第8話 邂逅

「あ………。」


 業務から解放され、やっとDクラス職員用寮に戻ってきた有坂は、自室前の廊下で以前絡んできた関西弁のDクラス職員とばったり鉢合わせた。


「……。」


 こういう輩は無視をするに限る。自分に興味を示さなくなるまで相手にしないのが一番賢い対応だと有坂は知っていた。目を合わさないように目線を下げながら自室のドアまで向かう。ドアノブを捻り、中に入ろうとすると背後からボソッと何かを男が呟くのが聞こえた。


「臭っいの……。」


 有坂は無言で、素早く自室に入りドアを閉めた。自分の体を匂わなくても分かる。死臭と、吐瀉物と、薬品の臭いが混ざった不快なスメルが臭い立っているのだ。


「はぁ……。」


 シャワーの水圧を最大にして頭から被る。こうでもしないと臭いが取れない気がした。5プッシュ程のシャンプーを頭で泡立てながら有坂はため息をついた。


 社会で働いた事がない有坂にとって、労働とは精神的にも消耗するものであった。刑務作業ですら苦痛に感じるのだから自分が社会に出て規律正しく働くなど想像もできなかったが、今日の業務は別の意味で辛かった。今でも鼻の奥にあの血腥いにおいがこびり付いていて、思い出すだけでグロッキーになってしまう。あの死体たちは自分と同じツナギを着用していたのだ。つまり、有坂もDクラス職員である以上同じ目に遭う可能性があることをまざまざと見せつけられたのだ。3か月、釈放の為に耐えるつもりだったが早くも心が折れそうになっていた。こんなところで3か月だなんて、冗談じゃない。いくら危険を承知で雇用されたからと言って、死ぬつもりは毛頭ない。


「逃げちゃおっかなぁ……。」


 そうだ、脱獄してしまえばいい。そうすれば変な仕事で死ぬことは無い。


 この2週間で分かったことがある。Dクラス職員以外の職員すべてが携帯しているカードキーさえ手に入れてしまえばある程度の扉は通過できるという事である。これまで業務の場所に赴く際に自分を引率していた職員たちは、皆同じ見た目のカードキーを持ち歩いていた。

 自分ならば、手に入れるのは不可能じゃない。有坂はごほんと咳払いをし、冷静になるよう努めた。

 まだ情報が足りない。脱獄には多くの情報が必要である。警備員の巡回時間とルート。それから自分が自由に動き回れる時間の確保に小道具。全てのピースが揃わなければ脱獄の成功率は一気に下がるという事を有坂は経験上理解していた。


 SCP財団では一回脱獄に失敗すれば即アウトなのは明白であり、100%の成功率で逃げ遂せなければならない。Dクラス職員の仕事でハズレを引く前に、なるべく早く、準備を済ませる必要がある。

 他の職員共にばれないように、粛々と支度を始めるのだ。そして必ず、SCP財団から逃げて自由を手にしてやる。有坂はそう覚悟を決めるのだった。









 有坂が財団からの脱出を決意してから数日が経ったある晩、彼のもとに次の業務の報せが届いた。


「出張?」


 自室のPCで明日の業務をチェックしていた有坂は思いがけない一文を目にして固まった。業務内容の詳細タブを開くと、明日の朝九時半に中央外部出張センターに集合すよう書かれているので、どうやら外部に出掛けての業務のようだ。いよいよ自分の番か、というのが正直な感想だった。


 風の噂だが、素行が悪かったり用済みと判断されると過酷な業務に宛がわれるらしく、特に外部の業務は危険なのだというのがDクラス職員の中での通説だった。決して有坂の業務態度は他の者と比べて悪いものではないが、Dクラス職員である以上いつ何時自分が指名されるか分からない。そのような理由で、有坂は実に憂鬱な気分になったのである。


 翌朝、有坂は指示通り、中央外部出張センターを訪れた。受付で、外部に出張する際に手錠を着ける事が必須なのだと説明があり、有坂は嫌々両腕を差し出した。

 待合室は、有坂と同様に出張を命じられたDクラス職員らが10人程が同様に手錠を着けられ、椅子に座って眠たそうにしていた。有坂も椅子に座って待っていると、少し経って手にファイルを持った若い女性が現れた。




「D-0419。D-0419は居ますか?」


「俺です」


 有坂が立ち上がると、その女性はつかつかと近寄ってきた。


「本日の業務のアテンドをします。私はCクラス職員の橘です。よろしくお願いします。」


 橘と名乗った女性は爽やかなお辞儀をした。見たところ、有坂よりも年下の様に見える。財団のロゴが入った黒のジャケットが似合っており、キリっと締まって見えて有坂に好印象を与えた。


「貴方は本日から1週間、外部へ派遣されます。では車輛へ移動しましょう。」


「お姉さん、外部ってどこなの?」


 有坂の馴れ馴れしい呼び方に気を悪くしたのか、橘は「付いてきなさい」とだけ答えてぷいっと前を向いてしまった。

 橘、有坂と並んで部屋を退室すると、保安職員が2人合流し、後ろから有坂を監視しながら付いて歩いた。

 Dクラス職員が許可された区画外を歩くときはこのようにして保安職員の監視を伴うのだ。4人は財団エントランスを抜けガレージに到着した。


「先輩!」


 橘が手を振って合図をすると、黒いハイエースが近寄る。全ての窓が黒く、中を透過して見ることが出来ない仕様になっていた。

 後部座席に乗るよう促され、有坂が乗車すると前方の運転席部分と後部座席は完全に隔てられており、運転席側からしか見ることが出来ないようマジックミラーの小窓が付いていた。後部座席からは全く外が見えない。これは、財団がDクラス職員や一般人にSCPの場所を特定されないようにするための工夫であった。橘が助手席に乗り込むと、ドアが閉められ車は出発した。


「ねぇ、お姉さん」


有坂は壁越しに前方の座席に座る橘を呼ぶが、返事がない。しつこく話しかけると、耐えかねたのか不愛想な返事が返ってきた。


「お姉さん、ねぇってば」


「もう、何ですか?」


「ねぇ、何かCDかけてよ。退屈すぎるって」


「そんなものはありません」


「じゃあラジオでも良いから。暇すぎて死んじゃう。お願い!」


それまで黙っていた、ドライバーの男が口を挟む。


「いいじゃねぇか、ラジオ位聞かせてやれ。」


「でも……。はぁ。先輩が言うなら…。」


車のスピーカーから最新のヒットナンバーが流れた。歌手は分からないが、数年ぶりに聞いた曲はアップテンポで電子音が目立つように感じられた。


「お姉さん、ありがと!」


「まったく、Dクラスって皆こうなの?任務中だってのに…。あと、その呼び方はやめるように。」


 4時間ほど車に揺られると、車が停められる。


「着きましたよ。起きてください。」


 座りすぎて痛む尻を擦りながら車から降りると、そこは寂れた地方の街中のようだった。シャッターが下りている店が目立ち、開いていてもオーニングテントが破れて垂れているような、いかにも高齢化が進んでおり廃れている町だった。 

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