40輪 雨音と銃声
冷たい外套の下でロザリーは己の体を強く抱いた。
声の届く距離にケイレブがいる。この恐ろしい状況下、彼の存在を感じられただけでロザリーの体は喜びに震え、今にも叫び出してしまいそうだった。衝動のまま彼の腕に飛び込むことができれば、どれほど安堵できることか。
「そこの馬車、聞こえないのか。止まれと言っている」
先ほどよりもさらに近く、はっきり声が聞こえた。馬車は減速し、ゆっくりと止まる。ロザリーは俯き、焦りを腹へ押しとどめるように深く息を吸い込んだ。
馬車に追いついた蹄の音の一つが、結露した窓の向こうを通り過ぎたところで止まった。後方にも数頭、いななく騎馬の気配がある。
「近衛府の者だ。ある貴人の馬車が、皇宮を出たまま行方知れずになっている。捜索にご協力いただきたい」
雨音に負けぬよう声を張りつつも、ケイレブの声音は落ち着いていた。凜々しき騎士の求めに、御者が控えめに応答する。
「協力、と申しますと?」
「中を検めたい。馬車には、どなたがお乗りで?」
「当家のお嬢様がお乗りですので、あまり無理には――」
「わたしが伺いを立てよう。手荒なことはしない」
ケイレブが御者の言葉を遮った。蹄の音が、再び馬車の真横まで近づいてくる。
ロザリーは顔を上げた。曇った車窓に滲んだ人影が映る。大粒に育った結露の滴が垂れ落ち、窓の曇りに透明な間隙が生じた。ごく細い澄んだ軌跡から、見慣れた蜂蜜色の瞳が覗いた。
「……ロザリー殿?」
「ケイレブ様っ」
咄嗟に呼び返したロザリーの声に銃声が重なった。目の前の窓が砕け散る。宙を舞う硝子片の向こうに、ロザリーはケイレブの姿をようやくはっきりと視認する。彼の肩のあたりで弾ける雨粒が、赤く見えた。
「ケイレブ様!」
「出せ!」
窓にとり縋ろうとしたロザリーをソーンが引き倒した。馬車が走り出した勢いでロザリーは座席に背を打ちつける。
銃声に驚いて興奮した馬に引かれるまま、馬車が包囲を突破する。
「追え!」
叫んだのはケイレブだ。声が出せないほどの怪我ではないらしい。しかし先ほど視野をよぎった赤い飛沫が強烈に脳裏に焼きつき、ロザリーの恐怖を駆り立て震えさせる。
道のわずかな凹凸で車輪が跳ね、車体が軋む。激しい揺れで何度も体が浮き、ロザリーは舌を噛まないように必死で歯を食いしばった。あちこちに体をぶつけているが、痛みを感じる余裕はない。割れた窓から降り注ぐ雨で、全身が冷えていく感覚だけはあった。
木が裂ける凄まじい音がしてロザリーの体が浮き上がった。硝子のない窓から車外へと投げ出される。五感すべてから雨以外の情報が消える。直後、背中から地面に叩きつけられた。肺の空気がすべて喉から抜け、息が止まる。
ロザリーは激しく咳き込み、視界が明滅した。飛びそうな意識にかろうじてしがみつき、身を起こそうと藻掻く。ぬかるんだ地面の泥が冷えた手のようにロザリーの体をつかんで離してくれず、思うように身を返せない。
泥に埋まった重い外套と半端にまとわりつくスカートを苦労の末に脱ぎ捨て、どうにか転がるようにして抜け出した。素肌と着衣の境界も分からぬほど泥にまみれては、もはやどんな姿だろうと気にならなかった。
朦朧とする頭を、ロザリーはやっとの思いで持ち上げた。景色を灰色に滲ませる雨の向こうに、横転した馬車があった。黒々とした車体の底がこちらを向いていて、宙に浮いた車輪が空回っている。
「ケイレブ様……」
無意識に呟いて、ロザリーは視線を巡らせた。きかない視界に目を凝らし、ただ一人の若者の姿を探す。耳も澄ませてみたが、激しい雨音と足音との聞き分けはできなかった。
そのとき、天を向いた馬車の窓から腕が生えた。腕は車体にしがみつき、馬車の中から男が這い出てくる。泥の中からロザリーがそれを注視していると、顔を上げた彼と正面から目が合った。彼がソーンであると認識した途端、混濁していたロザリーの意識は恐慌をきたした。
「あ……」
ロザリーが喉から絞り出した声はかすれて悲鳴にならなかった。
ソーンが横倒しの車体から飛び降り、こちらへと向かってくる。裂けた額から流れる血が、彼の顔をより恐ろしいものに変えている。
逃げようとしたが、ロザリーは立ち上がれなかった。体が泥と一体化してしまったように重い。頭の平衡が保てない。下肢に力が入らない。しかし少しでもソーンから離れたくて、茶色い水溜まりに顔を浸し無我夢中で泥の中を這う。
這いずる肩を後ろからつかまれた。泥の上を力尽くで仰向けに転がされる。馬乗りになってロザリーを押さえつけたソーンの目は、憤怒に血走っていた。
ロザリーの手に固いものが当たった。馬車の中で奪われた小型拳銃だった。ソーンのコートから落ちたそれを咄嗟につかむ。
「このクソ
眉間に拳銃が押しつけられた。ロザリーも相手の胸に銃口を向ける。交差した
銃声――
顔を打つ雨に、赤が混じった。
ゆっくりと、ソーンの体が倒れてくる。
ソーンの顎が肩にぶつかる痛みと重みを感じながら、ロザリーは雨と鉄の鈍色を呆然と見上げた。
冷えた体に雨の冷たさは感じなかった。けれど強く打ちつける雨粒で、肌がしびれるように痛んだ。なにが起きたかは分からないまま、ロザリーは自分が生きているらしいことだけを理解した。
「ロザリー殿」
すぐ傍で呼ぶ声がして、のしかかる重みが消えた。入れ替わるように、凜々しい面差しの騎士が視界に現れた。焦茶色の髪から雨水が
「ケイレブ、様……」
ロザリーが名前を呼ぶと、ケイレブの真っ直ぐな眉が少しだけ垂れた。彼は握っていた自動拳銃を手の平から引き剥がすように投げ捨て、ロザリーの手からも小型拳銃をもぎとった。起きたままだった
泥の中から引っ張り上げるように、ロザリーは助け起こされた。ぐったりとした体をケイレブの方へと引き寄せられ、そのまま彼の外套でくるみ込むように抱き締められる。
「ロザリー殿、よかった……間に合って、本当によかった」
囁いたケイレブの声は、ひどく震えていた。ロザリーを抱く腕の力がにわかに強くなる。
頭の先まで泥に
「ケイレブ様……ケイレブ様、ケイレブ、様……ケイレブっ」
ロザリーは衝動のままに彼の名を呼び、広い胸に縋りついて慟哭した。張り詰めていたものが完全に切れてしまい、感情の抑制がまったくできなくなっていた。
子供のように泣きじゃくるロザリーの体を、ケイレブは抱き締める手で何度もさすった。
「ロザリー……大丈夫。もう、大丈夫だ……」
優しく繰り返しながら肩や背中をさすられると、本当に気持ちが子供に戻ったようで、ロザリーはますます泣いた。前に泣いたのはあまりにも遠い過去のことで、どうやって泣き止めばいいのか、まったく分からなかった。
「大丈夫、わたしがいるから。だから……ロザリー……――」
なだめるケイレブの声が、不意にかすれ、途切れた。背をさする手の動きも、ゆるりと止まる。
ロザリーは泣き過ぎによる酸欠で朦朧としながら仰向いた。目蓋を伏せたケイレブの顔が、鼻先で触れられるほど間近にあった。彼の頬も唇も青白く、血の気がなかった。
「ケイレブ……」
嗚咽の合間にもう一度の名を呼んで、ロザリーは彼の首元に顔を埋めた。酸いような甘いような、男性らしい肌の匂いがする。
汗と雨と泥と硝煙と血。匂いは複雑に混じり合い、不思議と強い眠気をもよおすほどの安らぎをもたらした。
ロザリーのあえかなる意識は、甘い安堵感に押し流されるままに暗転した。
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