深海と虚空の臨界点で

『前へ……』


 四方を覆うのは灰と、それに伴う鼻を刺す異臭。ここに立つだけで、並の超凡者なら恐れおののくほどの不気味さが漂っていた。だが、今この古代遺跡を探索するのは、数々の冒険を成し遂げた伝説の冒険者であった。しかし、そんな彼ですら、背筋を凍らせる感覚に襲われていた。


 遺跡の石壁には、かつての輝かしい王国の姿を描いた無数の壁画が刻まれている。その王国は、ユートピアとも言える理想郷であり、住人たちは長寿で、美しく、知恵と力に満ちていた。繁栄する経済、驚異的な科学技術の進歩によって、彼らは現代では夢物語でしかない奇跡を日常としていた。自給自足のエネルギー、ホログラムの仮想現実、あらゆる病を治癒する医術――これらは、彼らの生活の一部であったのだ。


 冒険者は、そのかつての完璧な文明に畏敬の念を抱かざるを得なかった。彼の目的は、この輝かしさの裏に隠された真実を探り、遺跡が語る文明の本質を知ることにあった。


 だが今、壁画をじっくりと眺める余裕はなかった。壁には数千年の間に野蛮に成長した魔力苔がびっしりと生え、その魔力汚染は彼が持参した装置の限界を超えていた。苔から放たれる汚染は、一平方メートルあたりでも十分に致命的なものであり、冒険者の直感はその危険性を警告していた。


 さらに冒険者を不安にさせたのは、壁画が最も輝かしい瞬間で突然途切れていることだった。まるで何者かによって、その歴史が無理やり断ち切られたかのように。この瞬間、冒険者はこのかつて無比の強盛を誇った文明が、一瞬にして崩壊したのではないかと感じた。遺跡内で発見した古代図書館の痕跡からも、この文明が歴史の記録に対してどれほどの執着を持っていたかが明らかであった。それだけに、この記録の突然の中断は、偶然ではあり得ない。


 壁画の中断、そして文明の突然の消滅――すべてが冒険者に極度の不安を抱かせた。何か超自然的な力が、この強大な国家をも抗えない運命へと導いたのかもしれない。


 しかし、彼に最も圧迫感を与えたのは、脳内で繰り返し鳴り響く鐘の音だった。その音は彼を呼び寄せるかのように響き渡り、同時に陰暗な隅から微かなささやき声が聞こえたような気がした。しかし、振り返っても、何もない。冒険者は自分の頭を軽く叩き、過度な緊張を鎮めようと努めた。


 彼は左手に持ったかつて精巧だった腕時計を見つめた。今やひび割れ、破片が剥がれ落ちているその時計は、時間を示すはずの針が狂い、不気味な記号を指し示していた。彼は理解していた。これは時計だけの問題ではなく、この遺跡、さらには自分自身が、何者かによって変質させられているのだと。


『前へ……』


 脳内の呼び声はますます彼を急かした。彼が一歩踏み出すたびに、耳元で「カチッ」という音が鳴り響いた。時計はもはや時間を刻んでいなかった。この異様な遺跡に足を踏み入れた瞬間から、時計はその本来の機能を失い、今やまるで儀式の道具のようになっていた。


 時計の針が3の倍数を指すたびに、四方八方から神聖な鐘の音が響いてきた。周囲には音を発するものなど何もないのに。そして同時に、脳内に探し求めるべき「何か」が響き渡った――これで三度目だ。今、時計の針は9時の位置を指しており、次に動けばゼロに戻る。


 冒険者の直感は、時計がゼロに戻ることで何か重大なことが起こると警告していた。


 その時、彼は足を踏み外した。周囲の景色が一変し、石壁は消え去り、無限の暗闇が彼を包んだ。


 そして、彼の目の前に広がるのは、奇怪でありながらも神々しい光景だった。


 無数の光点が虚空に浮かび、それぞれが見えない「弦」に支えられているかのように揺れていた。光点は異なるリズムで上下し、何らかの波動に反応して震えていた。


 その光点の外側には、巨大で滑らかな黒い球体が存在していた。それはまるで銀河の中心にある超大質量ブラックホールのようであり、天体以外には考えられないほどの規模を誇っていた。黒い天体はすべての光点を引き寄せ、絶え間なく回転させていた。そしてその中心からは、無数の黒い触手のような物質が伸び、光点を飲み込んでいた。それと同時に、別の場所からは新たな物質が噴き出し、それが最終的には新たな光点を形成していた。


「ここは……どこだ?」冒険者は理解に苦しんだ。


 四つの言葉を発するだけで、数千年が経過したかのように、彼は想像を絶する力を消耗していた。落下し続ける中で、時間と空間は消失し、残されたのは無限の虚無と神秘的な光景だけだった。しかし、この景色を見つめているだけで、彼は無限の時間を過ごせるように感じた。


 まるで世界の終わりに到達したかのように、冒険者はある「大地」に辿り着いた。もっとも、ここを本当に「大地」と呼ぶことは難しいが。


 無限の霧が彼の視界を遮り、彼の体は曖昧な方向へと進んでいた。彼は霧を払おうとしたが、すぐに新たな霧が現れていた。彼は呼び声のある方向へ走ろうとしたが、足は鉛のように重く感じられた。


 伝説級の力と魔力は、この霧の中では何の役にも立たなかった。彼はただその呼び声に従い、一歩一歩、苦労しながら前へ進んでいった。


 天空はすでに消え去っていたが、彼は「陽光に似た何か」が降り注いでいるのを感じた。しかし、この陽光は温かくも柔らかくもなく、ただ冷たさを感じさせるだけだった。すべてが温度を失い、すべてがエネルギーを失い、存在が消え去ろうとしていた。


 彼の体は色を失い、「存在」としての彼は自身を保つ力を失いつつあった。この事実もまた、徐々に抹消されつつあった。しかし、彼が歩みを進めるたびに、「カチッ」という音が次第に大きくなっていった。あと一歩踏み出せば、彼はその呼び声の元に辿り着く。


 霧は瞬く間に消え去り、陽光も見えなくなり、圧迫感も消え失せた。


 彼はついに到達した。


 彼は、その呼び声に導かれた「場所」とも呼べない区域に辿り着いた。そこにはただ黒い闇が広がっていた。そして、その闇の中心に、一人の人物が木の椅子に座っていた。


その者」は、「人」と呼べる存在ではなかった。祂の頭部はモザイクのように不鮮明で、濃密な霧が祂の頭部を覆っていた。頭部以外の部分は、黒と血のような赤の縞模様が交錯した貴重な衣装に包まれ、両手には赤と濃紺の手袋が嵌められていた。


 冒険者は突然、腕時計を見下ろした。最後の「カチッ」という音の後、脳内のすべての音が途切れた。時計の針はゼロに戻っていた。時計はまるで燃え尽きたかのように、無数の火花となって消え去った。


 その瞬間、「祂」が目を開いた。


「小さな者よ、私と少し話をしようではないか。」


 数十兆、いや、それを遥かに超える情報が冒険者の脳内に流れ込んだ。何か目に見えぬ力によって、彼はかろうじてその情報に耐え、脳が爆発しないように自らを保っていた。


 椅子に座るその姿は、これまでのどの時よりも不鮮明であり、彼がもたらす威圧感は、冒険者がこれまでに見てきたあらゆるものを凌駕していた。


 その姿が口を開くと、まるで全宇宙が祂の口から流れ出したかのようだった。無数の星空が、冒険者の魂を押し流した。その光景は、恐怖を感じさせるほどに神聖で、輝かしく、美しかった。


 星空の中の天体は無限に遠く、含まれるエネルギーは冒険者をして笑いさえこみ上げるほどだった。彼が経験したすべてが、この偉大な力の前では、あまりにも滑稽であった。


 そして彼は口を開いた。「喜んでお答えします……偉大なる……貴方。」


 彼は狂っていた。このような名状しがたい存在に応えるなど、正気の沙汰ではない。冒険者の法則など、もはや無意味だった。彼の理性は明らかに正常ではなく、彼の体も次第に曖昧になり、霧に溶け込んでいくかのようであった。


「今は何年だ?」


「祂」は冒険者の崩れかけていた体が再び人の形を取り戻すのを見届けた。祂の声は中性的で、驚くほど柔らかく、美しい声だった。冒険者はその声に一瞬驚いたが、すぐにそれがいかに滑稽な考えであったかに気づいた。祂に騙される資格すら、冒険者にはなかったのだ。


「今は公暦1457年……」


「……いいだろう。君と私の時間の認識は違う。君は私の時間を理解できないし、私も君の時間には興味がない。」


 そして、「祂」は立ち上がった。


「小さな者よ、君は迷子になっていたようだ。そろそろ帰りなさい。」


 そう言うと、「祂」は去っていった。


 冒険者もまた、意識を失った。

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