第32話 波・少女ありて⑧

 夢すら見ない程の深い眠り。これほどまでに安眠できたのは何日ぶりだろうか。


 橘は実に15時間もの間ぶっ通しで眠り続けた。目が覚めた時、隣のベッドで寝ていた筈のあの男の姿は無かったが、その代わりにファンメイが図々しく顔を覗き込んでいた。寝起きの女の顔を覗き見るとは、デリカシーの無い男だ。


「おはようございます。橘さん。」


「…おはようございます。」


 ファンメイは銅の水差しからカップに飲み物を注ぎ、橘に手渡した。


「夢は見ました?」


「多分見てません。……夢の記憶がありませんから。まるで時間を吹っ飛ばしたみたいに。」


「ははは、それはよかった。移植は成功ですね。」

 手渡されたカップに鼻を近づける。カモミールだろうか。淡い苦みと華やいだ香りが口いっぱいに広がった。



「…ジャンさんはどうなるんです?彼も助かるんですよね?」


「えぇ。」


 ――ファンメイは嘘をついている。

 橘の直感がそう告げた。なんとなくそう思っただけで根拠はない。



「私は、人を救う仕事をしています。私を救う為に彼が犠牲となるなら………許せません。」


「橘さん。世の中には綺麗事だけでは救えない現実があります。……今回の目的は貴方の究済だけではありませんでした。いつか貴方から誰かに夢が感染する事かもしれませんよね。いくら注意するといったって、恐らく不可能です。」


「彼が代わりに苦しむくらいなら、助けて頂かなくても良かった。」


「一度は納得して下さいましたよね?……橘さん。貴方の正義感は素晴らしいです。ですが、そういう問題では無いのですよ。悪夢を収容する為には、明晰夢訓練を積んだ人物が必要だったのです。一般人ではなく、我々の組織のね。だから彼に悪夢を移す必要があった訳です。お分かりかな?」


「えぇ、分かっていますとも……。勿論感謝もしています。でも……私は自衛官失格だなって思っただけです。……教えて下さい。貴方は……いや、貴方達は一体何者だったんですか?」


「貴方が我々の組織に来るならば事細かに教えて差し上げます。貴方には素質がある。」


「私、本気で聞いているんです。冗談はよしてください。」


「僕だって本気ですよ。橘さん、貴方は今のままだと苦しむ人々の氷山の一角しか救えない。けど……SCP財団なら。貴方はもっと多くの人物を救える筈です。」


「SCP財団?」



 橘にとって、それは初めて聞く組織の名前だった。


「……我々の組織の名称です。知らないのも当たり前ですね。そのように努力していますから……。世界中にはね、人を不幸にする物体や現象が沢山あるんです。化学では証明できない、超自然的な存在が。そのアノマリーを世界から取り除く仕事、と言ったら分かりやすいでしょう。」


「そんなの……信じられません。オカルトでしょう?」


「現に貴方の悪夢を払ったでしょ?我々は、世間一般の人々がそれらに気付かず生きていけるよう日々活動しています。知らない方が良い事って言うんですよね、そういうの。そっちの方が幸せだから。」


「そんな……。そんなの……。」


 

 ファンメイは少しだけ考えた後、戸惑う橘に名刺を差し出した。


「貴方の記憶は処理しないでおきます。特別ですよ。貴方の気が向いたらここに連絡を寄こしてください。財団は優秀な人材を欲していますから。」


 ですがお忘れ無く、とファンメイが口元に指を当てる。



「この事は口外しないように。」















 キャンプ地に戻ってきた橘は上官らに仕事に穴を空けてしまったことを詫びて回った。皆、橘の事を心配し復帰を喜んでくれたのだが、どことなく話が合わない。核心に触れないような物言いで、壁を感じた。気を使われているのだと無理やり納得し、暫く会っていなかったスマイとサリの2人の顔を見に行こうと保護施設に向かう道すがら、ミジェール夫人と遭遇したのである。


「ミジェールさん」


 夫人は橘を見るなりわなわなと震えだした。くすんだ両目にいっぱいの涙を湛えながら、覚束ない足取りで駆け寄ると彼女を抱きしめた。突然の事に橘は驚いて、夫人を抱き返すことは出来なかった。


「あぁセナちゃん、無事だったんだねぇ……良かった、本当に良かった……。恐ろしい話だねぇ、ちゃんと弔ってやらないといけないねぇ……。もう、私たちは間違わないよ……。」


「あの……何のことですか?」


 鶏がらのような萎びた手のひらで撫でられる肩に確かにひとの温もりを感じているというのに、橘の背筋は薄ら寒い何かがぺったりと張り付いていた。一体、この老婆は何の話をしているのだろう?彼女が話しかけているのは、本当に橘世那なのだろうか?


「何って、憑りつかれていたんだろ。クメール・ルージュの怨霊さ……。あんなことはやっぱりあっちゃいけないよ。」


「怨霊……あ、あぁ。……そうですね、怨霊。……御心配お掛けしました。」


 

 くらりと眩暈がした。それとなく取り繕うので精いっぱいだった。ファンメイは、SCP財団は何をしたのだろうか。いつの間にか、橘とスマイ達が見ていた悪夢は先の大虐殺によって生まれた怨霊の仕業だという事になっていた。”退院した”橘も、怨霊に憑りつかれていた哀れな被害者の一人にすぎなかった。





「セナ!退院したのね?!」


 緑に覆われた丘から見覚えのある小さな人影が駆け寄ってくるのが見えた。思わず破顔する。スマイとサリだ。実に数週間振りの再会に3人は飛び跳ねて喜びあった。


 

「うん。もう大丈夫。ありがとうね、2人とも!」


 彼女らの笑顔を久しぶりに見た気がする。記憶の中の2人は、今思い返すとどこか笑顔も陰っていたように思われる。しかしもう憂うる事もない。もう脅威は無いのだから。空には雲一つない。



「あ!シャーマンのお兄さん!」


「ははは、君たちすっかり元気みたいだね」


 姉妹二人が駆け寄った先には、いつの間にかファンメイがいた。いつの間にか彼らは顔見知りになっていたようだ。彼は彼女らに悪夢について聞くと言っていたから、その時に知り合ったのだろうか。ただ、奇妙なことに、ファンメイは彼女らの中ではシャーマンということになっているようだ。


「悪霊を祓ってくれて有難う!これでもうあんな夢……。………あれ?夢ってどんなだっけ……?」


 スマイは頭を抱え、うーん、うーんとどうにか思い出そうとしている様子だが、賢い女の子であるスマイがあのような出来事を忘れることなどあり得ない。悪夢についての見事な考察をして見せた彼女が、内容を忘れる筈は無いのだ。



「あはは、夢の記憶なんて曖昧で希薄な、そんなものさ。」




 ――ファンメイが、彼女らの記憶を弄ったに違いなかった。


 罵倒してやりたいのに言葉が出て来なくて口をはくはくさせている橘にファンメイは視線を送る。”聞くなよ”と言わんばかりだった。


 だが橘も怒りに我を忘れて態々口を挟むような無粋な真似はしなかった。あのような後味の悪い夢の記憶なんて無い方が良いに決まっている。スマイとサリにあんな夢は似合わない。今の彼女らの表情が全てを物語る。


「君達、ボクはねぇもう行っちゃうから最後におまじないを教えてあげるね。」


 ファンメイは姉妹の頭を撫でながら、その澄んだ瞳をよく見るべくその場にしゃがんだ。



「おまじない?どんなの?」


「人生が素晴らしいものになるおまじないさ。君たち、手を繋いでごらん」


「こう?繋いだよ」


 スマイとサリはお互いの手をぎゅっと握った。


「よし!それじゃあお互いの事を思い描いて。スマイはサリの事を、サリはスマイの事を。いいかい、君たちは強い強い絆で結ばれている。どんなことがあっても切れない絆だ。困ったときや心細い時は、誰かの手をこんな風に握って、思い返すんだ、私は一人ぼっちじゃないってね。すると、力が湧いてくるだろう……?」


ファンメイの子供への接し方を見れば、悪い人間では無いように思える。これは、間違いなく子供を慈しむ大人の姿だ。一見非人道的で突飛な事をしているように見える彼の組織は、間違いなく人を救う為のものであるのだろう。ただ、その対象を選んでいるのだ。



 


 季節は流れ、ファンメイが去り悪夢の呪縛から解放されてから数か月が過ぎても橘はオレンジ色のジャンプスーツを着たあの男の事がずっと気掛かりだった。

 悪夢を移された彼はどこでどう過ごしているのだろうか?生きているのだろうか?死んだのだろうか?彼はいったいどのような心境であの夢を見ているのだろうか……。

 彼の事を考えない日は無かった。やがてそれは自責の念へと変わり橘を苦しめた。


 「こんなことなら私の記憶も消してくれたらよかったのに。」


 プノンペンでの生活は美しいものだった。しかしここでの生活を思い返すと、あのむさ苦しい人ごみと潰れた人々の苦しむ姿が脳裏をよぎる。本当に自分は人の役に立てたのだろうか。今のままの自分では救える命も、救えない。そんな事を考えるようになった。



 そして1年後、彼女はとある番号に電話を掛ける。



「もしもし、橘です。プノンペンではお世話になりました。……あの、新人採用はしていますか……」



 ――1年の放浪の後、彼女は修羅の道を歩み始める事となる。




【あとがき】

この作品はクリエイティブ・コモンズ 表示-継承3.0ライセンスに基づき作成されています。

Author: KanKan

Title: SCP-1586-JP - 津波警報 -

Source:http://scp-jp.wikidot.com/scp-1586-jp

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