第5話 結太、イーリスに抱きつかれ大ピンチに陥る

 結太としては、さっさと手伝いを済ませ、帰るつもりだった。

 それなのに、何を手伝えばいいのかと訊ねると、『引越しの手伝いをしてほしい、なんて嘘』『落ち着いて話したかっただけ』などと言い出したものだから、再び困惑する羽目になる。


 いったいどういうつもりなのかと、めている途中、ある方向に目を向けたイーリスは、突然固まってしまい――。

 その数秒後。

 今度は大きな悲鳴を上げ、抱きつこうとして来た。


 驚いた結太は、とっさに避けようとしたが、バランスをくずして、床に仰向あおむけにひっくり返ってしまい……その上にまた、イーリスがおおかぶさり、首元にしがみついて来たのだった。


 結太は、どうにかして、イーリスをどけようとしたが、パニックを起こしているイーリスは、夢中で結太にしがみつくばかりで、いっこうに離れようとしない。しきりに、耳元で『怖い』だの『助けて』だのと大騒ぎし、『どーしたんだよ?』と問う結太の声も、聞こえていない様子だった。


 何におびえているのかは知らないが、とにかく、このままではマズい。

 そう判断した結太は、柔道の寝技などを利用し、イーリスの下から上へと、体勢をひっくり返すことに成功した。

 後は、自分が体をどかせばいいだけだ。


 そう思っていたのに、なんとイーリスは、腕ばかりではなく、あしまでも、結太の体に絡ませて来た。

 ……そう。いわゆる〝カニばさみ〟というヤツだ。


 これでますます、彼女から逃れることが難しくなった結太は、あせりに焦った。

 部屋に二人きりというだけでもマズいのに、結太が上になった(しかも、イーリスの腕と脚により、体はガッチリとホールドされている)状態で、床に倒れ込んでいるというのは、はたから見れば、ラブシーン以外の何物でもない。


 こんなところを、他人に見られるわけには行かないと、必死にもがいているところに――。

 運悪く、桃花達がやって来たのだった。



 玄関のドアは、イーリスによって開けられたまま。

 前を通り掛かっただけでも、部屋の中が丸見えの状態だっただろう。


 更にマズいことに、玄関からは、重なって倒れている二人の、肩から上辺りしか見えなかったらしい。

 見えなかったので、桃花達には、結太がイーリスに、もの凄い力でしがみつかれていることなど、わかるはずもなかった。結太がイーリスに、覆い被さっているようにしか、見えなかったのだ。



 結太が事情を説明しようとしたとたん、桃花はくるりと背を向け、駆け出して行ってしまった。

 咲耶も慌てて後を追い、その場に残ったのは、龍生のみとなった。


 龍生は、呆れ顔で結太を眺めていたが、誤解なんだと泣きつくと、大きなため息をつき、『お邪魔します』と言って入って来た。(こういうところは、やはり、育ちの良さを感じさせる)



 部屋に入って来た龍生に、結太は、『イーリスの様子が変なんだ!』『さっきから、怖いだの助けてだのって騒ぐばかりで、全然離れてくんねーんだよ!』と訴えた。


 龍生は、まだブツブツとつぶやきながら、結太にしがみついているイーリスに近付いた。

 それから、その場に片膝をつくと、彼女の肩に手を置き、『藤島さん、落ち着いて。怖いって、何が怖いんだ?』と、穏やかな口調で訊ねる。


 初めのうちは、イーリスもパニック状態が続いていて、龍生の声すら、耳に入っていない様子だった。しかし、龍生が繰り返し訊ねるうち、徐々に落ち着きを取り戻したようだ。

 何やらブツブツと繰り返していた言葉も、ようやく引っ込んだところで、


「藤島さん。いいかい? もう一度訊くよ? 君は何に怯えているんだ? 怖いというものの正体は、いったい何?」


 問い掛ける龍生に、イーリスは震え声で答える。


「く……黒光りする……生き物……。世界中で、最もおぞましい……。すばしっこくて……図太い……生き、物……」



(すばしっこくて図太い……黒光りする生き物……?)



 瞬間、結太と龍生の脳裏のうりに、同じ生き物の姿がよぎった。

 二人は同時に顔を見合わせ、また、同時にため息をつく。



(なんだ、そんなことか。……まったく、人騒がせな……)



 一気に脱力した彼らの視界の片隅を、一瞬、黒光りする物体が通り過ぎた。

 二人はハッとし、慌ててそちらに顔を向けると、


〝スパーン!!〟


 突如とつじょ、大きな音が鳴り響き、ギョッとした二人は身をすくめる。


 振り仰いだ先には、国吉のたくましい背中があり……彼の片手には、スリッパが握られていた。

 彼はゆっくり振り向くと、渋く、無駄に色気がだだ漏れている声(イーリス談)で、次の言葉を発した。


「敵は一撃で仕留めました。もう心配いりませんぜ、お嬢」

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