34輪 侍衛の恋と義

 姿勢正しく廊下に立ちながら、ケイレブはかたわらの扉を横目に窺った。


 艶やかなチークの扉はしんと佇むばかりで、開く気配もなければ室内の物音も伝えてこない。正面に目を戻せば、幅広い廊下の反対側に、見上げるほど大きな窓が左右へどこまでも並んでいる。

 プラチナの窓枠の向こうの空は、ほんの少し前には青く澄み渡っていたが、今は急速に湧き出した雲で重たげな鈍色をしていた。


 雨水をため込んだ陰鬱なうねりをぼんやりと眺め、ケイレブは無意識にため息をついた。


「気になるのか」


 急に話しかけられ、ケイレブは振り向いた。扉を挟む位置で同じように立っているザックが、わずかに首を捻ってこちらを見ていた。

 同僚のオリーブ色の目をしばらく見詰め返し、ケイレブはまた正面へと顔を戻した。


「一応、それなりには」


 無難に答えたケイレブの声に覇気はなかった。今、この扉の向こうにはロザリーとジェイデンが二人きりでいるのだ。あらゆる意味で、気にならないわけがなかった。

 ジェイデンへの義理と、ロザリーへの恋心との間で、いまだ気持ちの置き場が定まっていない。


「あまり気を揉まない方がいい」


 ぼそりと言ったザックの声も表情も、相変わらず感情の読めない平板さだった。ケイレブはもう一度、横目で同僚の方を見た。


「そうもいかない。わたしは……二人の仲をとり持つよう殿下から頼まれている」


 ケイレブがちょっと詰まって言うと、ザックの目がわずかだけ細まった。


「それを含めての助言ではあるのだが――いや、やはりやめておく」


 表情は動かさないまま、ザックは視線を前へと戻した。その態度がむしろ思わせぶりで、ケイレブはむっとして体ごと向き直った。


「なんだ、ザック。言いたいことがあるのなら言えばいい」

「わたしはこの件に口を出さないことになっている」

「どういうことだそれは。殿下の指示か? 君に一体なにが分かると――」


 言葉の途中で扉が開き、ケイレブは慌てて口をつぐんだ。

 ロザリーが一人で執務室から出てきた。やや荒い動作で扉を閉めた彼女は、ケイレブの視線に気づいて微苦笑のようなものを浮かべた。


「ご多忙のところへお邪魔をして、申しわけありませんでした。わたくしはこれで失礼いたします」


 素早く言ってロザリーは身を翻し、令嬢にしてはやや大股に扉から離れていく。

 客人を送るために足を踏み出したザックをケイレブは手を掲げて制し、自らロザリーの背を追った。いつでも優雅な彼女らしからぬ足どりが、ひどく気になったのだ。


 ロザリーにしては早足とはいえ、長身なケイレブの方が遙かに歩幅がある。数歩で真横まで追いついた。


「外までお送りします」


 隣に並びながら声をかければロザリーはちょっと見上げてきたが、すぐに進行方向へと目線を戻した。


「恐れ入ります」


 ロザリーの返事に、いつもの艶がなかった。まるで皇太子との婚約を破棄した当初の彼女に戻ってしまったようで、ケイレブの胸がざわめく。


 落ち込む侯爵令嬢への不安と心配は、以前にも感じていた。今はそれに加えて、ロザリーの表情を曇らせるジェイデンに対する苛立ちが湧き上がった。


「執務室で、殿下となにかありましたか」


 ケイレブは問わずにいられなかった。詰問にはならぬよう、極力柔らかい発声を心がけた。


 前だけを見て歩いていたロザリーの歩調が一瞬だけ緩んだ。けれど彼女が振り返ることはなく、紅で丁寧に輪郭の描かれた唇に苦笑らしき表情をほんのりとだけ覗かせた。


「なんでもありません」


 そんなはずはない、とケイレブは言い返しそうになった。理性を動員して、強い言葉が飛び出す寸前で飲み込む。自分をなだめるためにゆっくりと呼吸したケイレブは、それでも黙っていることだけはできなかった。


「なにかあれば……」


 言いかけてからケイレブは少し考え、改めて言葉を選んで言い直した。


「殿下のことでなにかあれば、いつでもわたしを頼ってください。わたしは皇太子の臣下ですが従兄でもありますから、身内として多少の意見をすることができます。殿下がなにを言っても、わたしは――必ず、あなたの味方になります」


 ロザリーの歩みが止まり、ケイレブの顔を振り仰いだ。葡萄酒色の瞳が驚いたように見開かれる。少しでも真心が届くことを願って、ケイレブはふちのくっきりとしたその瞳を見詰め返した。


 ケイレブの秘めた恋心と道義との両立は、あまりにも困難だ。ジェイデンを裏切ることはできない。


 されども、ジェイデンのことでロザリーがこれ以上傷つくことがないように守るくらいは許されるだろうと思った。それはおそらく、ケイレブにしかできない。今の彼がロザリーに示せる、精一杯の誠意だった。


 見詰めるロザリーの頬に赤みが差した。葡萄酒色の瞳が潤む光を宿して震える。薄く開いていた唇にほほ笑みが灯った。見る者の胸を打つような笑顔だった。


「ありがとうございます」


 それだけ言って、ロザリーは顔を逸らして再び歩き出した。そのとき彼女のバターブロンドが翻り、耳元できらめくものがあった。蜂蜜色をした小粒の耳飾りだった。


 贈りものを、彼女が身につけてくれている。気づいた瞬間、ケイレブの鼓動が速度を上げた。喜びで胸がいっぱいになり、呼吸が止まってしまいそうになる。


 蒼の皇宮ブルーシャトーの青い床でかかとを軽やかに鳴らし、ロザリーは歩んでいく。国中の粋と贅を尽くした宮殿内にあっても、美しき侯爵令嬢は少しも輝きを霞ませることがない。背筋の真っ直ぐに伸びたその後ろ姿は触れがたいほど気高く、抱き締めて連れ去りたくなるほど愛しかった。


 決して明かせぬ思いに胸を焦がしながら、ケイレブはロザリーのあとを追った。


 侯爵家の馬車が待つ翼棟のポーチに着くまでの間、二人は言葉少なだった。ロザリーとジェイデンの間でなにが交わされたのか、ケイレブは結局聞き出すことはできなかった。だが心根は伝えたのだから必要があれば彼女の方から話してくれるはずだと、信じることにした。


 馬車に乗り込むロザリーに手を貸す。手袋越しに触れた温もりに、離れがたさが込み上げる。あらゆる衝動と恋しさを押し殺し、別れの挨拶を交わす。

 ロザリーを乗せた馬車が雨模様のアプローチを走り去るのを名残惜しく見送ると、ケイレブは機敏にきびすを返した。


 広い歩幅を最大まで使って、宮殿の廊下を引き返す。皇太子の執務室まで戻ったケイレブは同僚の視線も気に留めず、無礼を承知でノックもなしに入室した。


「ジェイ、彼女のことで話が――」


 詰め寄る勢いだったケイレブは、目に飛び込んできた光景に言葉を途切れさせた。


 定位置の机に片肘をついたジェイデンが、紺碧のダイヤを手の中で転がして眺めていた。ダイヤから垂れる鎖が、白く輝きながら揺れている。

 その光景が記憶の暗部に触れ、ケイレブは息をのむ。歩み寄る足も急に重くなり、机から数歩手前で自然と止まった。


 皇后の遺品の首飾りへと落とされていたジェイデンの視線が、上目にケイレブへと向けられた。


「入っていいと言った覚えはないが」


 ジェイデンの声も視線も冷めていた。しかし怒っているようには見えなかったので、ケイレブは端麗な従弟を黙って見詰め返した。


 どちらが先に動くか、根比べのような沈黙が満ちた。ジェイデンは座ったまま上目づかいに従兄を見上げ、ケイレブは数歩離れた位置に立ったまま従弟を見下ろす。


 そのまま膠着こうちゃくが続くと思われたが、存外早くジェイデンがため息をついて首飾りを机に置いた。それを見て、ケイレブも残りの距離をゆっくりと詰める。


「保管庫に戻していなかったのか」


 片手で頬杖をついたジェイデンは、もう一方の手の人差し指で軽くブルーダイヤをつついた。


「どうせ皇室の所有物だ。保管庫に入っていようと、わたしが持っていようと違いはない」


 そういうものではないだろうとケイレブは思ったが、今は指摘するのをやめた。


 幼き日のように、母の首飾りを傍に置くことで従弟がなんらかの情緒の安定を図っているのならば、とり上げようという気にもなれない。それよりも、首飾りにわずかでも縋るような従弟の精神状態の方が気になった。


「ロザリー殿とどんな話をしたんだ」


 ジェイデンは目を伏せた。らしくなく答えあぐねるような間が置かれる。そのまま口をつぐむかとみえた矢先、皇太子はため息まじりに吐き出した。


「今さら、わたしと彼女との間で特別に交わすような会話はない。ただ――」


 言いよどみ、ジェイデンは薄く目を開いた。視線は、机上の首飾りへと注がれる。


「少しばかり、わたしの覚悟を試されているだけだ」


 ジェイデンは紺碧の首飾りをつかみ上げ、机の抽斗ひきだしへと仕舞い込んだ。

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