悪魔と契約する話

第1話

 仕事の定時が十七時。なんとなく尿意を感じたのは十六時十分頃。過去に戻れるならば、別に今行かなくてもいいか、と判断したこの時の自分をぶん殴ってでもトイレに連れていきたい。

 それ程までに海咲うみさきりまは今、猛烈な尿意に襲われていた。

 職場から自宅まで、電車の時間などを考慮してもだいたい約四十分。三十分ほど定時を過ぎて、着替えやらなんやらをしてから駅に向かい、着いた途端ダイヤの乱れで電車が遅れていますなんて放送が流れたかと思えば、ことごとく行く先々でトイレが清掃中であったり故障中であったり。まさかここまで不運が続き、尿意がかなり限界を迎えることになろうとは想像もつかなかった。

 とにかく、今、何がなんでもトイレに行きたい。りまは額と背中に謎の冷や汗を浮かべて、漏れないようにと膀胱に祈りながら足早に家路を急ぐ。

 こういう時に限って近道が通行止めだ。

 変に下腹部に力が入って、走っても衝撃で漏れそうな程に限界だ。かつて二十四年の人生でこんなにもトイレに行きたいと泣きそうなほど祈ったことはあっただろうか。

 ヤバいヤバいヤバい。尿意は語彙力をも奪うらしい。りまの思考はヤバい一色に染められていた。

 家まであと数十分といったところか。間に合ってくれ膀胱、と願ったその時、ひらりと黒い羽が一枚落ちてきた。

「おい、そこの人間」

 その声は、りまの頭上から降ってきた。驚いて顔を声の方に向ける。

 そこには、黒いおどろおどろしい羽を背中に生やし、空中であぐらをかいてりまを見下ろす男が浮かんでいた。

「おまえ、今めちゃくちゃ叶えたい願望があるだろ。それも特大のやつ」

 ニヤリと怪しげに笑う男。思わず思考が止まり、一瞬だけ消え去った尿意であったが、すぐに膀胱が悲鳴をあげた。

「あの急いでるんで失礼します」

「ちょいちょいちょいちょっと待て待て」

 りまは見なかったことにするべくその場を立ち去ろうとしたが、男が空中から降りて行く手を阻んでしまった。

「退けてください急いでるんです!」

「まあ聞けよ。おまえ、今ものすごぉく叶えたい願望があるだろ? 俺ならその願望、叶えてやれるんだよ」

 まさに怪しげな宗教勧誘だ。一緒にこの神様を崇拝しましょうなんて布教話が始まってしまえば長くなろうことは目に見えている。

 とにかく立ち止まっている間も膀胱が今にも決壊しそうで、そわそわとその場で忙しなく足を動かす。

 そもそもりまの願望は「とにかくトイレに行きたい」だ。この男が今すぐ道を空けてくれたらもうあとは家まで一直線でトイレだ。

 しかしりまが男の横をすり抜けようとしても、目敏く気がついた男がフェイントを掛けてくるために通れやしない。

 それとも何か、わざとか? トイレに行きたいという必死の形相を見てわざと声をかけてきたのか?

「あの用があるなら早くしてくれませんか、本当に急いでるんです!」

 焦りで思わず声を荒らげてしまったが、男は怯むことなく続ける。

「オレと契約するなら退けてやるよ」

「は? 契約?」

「そ、俺と契約してここを退けろって願ってくれれば好きなだけ退けてやるよ」

 まるで当たり屋だ。なんの契約かは知らないが、とにかく今はゆっくり思案する間もない。そして男の話をゆっくり聞いている暇もない。りまは投げやりに「分かりました契約するからそこどいて」と強めに言えば、男は待ってましたと言わんばかりにその顔に満面の笑みを浮かべた。

 男の手が伸びて、りまの右手をとる。

「よっしゃ契約成立」

 とたんに繋がれた二人の両手が淡い光を帯びた。光は一瞬で消えたが、手には何の変化も起きていない。今の不思議現象はなんだったのかと思ったが、それよりもトイレだ。

「さて、じゃあお前の願い叶えてやるよ。録に話も聞かないで契約するくらい急いでるんだろ? しかもその願いはものすんごく強大だ。俺ならどんな願いも一瞬だぜ」

 男の言葉に、りまはぼそりと小さな声で呟いた。

「······トイレ」

「あ?」

「漏れそうなの。今すぐ家のトイレまで連れてって」

「··················」

 数秒の沈黙のあと、男は目を見開いて「はぁぁあ!?」と叫んだ。




「あー超スッキリしたー!」

 助かりましたありがとう、と言いながらハンカチで手を拭きながらリビングに戻ってくるりまを尻目に、男はソファに項垂れながらブツブツと文句を垂れ流していた。

 膀胱を空っぽにしたりまは、改めて男と向き合う。

「あの、さっきの契約うんたらの話なんですけど」

「あーアレね······。とんでもなく強力で特大の欲を感知したから久々に大物が来たと思えばさぁ。まさかの小便なんてさぁ············、はぁぁ」

 長いため息をつき、だらりとソファから投げ出す足はスラリと長い。先程はトイレのことで頭がいっぱいであったが、良くよく見れば人間離れした綺麗な顔をしている。

 しかしりまにはそれよりも気になることがあった。

「あなたって魔法使いか何かですか?」

 あの契約を結んだ後。トイレに行きたいというりまの必死の形相に、男は戸惑う様子を見せながらも指をパチンと一度鳴らした。その瞬間、りまは自宅のトイレの中に居たのだ。こうして漏らすことなく無事にトイレが出来たのだが、一瞬で場所が移動できたあれは、魔法かなにかだろうか。それに、頭上に浮いていた不思議現象も驚いた。

 男は「魔法使いじゃない」と首を振って否定した。

「俺はね、悪魔なの」

「悪魔、ですか?」

 ゆっくりと身体をソファから起こし、男は説明を始めた。

「俺ら悪魔はね、言わばお前ら人間の寿命と等価交換でどんな願いでも叶えてあげてんの。まあ昔は魔法陣やら召喚術やらで俺らを呼び出してまで、世界征服やら復讐やら叶えたいっつう欲深い願望を持つ奴が多かったからさぁ、だいたい一回願いを聞いてやりゃそいつの残りの寿命全部いただいたりしてたわけよ。」

「はぁ」と相槌をうつ。

「それが今はどうよ。今の人間って奴はブラック企業辞めたいだのあの服欲しいだの恋人欲しいだのショボショボのショボな願い事ばっかでさぁ、願いの欲深さに応じて寿命を食ってる俺ら悪魔は、そんなちまちました願いじゃ充分にお腹が満たされないわけ。そんで、"どんな犠牲を払ってでもいい。どうして叶えたい。"って強い願いを持った人間のところに俺らからわざわざ出向いてやって契約取り憑けちゃおうと、そういったオーラを纏った人間に片っ端から声をかけてたんだよ」

 そして、その際にこの男が目をつけたのが、とてつもなくトイレに行きたかったりまだと言うわけだ。

「ひっさびさに特大の獲物って思ったのに、願いが小便って。小便って!」

「いやなんか申し訳ないです······」

 謝る必要もないのについつい謝ってしまった。

「いいか、お前が契約したのは悪魔だぞ悪魔! トイレ行きたいだなんて願いはお前の寿命の一日にも満たねぇくらいしょーーーっもない願いだ!」

「私にとってはあの瞬間が人生で一番叶えたい最大の願いでしたね」

「お前がそんな小便なんか我慢してたせいで、俺は勘違いしてお前と契約する羽目になったんだ。最初の願いが小便とか、どうせこれからも録な願いもなく地味に寿命食ってくしかねぇじゃんかよ」

「いや慌ててたからつい契約してしまいましたけど、私も寿命食べられちゃうんですよね? そんな無茶苦茶なこと言われましても············」

 なんか他に欲望ないの? と聞いてくる男の問いかけに、りまは何かあったかなと考える。

「あ、ひとつ有りました」

「なになになに」

 男はがばりと勢いよく身を乗り出し、期待に満ちた目でりまを見つめる。

「化粧落としてお風呂入るのめんどくさいんで、さっきみたいに指パチンって鳴らして全部終わらせたことにしてください」

「ふっざけんな、ボケ!!!!」




 悪魔の名前はルシフェルというらしい。黒い羽は収納可能らしく、羽を仕舞ってしまえばただのイケメンがそこに立っていた。

 結局自分で化粧落としもお風呂も済ませたりまは、ソファにだらけて座るルシフェルに問いかけた。

「ていうか、契約って途中で破棄することは出来ないんですか?」

「それは無理」

 ルシフェルは「クーリングオフは受け付けてませーん」と舌を出す。

「契約が終わる条件は、俺ら悪魔が契約した人間の寿命を食い尽くすか、俺らが祓われるかのどっちかってとこだな」

「祓われるってのは……所謂エクソシストとかにですか?」

「まあそんなとこ」

 りまは手元のスマホで『エクソシスト 依頼』と検索をかけてみた。しかし有益な情報は手に入らず、唇をついと尖らせる。ルシフェルはそんなりまに呆れた顔を見せた。

「言っとくけど、俺のことは祓えないぜ」

「え、どうしてですか?」

「なんたってルシフェル様だからな」

 ふふんとドヤ顔で言い切るルシフェルに、意味が分からないと眉をしかめた。その端末で俺の名前も調べてみろよ、と言われるがままにルシフェルの名前を入力する。

 出るわ出るわ、ルシフェルという名前の悪魔の詳しい情報が大量に表示される。読む気にはなれなかったが、とにかくこの目の前の悪魔が並大抵の悪魔ではないということだけは理解した。

「つまり、お前は諦めて俺に寿命を食わせるしかないってワケ。どうよ、いっそ日本沈没とか願ってみねぇ? したら一発よ」

「願わないです」

「チッ」

 不機嫌さを隠すことも無く盛大に舌打ちをかますルシフェルに、りまはどうしたもんかと溜息をこぼす。というより舌打ちしたいのはこちらの方だ。勝手に勘違いして半ば無理やり契約をもちかけてきたのはルシフェルの方であるし、りまが責められる言われは無いはずだ。

 なんとも面倒くさいものに巻き込まれてしまったものだ、と頭を抱えた。

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