クツシタ




退院したその日セイは自宅に戻った。

その姿を店の中から見えたのか、三芳が外に出て来た。


「右手、どうしたんだ、十上さん。」


彼は驚いたようにセイの腕を見た。

右手の袖口がふわふわとしていたからだ。


「いや、ちょっと事故に遭ってしまって。」

「姿を見なかったがもしかして入院してたのか。

なんてこった、右手だろ……。」


心配げに三芳が言う。


「今はこんなですけど再生できるみたいで、

半年ぐらいすれば元通りになります。」

「でもよう、痛かっただろ。

可哀想にな。困った時は遠慮なく言えよ。」


セイは三芳に笑いかけた。


「心配してくれてありがとうございます。ぼつぼつやります。」

「無理すんなよ。」


セイは彼に挨拶をして駐車場に行った。

そこにはセイの車がある。九津の遺品の車だ。

彼はそれに乗り込むと片手でも運転できるように

ハンドルにノブを付けた。

彼は退院してすぐに片手で運転が出来るよう講習を受けたのだ。


「少し練習するか。」


彼は車のエンジンをかけた。

セイは運動神経はとても良い。

講習でも全く問題はなかった。

だが公道で走るのは初めてだ。彼は慎重に車を走らせた。


そしてその夜中だ。

六花から電話があった。

セイは飛び起きた。何かあったかもしれないからだ。


「どうした、六花」

『クロの様子がおかしいの。』

「……分かった。すぐ行く。」


クロは年寄り猫だ。

この前見た時は元気そうだったのにと彼は思った。

彼は車を急がせた。


六花の部屋に入るとタオルの上にクロは寝せられていた。

そのそばに六花が心配そうにクロを見ている。


「どうした。」


顔を上げた六花の目は真っ赤だった。


「夕ご飯を全然食べなかったの。

だから様子を見ていたんだけどさっき急に痙攣を起して……、」


言葉が続かない。

クロは半眼で体をぴんと伸ばしたまま

微かに息をしているだけだ。

セイも六花のそばに来てクロを見下ろした。

口元は微かに開き色のない舌が少し見えた。


「……六花、」


セイは静かに言う。


「もしかするとだめかもしれん。」

「……。」

「病院に連れて行ってもいいが、クロは結構な年寄りだ。

俺もクロには死んで欲しくないが、

苦しませたくもない。」


セイを見た六花の目から涙がぽろぽろと流れた。

彼女はクロを見てそっと撫でた。


「クロ……。」


六花はクロを撫で続け、セイはその横に黙って座っていた。


やがてクロの頭の方から静かに波が起きる。

それが徐々に体に移り、足先まで波が届く。


そしてクロの体から力が消えた。

それでも六花はクロの体を撫で続けた。

セイが彼女の肩をそっと抱く。


二人は何も言わない。

小さな可愛い命が今消えたのだ。


二人は寄り添うようにしてクロの亡骸を見つめた。




翌朝、クロの遺体を綺麗な箱に入れて二人は部屋を出た。

階下から花咲が顔を見せた。


「ああ、あんた達、昨日は何かあったのかい?」


夜中にセイの車が来たのだ。

そして目が赤い六花の様子を見てどことなく察しているのか

花咲の言い方は静かだった。


「すみません、夜中に騒がせました。」

「いや、良いんだけど、」


とちらと花咲が箱を見る。


「もしかして死んじゃったのかい?」


六花が頷く。


「そうか……。」


花咲が手を合わせる。


「ありがとう、花咲さん。」


六花が小さな声で言った。


「今からクロをお弔いします。」

「そうかい。ああ、ちょっと待って、」


と花咲が部屋に戻る。

そしてその手には花があった。


「たまたま昨日買って来た花だけどクロちゃんに。」


六花が箱を開ける。

そこには目を閉じたクロがいた。


「あたしも昔猫を飼っていたんだよ。

可愛いんだけどペットはねぇ、先に死んじゃうから……。」


花咲は絆創膏が貼ってある六花の額に手を触れた。


「あんたもケガしちゃって痛かったね。」


優しい仕草だ。

六花は自分の母を思い出す。

彼女はぎゅっと目をつむって俯いた。

涙がクロの入っている箱に落ちる。

それを見た花咲が黙って六花の頭をそっと撫でた。


「十上さんも痛い目に遭ったのを高山さんから聞いてたよ。

辛かったね。

でもそれでクロちゃんまでってねぇ……。」


二人は花咲に頭を下げてアパートを出た。

専門の施設に持ち込むのだ。


ペットとの別れは人の別れとは違う。

仕方がないことかもしれない。

だがその悲しみはみな一緒だ。


セイが手続きをし、六花が箱を手渡す。

ほんの何ヶ月かのクロとの生活だ。

だが二人にとっては忘れられないものだ。


二人は無言で車に乗り込んだ。


六花の家に戻らなくてはいけない。

だがそこにはクロはいないのだ。


助手席に座っている六花が外を見ながら声を上げて泣き出した。

顔をハンカチで覆って泣いている。

セイは何も言わず車を走らせた。


やがて車は海が見える公園に着きその駐車場にセイは車を停めた。

晴れた美しい海だ。

静かな波の音が聞こえた。

六花は少し収まったのか海を見ている。

セイも外を見ていた。


「……クロは幸せだったかな。」


六花がぼそりと言った。


「多分な。」


六花がため息をつく。


「捨てられたのに?」

「捨てられたけど拾われただろ?

お前に飼われなきゃ辛い目に遭ったぞ。」


鳥の群れが遠い所を飛ぶ。

群れの色が変わる。


「猫なんて飼った事が無かったから適当に世話をしていたけど。

セイの方が上手だった。」

「俺は子どもの頃猫を飼っていたからな。

しかも乳離れしていない子猫だ。」

「大変だった?」

「夜中に起きてミルクをやった。

親父やおふくろが俺を起してやらせたよ。」

「セイのお父さん、お母さん……、」


六花がふっと無言になる。


「セイのお父さんとお母さんの話は初めて聞いた。」


セイが苦笑いをする。


「そうだったか?」

「ええ、そうよ。」


セイがハンドルに左腕を乗せて遠くを見た。


「俺は15歳で美戸川の所に来るまでは義理親に育てられたんだよ。

いわゆるパピーウォーカーみたいなものだ。」

「それは盲導犬の子犬の話でしょ?」

「美戸川は俺を人扱いしていないからな。

でも俺を育ててくれた親はとても良い人だった。

それは感謝している。」

「会ったりしてるの?」

「いや、別れてから一度も会っていない。

警察官だったが今はどこにいるのかも分からないし。」


六花がセイを覗き込むように見た。


「セイ、その人達に会いたい?」


一瞬セイは戸惑う。

だが、


「会いたいでしょ?」


自分の心を代弁しているような六花の言葉だ。


「会った方が良いと思うか?」

「思う。」


六花は腫れた目で少し笑った。

いつもの垂れ目がもっと垂れて見える。

優しい顔だ。


「そうか。」


セイはそう言うと車のエンジンをかけた。


「今日はクロの葬式だ。三よしで精進料理だな。」

「奢ってくれる?」

「今日はな。」


三芳に事情を話すと二人の定食と一緒に

小さな刺身が三切れ乗った皿を出して来た。


「クロちゃんにお供えだ。」

「ありがとう、三芳さん。」


六花が頭を下げた。


「二人で喰っちゃえ、クロちゃんの供養だ。」

「じゃあ、私は二切れ、セイが一切れね。」


と六花がさっと二切れ食べた。

男二人は目を合わせて苦笑する。

だがそれは六花の気遣いなのだ。

いつまでも周りまで暗くしてはいけないと言う彼女の気持ちだ。


セイが三芳に徳利を向けた。

三芳がにやりと笑って自分の猪口を出す。

そして三芳もセイの猪口に酒を注いだ。




その数日後だ。


「あっ!」


スマホでニュースを見ていた六花が声を上げた。


「なんだ。」

「セイ、これ、このニュース!」


セイが六花のスマホを受け取りそれを見た。


「飼えなくなったペットを引き取った会社がペットを遺棄……、」


事情により飼えなくなったペットを有料で引き取っていた団体が、

そのベットのチップを抜いて捨てていたというニュースだ。


その事情は引っ越しや歳をとった飼い主が飼えなくなったなどだ。

有料で引き取ったペットに新しい飼い主を探したり、

死ぬまで保護施設で飼いますと言っていたようだが、

結局は元の飼い主が分からないようにチップを抜いて

山などに捨てていたらしい。


「クロって……、」


六花が呟く。


「年寄り猫だったから飼い主も年寄りだったかもな。

飼えなくなって仕方なくここに頼んだのかもしれん。」

「多分クロは捨てられてから逃げ回っているうちに

色々な所でケガをしてぼろぼろになっていたんだよ。」


セイは六花を見た。


「調べようと思えば元の飼い主が分かるかもしれん。

どうする?」


六花はしばらく考え込む。


「このニュースをクロの元の飼い主が知ったら

とてつもなく後悔するよね。」


六花がしばらく考える。


「久我さんにペットを委託した人達を調べてもらう。」

「久我は忙しいんじゃないか?」


二人は今のところ自宅待機だ。

久我からは二週間ほど休養しろと言われていた。


「私からお願いしてみる。」


この犯罪に関してはペットの遺棄より詐欺の方が罪は重いだろう。

六花が久我に連絡すると数時間で資料が送られて来た。


「黒猫を頼んだ人は5人だ。

その中に右足だけが白い猫を頼んだ人がいる。」


資料を見て二人は顔を合わせた。




「そうです、この子です。」


すぐにリストの人に連絡をして二人はそこに出かけた。

古い家だ。

そこには少しばかりやつれた感じの中年の女性がいた。

その人にクロの写真を見せると頷いた。


「前足が一つだけ白い所が一緒です。

あのニュースを聞いてすごく心配していたんです。」


彼女は家の中に二人を招いた。

中はがらんとしていた。


「母がずっと飼っていたんです。

右足だけ白いのでクツシタと言う名前でした。

一人暮らしだったのでとても可愛がっていました。」

「お母さんは?」


セイが言う。


「先日亡くなりました。

病気が見つかって入院しなくてはいけなくなって、

それであの会社に頼んだんです。

この家はいずれ処分するので今日は家の整理に来ていたんです。」


六花は部屋を見渡した。

何もない部屋だ。


「クロ、私はそう呼んでいたんですけど、

クロはとても人慣れしていて甘えてくる可愛い猫でした。

その、クロも先日死んでしまって。」


女性はぽろぽろと涙を流した。


「クツシタも年寄りでしたから……。

あの会社はちゃんとしてくれるよと母は言っていたんですが、

まさか詐欺みたいな事をするなんて。

母が死んでその上猫まで死んでいるのかもって

心が痛くて仕方が無かったんです。」


彼女は頭を下げた。


「悲しい目に遭っていなかったんだと知って

救われた気がします。

教えて下さってありがとうございました。」


六花は彼女の手を取った。


「多分空の上で二人は会っていますよ。」


それを聞いた彼女は泣きながら少し笑った。




帰り道、六花とセイは何もしゃべらなかった。

良い事をしたのだろうが心が重かった。


「……お母さんが死んだ時と一緒ぐらい淋しい。」


六花がぼそりと言った。

セイがちらりと彼女を見た。


「お母さんはお前が子どもの頃に亡くなったんだったな。」

「……そう。12歳の時。」


二人はバス停に着く。

ここまで今日はバスで来たのだ。


「……だから高山先生はあんな風なのかもしれんぞ。」


六花がセイを見た。


「あんな風?」

「その、愛する真理ちゃんとか大事な六花ちゃんとか……、」

「えーっ?」


六花が少しばかり眉をしかめる。


「その、なんだ、それを言われると全然淋しくなかったんじゃないか?」

「うっとうしいけど……、」


その時バスが来る。

二人はそれに乗り込んだ。

六花は無言のまま考え込んでいる。

その横にセイは座り彼女に言った。


「男は結局不器用なんだよ。

先生はそう言う言葉でお前の事をずっと心配しているんだよ。」


六花が上目遣いでセイを見た。


「そんなもんなの?」

「多分な。」


セイは外を見る。

バスは川を渡る橋を登っている。


「俺は高山先生が好きだ。あの人は良い人だ。」


しばらく六花はセイを見る。

そしてにやりと笑った。


「ありがと。」


窓の外の景色が流れていく。

セイの車から見る景色より目線は高く眺めは良い。

しばらくすると何か思いついたような顔で六花がセイを見た。


「一日乗車券を買ってバスでぐるぐる回っても良かったね。」

「お前なあ、もしあれが車内に出た時に

他に乗客がいたらどうするんだ。危ないだろう。」

「ああ、そうか。」


六花は窓の外を見た。


「もしバスの外に出たら鬼はずっと追っかけて来たかな。」

「お前……、」


セイは思わず俯いた。

それを想像すると妙に可笑しくなって来たのだ。


「……時速50キロで追っかけて来たら怖いな。」


彼がぼそりと言うと二人の目が合う。

セイと六花はふふと一緒に笑った。




六花のアパート帰ると彼女が言った。


「帰ってすぐで何ですけど、」


と彼女が久我から送られた書類を

プリントアウトしたものをセイに出した。


「あっ。」


彼は思わず声を上げる。


「親父とお袋……。」


そこに書いてある名前は彼が15歳まで一緒にいた義両親の名前だった。


「中原洋平、優子……、六花どうして。」

「久我さんにクロの事を調べるのと一緒に

セイのお父さんとお母さんの事も調べてもらったの。

警察官だって言っていたから

久我さんだったらすぐ調べられるかなと思って。」

「お前、久我は忙しいのに……。」

「でも久我さんはぜひセイを連れて行ってやってくれと言ってたよ。」


セイは書類を見た。


「久我さん、セイの事を心配してるよ。

築ノ宮さんが遺伝子的には遠縁と言っていたけど、

本当に身内みたいに思っているんじゃないかな。」


セイは久我を思い出す。

彼もセイと一緒で一人暮らしだ。


「兄さんみたいなものか?」


六花が笑って頷いた。


「それでセイのお父さんとお母さんに連絡したの。

そうしたら一度来て下さいって。明日行こうよ。」


セイは無言で考え込んでいる。


「どうしたの?」

「いや、その、行って良いのかな。」


六花が意外そうな顔をする。


「だってお父さんとお母さんでしょ?

向こうも会いたいって言ってたよ。」


セイが難しい顔になった。


「とりあえず明日行こう。ね。」


セイは両親が住んでいる住所を見た。

同じ市内だ。

車で行けば30分もかからず着く。


そんな近い所に親は住んでいたのかと驚きつつ、

今まで探さなかった自分が薄情だとセイは感じた。


そんな男に親は何を言うのだろうか。


六花はにこにことこちらを見ている。

だがセイには不安しかなかった。






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