35輪 不測の事態
馬車が皇宮の門を出ても、ロザリーはまだ放心から回復しきれていなかった。考えなければならないことが山ほどあるというのに、
思考の巡りを鈍くさせている原因は、つい先ほど別れの挨拶を交わしたばかりのケイレブだ。彼の真摯な声と、真っ直ぐ過ぎる眼差しが意識に焼きつき、他のことを考えさせてくれない。
必ず味方になる――つまり、ジェイデンよりもロザリーを優先すると、ケイレブは宣言したのだ。その場の勢いや、同情心からであったにせよ。
皇太子の執務室から出るとき、少々落ち込んでいる振りをしたことは確かだ。実際にはおおよそロザリーの思惑通りにジェイデンと話がつき、なんら気落ちするようなことなどない。
しかしロザリーから皇太子を訪ねた以上は、復縁に関して多少なりとも進展の噂を立てられる可能性が出てくる。機嫌よく執務室から出たのでは、噂を後押ししてしまうだけだ。
それを少しでも回避するには、皇太子との関係があまり順調でないように演じる必要があった。作られた密室でなければ、必ず誰かの目があるものなのだから。
ロザリーのその判断と行動に、ケイレブの同情を買うほどの意図はなかった。だから彼の口から出た思いがけない言葉に、純粋に驚いてしまった。
ケイレブの言葉は、決して愛の告白などではない。だとしても、彼の中でジェイデンよりも優先されるというのは、あまりにも大きな意味を持っている。
それは、ずっとロザリーが願っていたことだった。誰よりも真っ直ぐなケイレブに、真っ直ぐに愛されたいと。そのために皇太子と協定を結び、婚約破棄の舞台を整え、演じた。そして舞台は、まだ続いている。
これまでもロザリーは、計略やはったりを駆使して物事を思い通りに動かしてきた。それができなければ駆け引きがものを言う社交界で生き残れないし、間違っているとは思わない。誰かを陥れようとは考えていないだけ、ロザリーの計略など大人しいものだとさえ思っている。
ロザリーはいつでも嘘で身を固めている。
一方、ケイレブの言葉にはいつも嘘がないと感じた。
それを思った途端に、ロザリーはまるで自分が極悪人になったような心地がした。自身のおこないに対し今ほど後ろめたい感情を抱いたのは、初めてだった。
一人きりの空間でらしくない思考にとらわれていると、軽快に走っていた馬車が軋みをあげて急に止まった。体ごと意識を揺すぶられたロザリーは、不快に眉をひそめて窓から外を見た。
大きな陳列窓を備えた店舗が両側に並ぶ主道の真ん中だった。店舗前の舗道を歩いていた幾人かが足を止め、馬車の進行方向へ視線をやっている姿が目につく。馬車の窓から軽く顔を出して前方のようすを窺えば、他にも二、三台の馬車が止まっているのが見えた。
「どうしたのかしら」
ロザリーが声を出すと、黒のコートを着た御者が帽子のつばに手をやりながら振り向いた。
「事故のようです」
「どんなようす?」
「荷馬車が横転して、散乱した荷で道が塞がれています」
馬車の中からではよく見えないが、主道が完全に通れないとなるとそれなりに大きな事故と思われた。
「助けは必要そうかしら」
ロザリーが問えば、御者は前方へと顔を戻して、軽く伸び上がりながら視線を巡らせた。
「もう警察へ報せが走っているようですし、人手も十分でしょう。ただ、通れるようになるまでは時間がかかりそうです。迂回しますか?」
少し考えつつ、ロザリーは窓から顔を出したまま空へと目線を上げた。
「そうね。できれば降り出す前に帰りたいわ」
「かしこまりました」
御者の返事を聞いてロザリーは顔を引っ込め、窓を隙間なく閉じた。ロザリーを乗せた馬車はわずかな後退のあとで進路を変え、主道から外れた脇道へと入った。
やや幅員の狭い脇道に入ると、やはり主道を迂回する人の姿がいくらかあった。彼らの足どりがせわしく見えるのは、ロザリーと同様に雨が降る前に帰ろうと考えているからだろう。侯爵家の馬車は速度を落とし、道の中央を注意深く進んでいく。
そうして走行を再開していくらも経たないときだった。たんっ、と音を響かせて、馬車の窓に水滴がぶつかった。雨が降り出したのだ。
雨は馬車の天井を騒がせ、瞬く間に車窓を灰色に滲ませた。急な豪雨に見舞われた人々は、駆け足で道から
馬車は、皇都の南を流れるランブラー河沿いの道へと出た。これまで通ってきた裏道よりも幅が広く、河に沿って進めば屋敷の裏門に馬車をつけることもできる。ロザリーもそれを分かっていたので、やかましい雨音を聞きながら馬車の揺れに身を任せた。
突然、馬のいななきが雨音を割った。馬車が急停車する。驚く間もなくロザリーは座席から転げ落ちる。外から御者の声がした。
「なんだお前たち――」
鈍い音と同時に声が途切れた。ロザリーはなにが起きたのか確かめようと、馬車の床で藻掻いて必死に上体を起こした。
「ねえ、どうし――」
馬車の扉が開き、黒い塊が飛び込んできた。水滴を散らしながら覆い被さるようにぶつかられ、ロザリーはたまらず再び床に倒れ込む。濡れた布越しに伝わってきた体熱で、それが長い外套で身を覆った人間だと理解したときには、目の前に銃口が突きつけられていた。
わずかの悲鳴もあげられず、ロザリーは凍りついた。細い銃身が、鈍く輝きながら正確に眉間を狙っている。混乱の中、ロザリーは自分に向けられた拳銃とそれを握る革手袋をした手、その先の腕へとゆっくり視線を這わせた。
恐る恐る、今にもロザリーを殺そうかという相手の顔を視界に収める。鼻の尖った細面な男の顔に見覚えがあり、息をのんだ。
記憶にあるよりも頬がくぼみ、無精髭が生えているが、知っている人物だと断言できる。
それは、ロザリーが皇后の首飾りを見つけた宝飾店の店主だった。
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