14輪 無理は禁物
ベッドに寝そべるケイレブの掛布を整えたロザリーは、彼の唇がいくらか赤みをとり戻したのを見て、ほっと息をついた。彼が倒れたときには、どうなることかと思ったが、この分ならばすぐに起き上がれるようになるだろう。
使用人の手を借りてケイレブを運び込んだのは、応接室から一番近い客間だった。青い壁に銀の絨毯が敷かれた内装は、
その窓に背中を向けたロザリーは、不安に焼かれる思いでベッドの
ロザリーが椅子に座り直すと、ケイレブは肺の中身をすべて吐き出すように深く息をついた。
「……本当に、申しわけありません」
ぐったりと仰向いたまま弱々しく若者が言う。ロザリーは彼を安心させるよう、まなじりをなごませた。
「どうかお気になさらないで。今この屋敷にはわたくしと少数の使用人しかおりませんから、ベッドはいくらでも空いています」
「体は丈夫なつもりだったんですが……参ったな」
情けなさそうにぼやいたケイレブは、己を恥じるように片手で目元を覆った。その頬はまだ青白いが、意識がしっかりしているようすにロザリーは改めて安堵した。
「お医者様の話ではただの貧血のようですし、きっとお疲れなのでしょう。大事なくて、よろしかったですわ」
ロザリーが励まして言えば、ケイレブは目を覆っていた手を額へずらして、ぼんやりと天井を見上げた。
「……やはり疲れているのでしょうか、わたしは」
空中に吐き出された問いかけはどこか虚ろで、蜂蜜色の眼差しにもなにも映っていないように見えた。
ロザリーは再び抜け出てしまいそうな彼の意識を引き止めるように、掛布の上に伸ばされている左手を握った。若者は少し驚いたように、顔を振り向けた。血の気が引いていてもなお凜々しさのある彼の面差しを見詰めて、ロザリーは努めて柔らかくほほ笑んだ。
「ケイレブ様はいつも忙しくていらっしゃいますから、お疲れで当然です。しかも近頃は、殿下のご指示とはいえ、わたくしにまで気をつかってくださって……わたくしのせいで、ご無理をされているのではと」
実際ケイレブは、皇太子の秘書を兼ねた侍衛として、数人分とも言える仕事をこなしている。皇太子の意思で近侍の人数が絞られているとはいえ、やはり一人あたりの負担が大き過ぎるのではと、
これを機にジェイデンへ少し物申すべきかと頭の隅で考えながら、ロザリーは憂いを宿して睫毛を伏せた。対してケイレブはわずかに目を見開いて、やや早口になった。
「いいえ、そんなことは。これはわたしの意思でも――」
客間の扉を叩く音が響き、会話は中断された。ロザリーがケイレブの手を放して返事をすれば、赤毛の侍女ミンディが顔を見せる。
「失礼いたします。皇太子殿下をお連れいたしました」
「ありがとう。お通しして」
ミンディが下がり、ほどなくして再び客間の扉が開く。皇太子ジェイデンがミルク色の長髪を揺らして姿を現した。
礼儀に則って、ケイレブは上体を起こすために身を捻った。それを見たロザリーは両手を伸ばし、ふらつく肩に手を添えて支える。真っ直ぐに客間を横切ってきたジェイデンは、ベッドの上で頭を下げようとするケイレブを制し、深々とため息をついた。
「皇太子に迎えにこさせるとは、大した身分だ」
ジェイデンの声は責めるよりも呆れの色が濃く、ケイレブは肩を落として俯いた。
「……面目ありません」
「ひとまず大事ないならいい。ロザリー、面倒をかけてしまったな。知らせてくれて助かった」
名を呼んで、ジェイデンは元婚約者へと視線を移した。ロザリーはケイレブの背中を支えたまま、首を横に緩く振った。
「いいえ。それよりも、ケイレブ様はお疲れのごようすですから、あまり厳しいことは言わず休ませて差し上げてください」
ロザリーからの訴えに、ジェイデンは少し観察するような眼差しで彼女を見詰め返した。視線だけでのやりとりのあと、皇太子は口角に苦笑を乗せて、ベッドの侍衛へと視線を戻した。
「ロザリーが言うのでは仕方がないな。休めるよう、少し仕事を調整しよう」
だがこれに、当のケイレブが異議をとなえた。
「いえ。横にならせていただいて、もうかなり気分もよくなりました。休みが必要なほどのことでは――」
「君に倒れられてはわたしが困る」
やや強い口調で、ジェイデンは異議をはねのけた。
「わたしも君に仕事を振り過ぎていた。数日はゆっくりするといい。だがその前に、自分で立てるか」
休みを言い渡されたことにケイレブはまだなにか言いたげであったが、立てるかという問いに静かに頷いた。
ケイレブがベッドの
「ありがとうございます」
「お気になさらないでと、申し上げましたでしょう。どうか無理はせず、お体を大事になさってください。ケイレブ様は殿下が頼りになさる、数少ないお一人なのですから。いざというときに動けないのは、ケイレブ様にとっても本意ではありませんでしょう? 無理というのは、本当に差し迫って必要になるまで出し惜しみすべきものでしてよ」
ケイレブのコートの肩から背中にかけてを軽く引っ張って整えてやりながら、ロザリーは諭す口調で本心から言った。ロザリーは明朗で情感豊かな彼を気に入っているのだ。寝込む姿を見たいはずがない。
ロザリーから出た当然の苦言に、ケイレブでなくジェイデンが破顔した。
「当人よりもロザリーの方がよほど分かっている」
「本当に、お恥ずかしい限りです」
困ったように苦笑して、ケイレブは頭を掻いた。
支度が調うと、皇太子とその侍衛はすぐに玄関へと向かい、ロザリーも見送りに立った。 外はすでに、夕と夜のあわいの紫色をしていた。黄昏の影が落ちるポーチに横づけされた馬車へと、ジェイデンが先に乗り込む。続いて踏み段に足を乗せたケイレブの背を、ロザリーは呼び止めた。
「ケイレブ様」
一段高い位置から若者は振り返り、ロザリーは目を細めてその丈高な姿を見上げた。
「薔薇をありがとうございました」
ケイレブにだけ聞こえる声量で言えば、彼は面食らった顔をした。ちらと馬車の中を気にするようすを見せてから、皇太子の侍衛はやや戸惑い気味に笑みを返した。
「いいえ――こちらこそ、今日は本当にご迷惑をおかけしました。また改めて、お伺いします」
「ええ。お待ちしておりますわ」
ケイレブが改めて会釈をして、馬車へと乗り込む。
若者二人を乗せた馬車が、できるだけ揺れを抑えるようにゆっくりと走り出した。ロザリーはその影が門を出て道の角を曲がり見えなくなるまで見送ってから、名残惜しい気持ちで室内へと戻った。
皇太子のあの言い方ならば、ケイレブに間違いなく数日の休みを与えられるだろう。それが本人の意にそぐわなかろうと、健康を損なわれるよりもずっといい。彼が目の前で倒れたとき、ロザリーは過去に経験がないほど肝が冷え、心臓が引き絞られる思いがしたのだから。
ロザリーは自室へと向かう階段をのぼりながら、ケイレブの蒼白な顔を思い出して改めて背筋が冷たくなるのを感じた。同時に、皇后の話題を出したときから彼の顔色が変わっていたことにも気づいていた。
また皇后か、とロザリーは思った。
件の首飾りに関わって以来なにかと、皇太子とその侍衛の周囲に亡き皇后の影がちらつく気がした。
発端として遺品を利用したので、ある程度は当然だ。しかしそれで完全に見過ごしていいとも思えないほど、薄らとした気味の悪さがあった。ほとんど直感と言えるものだが、自身のそれがよく当たるものであることを、ロザリーは自覚していた。
次に水晶宮でジェイデンと会ったときに問い質してみようと胸中で決めて、ロザリーは自室へと入った。
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