Pair Dancer

@Marks_Lee

第1話

「ただいま」


築数十年経つアパートの一室。ただいまという言葉の返事をしてくれる人はどこにもいなかった。


カーテンの隙間からは夕陽が差し込み、暖かな光が部屋に差し込む。ふと見るといつも食事で使っている机の上には置き手紙が一つ置いてあった。


目を通さなくてもわかった。彼女の字だった。


『もうあなたとはやっていけません。さようなら』


……どこで間違ったのだろうか。今までを振り返ってみても、どれが正しくてどれが間違っていたのか。それはいまだにわからない。


ただ、アパートの一室は彼女のいつも使っていた化粧品と香水の残り香がかすかに漂うだけだった。


彼女との出会いはいつだったか。今はそれすら思い出せない。ただ二人が付き合い出すきっかけはなんとなく覚えている。


あれは友人関係に悩んでいた頃だったから学生の頃だっただろうか。


友人に誘われていった飲み会で彼女と出会った。なんとなく話して、なんとなく話が合い、なんとなく今度会うためにと連絡先を交換した。


その後なんとなく付き合って、なんとなく一緒に暮らすようになり、たまに喧嘩もしたが、ほどほどに生活を共にしていた。


……彼女がいなくなってよくわかった。俺は何もできない。掃除や洗濯、食事なんかは最低限できるけどそこまでだ。


彼女のように、洗濯を2回に分けてするようなこともできないし、細かいところを掃除しようとも思わないから隅の方に埃が溜まっていく。食事なんかも、簡単に作ることはできるが手の込んだ料理を作ろうとは思えずいつも同じものをローテーションする日々。


それが俺に欠けていたもので、彼女が補っていてくれたものだと分かったのは、ずっと後になってからだった。


彼女が部屋を出ていってから俺もその部屋を引っ越した。

風のたよりでは、どうやらその後、彼女は他の誰かと結婚をしたらしい。その相手がどうも評判が良くないようで、周りからはあまり祝福されなかったようだ。


俺は彼女を忘れるために、仕事に集中した。その時、縁談も持ちかけられたが、仕事に集中したかったからと断り続けていたら、そう言うことを言う人も周りからはいなくなった。


平坦な時間の使い方をし続け、気づけば彼女が家を出ていってからは10年の時間が過ぎ去っていた。


ふと、昔のメールアドレスのことを思い出した。そのメールアドレスを開いて、中を見てみると、今日の日付のメールが一件。


宛先は彼女からだった。そのメールには、とある場所の日付と住所の明記がされていた。


『大変ご無沙汰しております。このアドレスも、今は使っていないとは思っていますが、メッセージを送らせていただきます。今度、教会でバザーをやることになり、メールをした次第です。よろしかったら、ご参加くださいますようお願いします』


おそらく、彼女は昔使っていたメールアドレスのリストを使い、一斉送信したのだろう。じゃなければ、昔別れた男にわざわざこんなメールを送ってくることもないだろう。


……とりあえず覗いてみることにする。決して、彼女に会いたいからではない。偶然にもメールをチェックしたから目に入っただけ。たったそれだけだ。


◇◇◇


後日、バザーの日。俺は教会へ足を向けた。


その教会は、そこまで大きくはない教会だった。扉を開く。締め切られた空間には光が差し込み、空には浮いた埃が光を反射して雪が降っているのかと間違えるほどに舞っていた。ベンチには、埃除けのためにだろうか。ボロ布で覆われ、講壇の横には、桃色の花が添えられ、一際鮮やかに見えた。


ここで合っているのだろうか……心配になりながら、周りを見てみると、奥の方から誰かが現れた。


掃除用具を片手に抱えた女性だった。その女性と目が合った。彼女だった。


彼女は確か俺と同じ年齢だったはずだが、そうとは思えないほど昔と変わらなかった。


「おひさしぶりです」


「来てくださったんですね……こんな格好でお出迎えしてごめんなさい」


昔は腰まで伸ばしていた髪は、少し明るい髪色をしたショートカットにし、服装も汚れてもいいように簡素な服を着て、袖を捲っていた。


「手伝いましょうか」


「お客様にそんなことさせるわけには……」


「いいんです。あと、できれば敬語はやめてくれると助かります」


「……わかったわ。あなたは?敬語やめないの?」


「ここ10年で習慣化してしまい、やめることができなくなってしまいました」


「それはお気の毒様……掃除、やってくれる?」


「わかりました」


二人して黙々と掃除をしていく。特に話すことはせず、ただただ時間が過ぎていくばかり。


掃除を終えると、教会の中は見違えるほどに綺麗になっていた。最後に、ボロ布で覆われたベンチを乾拭きして掃除を終える。


「手伝ってくれてありがとう。何もないけれど……お茶ぐらいだったら出せるわね。どうする?」


「いただきます」


「わかった。準備してくるからこっちついてきて」


教会の離れにある建物の扉を潜ると、そこはとても簡素な部屋だった。小さなテーブルセットにソファーが二つ。奥の方には、今は使われていない石積みの暖炉が鎮座していた。


「何もない部屋でしょう?今はここを間借りさせてもらっているの」


「立ち入ったことを聞きたくなりますがお一人なんですか?」


「その話はお茶を飲みながら話しましょう。さぁ、座って」


彼女に促され、ソファーに座った。しばらくすると、彼女がティーセットを持って、対面に座った。

紅茶の香りが鼻をくすぐる。注がれた紅茶は、口に含むと渋みのある味だった。


彼女と話した。何気ないことから、ここ最近あったちょっとしたことまでいろんなことを語りあった。


そうしてわかったことだが、結婚して宗教を変えたこと。結婚生活がうまくいかず離婚したこと。今は、知り合いの紹介でここに住んでいること。


俺は、ここ10年であったことを話した。話せることといえば仕事のことぐらいしかなかった。


「……お互い大変だったのね」


「長いようで短い10年でした」


「……そうね」


二人して紅茶を啜る。何も話さないこの瞬間が妙に居心地が良かったのはとても不思議だった。

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