恋の火
「おはよう」
バス停で美波に会い、翔子は朝の挨拶をした。
「おはよう」
「そういえば、あの後、何もなかった?」
翔子が聞いた。”あの後”とは、隣に引っ越してきた白鳥蒼馬のことだ。
「何もされなかったよ。隣は引っ越しパーティーしていて、少し騒がしかったけど」
美波はクスリと笑った。豪邸での楽しそうな笑い声を耳にしたことを思い出していた。
「初日から騒ぐとは、迷惑な一家だな」
翔子が毒づくと、「そんなことないよ」と美波は擁護した。
「ご両親が菓子折りとタオルをもって、ご近所回りしていたみたい。どちらも高級な品だったようで、私のお母さんは喜んでいたよ」
「ふーん」
バスが到着した。高校はこのバス停から8~15分ほどの距離にある。通常であれば早く着くのだが、交通状況によっては遅くなる。
「そういえば、昨日のドラマ見た? 火星婦のミケネコ」
バスに乗り込むと、翔子が聞いた。”火星婦のミケネコ”とは、火星からきた三毛猫みたいな宇宙人が何故か主人公の家で家政婦をするという話だ。
「見てない。寝ちゃってた」
「夜9時は早すぎない?」
「深夜に目が覚めて、ユーチューブ見ちゃった」
美波は大きな欠伸をした。
「ん、あれは?」
翔子はバスの後方に目を凝らした。
どんちゃかどんちゃかと爆音が聞こえてきた。2トンのデコトラがバスの真後ろにぴったりくっついていた。
「美波ちゃん、おはよう!」
荷台から拡声器を使って蒼馬が挨拶してきた。
「うわー、迷惑きわまりない。ドン引き」
翔子の顔は引きつっていた。美波はにこにこと手を振っていた。
「あんた、ああいうのやめなさいよ」
昇降口で、翔子がぴしゃりと蒼馬に言った。
「なんで? 僕の愛情があふれて仕方ないんだ」
蒼馬は前髪をかき上げた。
「迷惑だからやめなさい」
「僕の父親は権力者だから、文句のあるやつがいればなんとかできるよ」
彼の言葉に翔子は深く嘆息した。
「そういう問題じゃなくてさあ……。美波、いこ。馬鹿がうつる」
「おい! 僕はこれでもテストの成績はいいんだぞ」
蒼馬は馬のいななきのように言った。
一時間目は世界史Bだ。
蒼馬は、最初のほうは大人しく授業を受けていたが、ナポレオンの話になると、
「私の辞書に不可能という文字はない。美波ちゃん、結婚してくれ」
花束を出して求愛した。
二時間目は数学Bだ。
因数分解が出てくると、蒼馬は立ち上がり、
「美波ちゃん。僕と結婚して素数にならないか」
と喚き、花束を出した。翔子に殴られた。
三時間目は日本史Bだ。
「鳴かぬなら鳴かせてみせよう、あんあん」
蒼馬はしおれた花束を持っていた。翔子のドロップキックが炸裂した。
四時間目は体育だ。
「見たまえ! 僕のスピード!」
蒼馬は足が速かった。まさに馬並みだ。
「僕はどこかの芸人みたいに、スピード離婚しないぞ!」
よくわからないアピールをしていたが、男女は離れて体育の授業を受けていたので、美波は聞き取れなかった。
「なんなの、あいつ」
昼食時間、翔子と美波は中庭で弁当を広げていた。
「まあまあ」
美波が宥める。
「悪い人じゃないと思うし」
「そういう問題じゃなくて、いつか美波を襲ってくるんじゃないかとハラハラよ」
翔子は鮭ハラミを咀嚼した。
「それはないんじゃないかなぁ」
美波はおっとりと言う。笹寿司の笹をペロリと捲った。
「とにかく気をつけてね」
翔子は彼女の両肩を掴む。
「う、うん」
気圧されて、美波は頷いた。
五時間目は英語コミュニケーションだ。
英語教師の鈴木が班を作るよう指示し、お互いに英語で交流するように指導した。蒼馬、美波、翔子、勇作が同じグループになった。
蒼馬は流暢な英語を喋り、グループの生徒だけではなく教室にいる全員が「おおっ」と感動した。
「実は、帰国子女なんだ」
蒼馬は胸を張った。尻尾が揺れていた。
「よくそんな体で飛行機乗れたわね」
「馬なら、海渡れるんじゃない」
翔子と勇作が軽口を叩いた。
「親のプライベートジェットだったから問題ない」
当然かのように蒼馬は言った。
「あ、あんた。本当に金持ちなんだね」
翔子は唖然とした。
ジリリリリッリリ。
授業も終盤に差し掛かった時、火災報知器の音が鳴り響いた。
「火事だー」
生徒や教師たちが叫んでいる。
「どこだ」
「理科室らしい。授業中に火がついたようだ」
「どうしよう。理科室には栄子ちゃんが」
女子生徒Bが言った刹那、蒼馬は駆けだした。
理科室に着くと、ドアをこじ開け、「栄子ちゃーん」と呼びかける。火は思った以上に広がっており、理科室の中に近づくことはできなかった。
ドアから噴き出た火によって、蒼馬は尻尾が焼けた。
「あちちち」
急いでトイレに駆け込み、洋式便座の貯水に尾を浸した。
蒼馬は悄然として、生徒たちの避難先であるグラウンドに行った。
「すまない。栄子ちゃんが……」
彼は消え入りそうな声で言った。
「ぷっ」
「あはは」
何名かの生徒が笑い始めた。
「なんで笑っているんだ。人の命が――」
蒼馬が抗議の言葉を出すと、
「あんた勘違いしているよ」
翔子が言った。
「理科室の栄子ちゃんって、人体模型のことだよ。生徒たちによって、そういう綽名がつけられているだけ」
「え、そんな、ひひーん」
蒼馬の四本足は崩れ落ちた。
「でも、いいとこあるじゃん、ねえ」
翔子は美波に同意を求めた。
「うん。素敵だと思う」
彼女の声を聞き、蒼馬は理科室から持ってきたビーカーを差し出し、
「美波ちゃん! ここに二人の愛の液体を注ごう!」
翔子のパンチが飛んできた。
「前言撤回! やっぱ、あんた最低だわ」
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