"静寂探偵"氷上海子の一言も発さないままに終わる事件簿〜ペンション・イザク殺人事件〜

北 流亡

1

「ひゃっほー!」


 私は目一杯助走をつけてベッドに飛び込んだ。


 ふかふかの羽毛布団と柔らかなマットレスが身体を優しく包む。

 私は枕に顔を埋めて喜びを噛み締める。

 心が、踊り出して止まらない。


 私はいま「家庭」からも「小説家」からも解放された。




 外は暴風雪が、吹き荒んでいた。

 建物が悲鳴を上げるかのように軋んでいた。その音だけで、視界を失うほどの吹雪が想像できた。

 予報は雪ではあったが、ここまで強く激しく降き荒れることは気象庁にも想定出来なかったようだ。テレビからは、この大雪による被害状況がしきりに聞こえてくる。停電が発生したり、交通網が麻痺している地域も少なくないらしい。


 私が執筆のために宿泊しているこの山荘「ペンション・イザク」は、停電は免れてるもののインターネット回線がダウンしたらしい。先程から一向にWi-Fiが繋がらない。おまけにスマートフォンもずっと圏外だ。


「明日の朝までは復旧しなさそうです。すみません」


 このペンションのオーナーである下山さんは謝罪してくれたのだけど、かえって申し訳なくなった。この状況が願ったり叶ったりだから。


 電話回線は生きているので、ペンションの電話を借りて、夫に帰宅が予定より遅くなると連絡する。


 そして、編集部に電話する。


「原稿は完成しているんですがネット回線が繋がらないせいで送れないんですよ……」


「そうですか……そういう状況ならしょうがないですね」


「ごめんなさい……明後日までには送りますので……」


 電話を切って、私はガッツポーズをした。


 本当は明日の午前9時締切だった原稿の締切が、明後日に伸びた。

 そう、それはすなわち呪縛から解き放たれたということに他ならない。


 壁掛け時計から鳩が飛び出して鳴いた。6回。つまり、まだ18時だということだ。

 18時なのに、何もやることが決まっていない。普段の生活からは考えられないことだ。いつもなら食後の後片付けに追われている時間だ。


 さあ、どうしようか。

 デスクの上に置いてあるノートパソコンには、執筆ソフトの画面が映し出されている。

 ほぼ、真っ白である。

 粗筋プロットは完成している。締切は明後日まで延びた。20000字ほどの短編。明日1日使えば、ダラダラと書いても余裕で終わる仕事だろう。

 しかし、現時点で真っ白は不味いのではないか。自由を満喫するにしても、ある程度は終わらせた方が良いのではないか——


 とりあえず私は入浴した。

 良い湯だった。温泉のあるペンションを選んで本当に良かった。

 女湯は、小型犬なら通れるかもしれないくらいの小さい窓が1つあるだけの殺風景な内装で、浴槽もあまり広くは無かったが、安価で泊まれる宿なら十二分に合格点だろう。おまけにサウナもついていた。随分と長いこと堪能してしまった。私より後に入った女性が、私より先に上がるほどだ。


 部屋に戻り、コンタクトを外して眼鏡に付け替える。風呂上がりなので、夫のおさがりのヨレヨレでダボダボのTシャツを着て、下は中学時代のジャージというなんともだらけた格好をしていた。まあ、誰かと会うわけではないので別に気にはしない。

 一旦、ベッドに横たわる。そのタイミングでちょうど鳩時計が1回鳴いた。時計は20時30分を示していた。

 そうか、私は2時間近くも入っていたのか……これは良くないと思いつつ、私の手は冷蔵庫のビールに伸びていた。

 栓を開け、一気に流し込む。渇いた身体に背徳感と爽快感が一気に浸透する。ああ、この一杯のために生きてる。

 原稿をやらねばとは思ってはいるのだが、今の時刻はどうにもキリが悪い。21時になってから本気を出そう。


 鳩時計が9回鳴いた。

 ちょうど2本目のビールが空いたタイミングだった。

 さあ、そろそろ原稿に取り掛かろうかとデスクに着くと、下の階から何かが落ちたような大きな物音と、男女の下品な笑い声が聞こえてきた。

 せっかく客が入らなさそうな日に宿を選んだのに、他に客がいるというのは誤算であった。しかもよりによって大学生である。


 大学生は良くない。本当に良くない。人生を楽しむことしか頭にない連中だ。

 おまけに、いわゆる「パリピ」という種類の大学生だ。派手な髪色に華美な服装。それが5人もいるのだ。夕食を取る際に食堂で見かけた時点で嫌な予感しかしなかった。

 あの手の人間が集まると騒乱にしかならないのは間違いないだろう。せっかくこれから原稿を書こうと思ったのに、乱痴気騒ぎを耳にしながらでどうしたら捗るだろうか。騒乱だけで済めばまだ良いが、最悪なことに彼らは男3人女2人という構成だ。始めたらどうしようか。考えただけで怖気がした。


 鳩が1回鳴いた。

 鳩時計は午後9時30分を指していた。

 酒は進んでいるが、原稿は遅々として進まない。

 やっぱり仕事は明日に回すことにしようか。でも流石に1文字も進んでいないのは不味い。でもたまの自由なんだから満喫してもバチは当たらないのでは。でもそれは問題を先延ばしにしてるだけではないのだろうか。


 とりあえず、酒を追加することにした。


 私は冷蔵庫から「竹鶴ウイスキー」の瓶と炭酸水を取り出した。原稿を進めるためにはやはり醸造酒より蒸留酒だ。


 私は備えつけのアイスペールを持って部屋を出た。製氷機は1階の食堂にあるはずだ。


 階段を降りるとクリスマスのきらびやかな装飾が目に入った。

 この山荘は外装こそは普通のペンションだが、内装はオーナーのこだわりなのか北欧風の調度品やインテリアで揃えられている。まるで絵本の中に入り込んだようだ。


 階段横の棚にも赤と白の衣装で彩られた人形たちが並べられていた。杖を持った王様が7人の小人たちを率いて行進している構図だ。


 私はその先頭を率いている王様に目を惹かれた。

 つぶらな瞳、躍動感のある造形、小さいながらも荘厳な衣装。

 特にこの重厚感のある王冠が——


 バキッ!


 え?


 手に、嫌な感覚があった。まるで繊細な陶器で作られた王冠が割れるような感覚が。

 背中に汗が滲む。

 繊細な陶器で作られた王冠が、真っ二つになって私の右手に乗っていた。


 急いで周囲を確認する。よし、誰にも見られていない。私は王冠をさっとポケットに隠した。


 そのまま食堂に向かう。

 人の気配がする。私は思わずポケット越しに王冠を握りしめる。手のひらが、汗でじわりと湿っていた。

 この山荘のオーナーとパリピ軍団の1人である金髪の男がチェスに興じていた。2人ともこちらに気がつくと一礼をした。私も黙礼を返す。この感じだと王冠を壊したことは見られていないようだ。

 良かった。今のうちに製氷機から氷をもらって部屋に戻ろう。


 私がそそくさとアイスペールに氷を詰めて、部屋まで戻ろうとする。


 大きな影。いきなり食堂の入口から出現した。

 私は驚きのあまり声が出なかった。

 不審者か。いや、そうではなかった。そこに居たのは——


「先生こんばんは! 進捗はいかがですか?」


 180cmを超える身長、浅黒い肌、バレッタでまとめた黒いポニーテール。

 良く見知った顔がそこに立っていた。


「ど、どちら様ですか!?」


 下山さんが狼狽していた。私も狼狽していた。


「あ、私、開拓書房で編集者をやってる千堂遮雪と申します!」


 千堂さんが恭しく名刺を取り出す。下山さんはまるで怪物でも見るような顔つきでそれを受け取る。

 金髪も唖然とした顔で一連のやり取りを見ていた。


「ど、どうやってこちらまで?」


「どうやってって、歩いてですけど……?」


 下山さんの開いた口が塞がらない。

 例年に無いほどの大雪が降り積もる山を登ってきたのだ。しかも、登山用の装備を身につけているわけでもない。ごくありふれたロングコートと少し大きめのカバンだけという軽装で登ってきたのだ。おまけに千堂さんは女性である。


手こずったんですけど、先生のためなら無限に頑張れますので!」


 そう言うと千堂さんは親指を立てた。

 来なくて良かったのに。


「で、先生、進捗はいかがですか……って、《ここじゃ話せませんね》。とりあえず先生の部屋に行って——」


「きゃああああああ!」


 女性の悲鳴が、響き渡る。

 1階の居室の方からだ。


「あかり!?」


 金髪がすぐさま悲鳴の方まで走った。

 下山さんがすぐにそれに続く。


「先生、行きましょう!」


 私は面倒な気配がしたので部屋に戻ろうとしたのだが、千堂さんにがっしりと腕を掴まれてしまった。そのまま、引き摺られるように連れて行かれる。


「柊太……康二が……康二が!」


 ショートボブの女性が金髪の胸にすがって泣いていた。

 おそらく「あかり」とは彼女のことだろう。そう言えば浴場で顔を合わせた気がする。

「柊太」は金髪の事か。それと、もう1人背の高い茶髪の女が、心配そうな顔で部屋の方を見ている。廊下が狭いということもあり、窮屈な感じになっている。

 巻き込まれたくないので早く部屋まで戻りたいのだが、いかんせん何かあったと思われる部屋は階段を降りてすぐの位置にあり、集まってきたパリピ大学生集団が塞いでいて通るに通れない。腕も掴まれたままだ。


 そうこうしているうちに、部屋からオーナーと黒髪の男が出てきた。


「駄目だ。死んでる」


 黒髪の男が伏し目がちに言う。

 金髪の目が見開かれ、ショートボブの女はより一層大きな声で泣き、茶髪の女は口を押えて動揺を隠しきれないような顔をしていた。


 私は廊下の人々の隙間から部屋の中を覗き込んだ。


 そこには、背中をナイフで一突きにされた男がうつぶせで倒れていた。


 殺人事件!

 


 私は千堂さんの腕を振り払って、部屋まで逃げようとした、が、誰かに当たってしまい、その反動で尻もちをついてしまった。

 目線が合う。パリピ軍団の黒髪の男だ。

 私は軽く頭を下げて、脇をすり抜けようとした。そこで肩を掴まれてしまった。


「待ってください!」


 ああ、ものすごく嫌な流れだ。これはまずい。本当にまずい。


「あなた、名探偵の氷上海子先生ですよね?」

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