマだから」
「そうか」
シンガーの月極駐車場は〈クマハッチン〉から半径約百メートル以内というとんでもない近所だったが堅気のコンビニ店員として当然の応えを返すと店員に言った。
「後、コカコーラお願いします」
「すいません。ウチ、ペプシとなっちゃんオレンジしか置いてないんですよ」
「そうですか、じゃあ……」
ペプシあるの? 何となく普通はコカコーラしかどこも無いという先入観から注文したがペプシがあるならもちろんそっちでいい。瓶ビールと小さいグラスが来るとマジックとタケザキはまるで十八世紀後半におけるイギリス産業革命の起爆剤となった蒸気機関のような勢いでラッキーストライクを吸いながらビールを滝の如く流し込んだ。シンガーはそれを眺めながらいつものように人工的に化学合成されたゼロカロリーの甘さなコーラを少しずつ飲み炭酸の気持ちよさを堪能しつつ彼の注文したタンメンの到着を待った。
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