第9話 トールだけに決まってる
どうしたの、と小さな声で若者は言った。
「マスターがずっと店頭なんて、珍しくない?」
「トールが戻ってこないんだから仕方ないだろ。俺たちじゃ、接客能力はいまひとつだし」
「ホワイトなら、きちんとやれるじゃん。しばらく動かしてないけどメンテはしてるし、使えるよ」
「新規の客に覚えられたら面倒だろ。見た目にはホワイトの方が遥かに年上で、頼れるように見えるんだからな」
「そうだねえ、子供じゃ駄目だ、この前の男を出せ、なんて言われたらトール泣いちゃうね」
「泣くかよ」
「涙は流さないにしても、傷つくでしょ」
「どうかね」
「何、その投げやりな言い方」
「『傷つく』ってのはいろいろ解釈のある言い方だってだけだ」
東洋系の顔立ちをした青年は、そんなふうに言った。
「ま、少なくともあれだ。〈クレイフィザ〉の『顔』はトールで充分」
「マスターは?」
「ありゃ、裏の顔」
アカシは言った。
「トールとマスターは、いわゆる善と悪、天使と悪魔、誠実と不実」
「違いないや」
けらけらとライオットは笑った。
「あ、それからこれこれ」
ぱん、と金髪の若者は手を叩く。
「SとM。……いたい! いちいち殴んのやめろよな!」
「阿呆なことを言わなければいいんだ。……まあ、マスターには確かにSっ気があるが、トールはいじめられて喜んじゃいないだろ」
「まあね」
ライオットは認めた。
「俺らもマスターにはいじめられてるけど、興奮はしないもんね」
「そういうこった」
アカシは唇を歪めた。
「でもさ、それにしてもトール、遅くない?」
「せっかくの外出だ、ついでにどっか寄ってんだろ」
「俺じゃあるまいし」
ライオットは鼻を鳴らした。
「トールに寄り道なんて似合わないよ。どこ行っても、まっすぐ帰ってくんじゃん」
「じゃあ何か? お前はトールが帰りたくても帰れないような状況にあるとでも」
そこで弟たちは顔を見合わせた。
「まさか」
「……誘拐」
「ア、アカシ、不吉なこと言わないでよねっ」
「お前だって考えたんだろうが。例の、〈ジュディス〉の」
「やめっ、縁起が悪いっ」
「耳をふさぐな、解決にならん! まさかとは思うが」
「マスターに言った方、いいんじゃない?」
「そ、そうだな。店頭に――」
「何の騒ぎですか?」
実にいいタイミングで休憩室に入ってきたのは、彼らの兄であった。
「トール!」
「帰ってきたか! おどかしやがって」
技術者コンビは胸をなで下ろした。
「いったい、何に驚いたって言うんです」
話題の主は、ぱちぱちとまばたきをした。
「遅いから心配したんだよー」
「どっかに監禁でもされてるんじゃないかと」
「まさか」
トールは苦笑いを浮かべた。サラの話を思い出したのもある。
「ずっと〈レッド・パープル〉にいたのか?」
「いえ、少し寄るところがあったので」
「へえ? 珍しいじゃん。何してきたの」
「お土産です」
トールは袋をテーブルに置いた。ふたりはのぞき込む。
「あー、〈トライズ〉の限定版?」
「最近宣伝してる、ビーバー社の特製ステッパーか。わざわざ、買ってきたのか?」
「『特殊配合の汎用ステッパー』って何だろうと思いません? うちのステッパーに応用が利くかもしれないと思って探したんですが、なかなか店頭に見つからなくて、思ったより時間がかかってしまいました」
肩をすくめてトールは言った。
「マスターに見てもらおうと思います」
「俺はいいよ、いまので充分だもん」
「俺も特に問題は感じてないが、興味はあるな」
「採用するかはマスター次第ですが、おそらく『興味はあるが、変える気はない』になると思います。あなたたちの希望には反しないでしょう。僕も何か問題を感じている訳ではなく、参考になればと思っただけで」
そんなふうに言ってトールは市販ステッパーのパックをひとつだけ手にした。
「残りは、飲みたければどうぞ」
「えー、お兄ちゃんのコーヒーがいいな、ボク」
甘えるようにライオットは言い、アカシは気持ち悪いなと呟いた。
「ボタンひとつでできるんですから、誰がやっても同じだと思いますが。面倒だから入れて持ってきてほしいと言うなら、仕方ないですね」
呆れ顔でトールは答え、踵を返した。
「……ほら」
そうして「長兄」が休憩室を出るのを見送ると、ライオットは顔をしかめた。
「俺の言った通り」
「お前に同意なんぞしたかないが、せざるを得ないようだな」
アカシは肩をすくめた。
「トールちゃんてば」
「何かおかしいな」
「嘘、だよね。どう考えても」
「嘘と言うか、ごまかしだな。〈レッド・パープル〉以外の場所に寄ってきたことをごまかすために、限定品のステッパーを探してきた」
「ごまかせると思ってんのかなー、あれで」
「基本的にロイドは、他人の言うことを信じるからな。あまりにもとんでもない出鱈目だったりどうしようもなく矛盾だらけであればともかく、ささやかな破綻は人間の言い間違い、記憶違いと判定して、相手が本来言いたかったはずの話を推測する。九割八分、問題は起きない」
「俺らは基本的じゃないでしょ」
「トールはそこを失念したか、判っていてもほかの手が見つからなかったのか、何だか知らんが」
アカシは肩をすくめた。
「何だろう? 気になるね」
ライオットはあごに指を当てた。
「詮索するな。トールのプライベートだ」
「ええ? 俺らにプライベート?」
「俺たちにあるもんか、そんな上等なもん」
アカシは唇を歪めた。
「あるのは、トールだけに決まってるだろう」
「いいなあ、特別扱い」
「その分、マスターに絡まれる率は現状の比じゃないぞ」
「……それもそうだ。羨望発言、撤回」
ライオットはしかめ面で手を振った。
「でもさー、俺らにまで嘘つこうなんて酷いじゃん、トールも。てか、隠されると探りたくなるのは人の
「お前は、人じゃないだろうが」
「より人に近くあるために」
澄まし顔でライオットは言った。
「俺は、トールちゃんと話してきまっす」
「あ、おい!」
アカシはライオットを引き止めようとしたが、生憎と三男は聞く耳持たず、休憩室を素早くあとにした。
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