小狸

短編

 脳髄に虫がいている。


 足が細長く、胴体が黒い丸の、座頭ざとう虫のやうな虫である。


 壱匹、弐匹と湧いたと思ふと、次第にれが増えてゆく。


 初めは単調であった虫の像は、重なり、重複し、むしられるやうに、脳髄の表層に近い薄い膜の部分を、おびただしい数の虫が駆け巡ってゆく。


 右から左へ、左から右へ。


 増殖しながら、脳髄の膜に足跡をつけてゆく。 


 足跡は、点である。


 足の先が点なのだから、当たり前である。


 ほんの一瞬。


 じゅ、と。


 脳髄の膜を少しだけ浸蝕するものの、いくら湧こうとも、の虫が膜を喰い破ることは無い。


 牙や爪は無い。


 ただ其処そこるだけなのである。


 其の虫が駆ける音というのは、れがまた不思議と、無いのである。 


 一体全体如何どうしてその虫が生存しているのか、何を主食としているのかは、定かではない。


 脳髄の重要な部分の外側の、何かをっているのだらうか。


 わからない。


 判らないが、前頭葉や脳幹などが喰い破られる訳では無いのだから、気にる事は無い。


 さういう感覚に陥る事が有る、とう。


 只、其れだけの話である。


 虫は、薄膜の向こう側を、走る。


 何かに追われているかのやうに、かまびすしく移動する。


 如何して走っているのか、何処どこへ向かっているのか、気になって、たずねてみたことがある。


 しかし、虫は返事をせずに行ってしまった。


 膜を通してでは、声が通じぬのやも知れぬ。


 さう思い、一度、膜の外側に出てみた事が有る。


 ると如何どうだらう、今までまるで迷執めいしゅうするかのやうに脳髄の外側をい回っていた虫達は、一斉に私の方に来た。


 嗚呼ああ


 私は、動く事が出来なかった。


 私は、脳髄の外に出てしまったのである。


 すでに私の身体は、私の制御を離れている。


 一瞬。


 虫が私の身体を覆い尽くすまで、ほとんど一瞬であった。


 まとわりつき、這い回り、駆け巡るというだけで、何を害すると云う訳では無い。


 只、其処に在るだけである。


 矢張やはり音は無かったが、感覚は有った。


 ほこりに触れるやうな、ざらついた感触である。


 そして、黒い。


 黒い点が、視界の内側に重複してゆく。


 眼球がこそばゆい。


 肉体の表面という表面に、虫がうごめき、ひしめく。


 虫は思考にも入って来る。


 白色の画用紙に、黒い点が在る。


 点。


 点。


 点。


 点。

 

 点。


 点。


 点。


 点。


 点。

 

 点。


 点。


 其れは何時いつしか、点を越えて玉になり、玉を越えて黒になり、黒を越えてうろになる。


 画用紙の外へとみ出て来る。


 発狂しそうになるのを、何とか抑圧する。


 足を上り、手に下り、顔に張り付き、口に触れ。


 虫が耳の中へ這入り、鼓膜に触れようとしたところで。


 私は目が覚めた。


 大汗をかいていた。


 時刻は未明であった。


 如何やら小説を読んでいる最中、寝入ってしまったやうである。


 何処まで読んだか判らなくなった。


 起き上がって、本を取った。


 たしか、此の辺りのはずである。


 さう思い、ページを開いた。


 其処には。


 一匹の小さな座頭虫が。


 腊葉さくようのやうに、圧死していた。


 点は、平面になった。




(「しをり」――了)

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小狸 @segen_gen

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