不幸最幸

未来紙 ユウ

不幸最幸

 神界ここに争いはない。

 終わりもない。

 願えばなんでも叶う。

 永遠の世界。

 細かく年数は数えてない。この世界が生まれてから大体どれぐらいだろう。少なくとも無量大数年以上は経ったかな。知ろうとすれば正確にわかるけど、知りたくないのでわからない。

 このあいだまた一柱が自殺して、神界にいるのはボクだけになった。

 そろそろボクも死のうと思ったけど、最近おもしろいものを見つけた。

 真っ白な虚空に裂け目があらわれ、何冊かの本がボクの前にうかぶ。

 マンガ、というやつらしい。

 それを読んでいると、なんだか奇妙な感じがする。

 なんだろう、これ。

 変な感覚。

 無量大数年以上生きてるボクの知らないからだの反応だった。おかしくなったのはマンガを読んでからだ。

 もっとマンガを知らなくちゃ。

 量子波動次元からストーリーづくりの本をとり寄せる。

 そこにはこんな一文が書かれていた。

『抑圧からの解放が、カタルシスを生む』

 変な感覚をひき起こしているいるのはこの『カタルシス』というものらしいが、それを生じさせる原因である『抑圧』というのがなんだかわからない。

 ここでいうカタルシスとは、抑圧された『苦しい』という状態から解放されることで『幸福感』というものが生まれる現象を指しているようだ。

 言語情報としては知覚したのだが、記憶と結びつけて意味信号に変換できない。おそらく神界ここにはカタルシスの前提となる抑圧現象が生じ得ないからだろう。どこを探しても真っ白で、苦しみもまったく見当たらない。

 そういえば前に、困難を創ろうとしていたやつがいた。なんでそんなことするのか、当時はさっぱりわからなかったけど、今はわかる。あいつはカタルシスがほしかったんだ。

 でも無駄だった。どんな願いも叶うんだから、困難があっても乗り越えようと思ったときには通りすぎてしまう。それが神界の理。全能のはずなのに抑圧は生みだせないパラドックス。全能を前に『むずかしい』は存在できないのだ。

 じゃあどうすればいいのか。

 ちょっと考えかたを変えてみた。

 量子波動次元からとりだしたこのマンガ、これが存在する可能性次元を観測定義すればいい。すなわち別次元の世界創造だ。

 困難があり、不幸があり、争いがあり、理不尽と不条理に満ちた世界。

 そんな理想郷みたいな世界を。


 喧騒がきこえる。白と黒に激しく景色が点滅している。足元に硬い感触。林立する高層の建築物の隙間から吹く風が素肌を撫でる。

「あれ」

 人間が生まれたばっかりの時代にくるつもりだったのに。

「ん、ああ、なるほど」

 これが『予想外』というものか。早速洗礼をうけてしまったな。

 では、気をとり直して……。

 電子音や足元が騒がしい。

 なんの変化も起こらない。

「あ、そっか。ここは三次元世界だから力が使えないのか」

 何事も思い通りにならない。

「これが『不自由」ってやつか」

 なんだが感慨深い。

 周りを見回してみる。ピポピポと奇妙な音が鳴っているあいだに、白線が等間隔で描かれたコンクリートの上を人々が渡る。音が止むと人々はぴたりと止まって、自動車やバイクの列が道路を走りだす。

「おお、これが地面か。おお、ボクも立って歩いてる。ははっ、万有引力だ。重力といったっけ。飛べないぞ。テクノロジーを使わなきゃ本当に平面移動しかできないんだなあ」

 視線を上にむける。

「建物高っ。三次元だとこうなるのか」

 建物の窓はきれいに磨かれていて、中性的な顔をした小柄な人間が映っていた。性別というものに照らしあわせれば、どちらかといえば女寄りの見た目なのかな。

 ボクは左手をあげる。窓に映った人間は右手をあげた。

 左頬をつねる。窓の人間は右頬をつねった。

「これが人間のボクか」

 窓の人間も同じように口を動かす。左右反転象の声はきこえないらしい。

 神界では姿形を好きなように変えられたが、三次元世界ではこれで固定化されるのだろう。あまり自分だという実感はわかない。どうすれば容姿にアイデンティティをもてるんだろうか。

 ……ま、いっか。

 うーん、と背筋を伸ばす。

「よーし、もっと散策するぞーっ」


 深夜の道端にボクは倒れていた。

 ぐうううう、と腹が野獣のように鳴く。

 失念していた。三次元のからだは肉体だ。肉体は定期的に栄養を摂らなければならないのに、人間界は金銭という引換券がないと食料が手に入らないとは。

 神界ではどんな物質でも自由自在に創造できたというのに。まさか、あそこを懐かしむときがくるとは思いもしなかった。

 まあ、ここで死ぬのも一興か。始まりと終わりを自然現象に委託できるのは三次元世界の特権だろう。最後に『苦しい』を体感できてよかった。

 そこで意識は途切れた。


 いい香りに意識がひっぱられる。

 まぶたをあけ、上体を起こす。

「あ」

 知らない声がした。声をたどってみる。

 セミロングの黒髪がゆれる。人間の女だった。この時代の暦で計算したところの二十代ぐらいだろう。ゆったりした部屋着をまとい、瞳に活力がなく表情に乏しい。

「起きたんですね、よかった」

 ボクはソファーから足を下ろす。

「ここは」

「わたしの家です。会社帰りに倒れているのを見つけたので……すみません」

 文法に違和感をおぼえた。

「なんで謝ったの」

「あ、いえ、その」視線があわない。「勝手に連れてきてしまって……迷惑だったかなって」

 なにをいっているのかよくわからない。

「助けてもらったのに、迷惑なわけないよ」

 はじめての助けられである。

 彼女は表情を和らげた。

 変な人間。

「あの、ご飯食べます? お腹、すいてるようだったので」

 彼女のうしろ、テーブルの上には料理がならべられていた。

「いただきまーす」

 ボクが手をあわせると、彼女もおずおずと手をあわせた。

 あれ、ここじゃこうするって勉強したはずなんだけど。時代が違ったのかな。記憶があいまいでよく思いだせない。三次元では記憶に手が届かないなんてこともあるのか。不便ってすばらしい。

「あの」

 食べようとしたところに投げかけられた。

「わたし、春奈日和っていいます。あなたは」

 ハルナヒヨリ。アナタハ。

 ああ。

「名前のこと?」

 ハルナヒヨリはうなずく。

 さて、どうしよう。神に名前はないからねえ。

 名前のない人間は一般的ではないから、すぐに応えなければ不自然だと思われるだろう。

「……イフだ」

 てきとうに思いついた名前だったが、ハルナヒヨリは納得してくれたようす。

 やっと食にありついた。

「んんっ。ハルナヒヨリ、これキミがつくったの」

「は、はい」

「おいしいっ」

「あ……ありがとう」

 食べ進めながら考える。考えるというか、脳が勝手に情報精査するのに任せる。ニューラルネットワークの働きは主体が感知しない無意識という領域でおこなわれるため、自分でもどんな思考枝がむすばれるのか不可測なところがおもしろい。

 あのときは死ぬかと思ったけど、ハルナヒヨリのおかげで死ねなかった。まだ生きなければならない退屈さもあるが、それとは異なる感覚もどこかにあった。

 なんだろか、これは。

 意識に昇ってきた自然思考の信号をうけ、ニューロンが検索をかけた類似情報の枝がフィードバックされる。ばらばらだった思考信号がまとまってひらめきとなった。

 そうか。

 死にかけからの親切!

 マイナスからのプラス!

「これがカタルシスかっ」

 ハルナヒヨリが驚いた顔をつくる。

 あいつらが生きてたら教えてやりたかった。

 不幸があるからカタルシスが生まれる。死にかけたのは大きな不幸だ。不幸が大きければ大きいほどに幸福もでかくなる。

 三次元世界では小さな不幸から大きな不幸までよりどりみどり。

 ここは不幸にあふれている。

 なんてすばらしい世界なんだ。

 死ぬ前にきてみてよかった。

 ……あれ、そういえば。

「ハルナヒヨリ、この時代って西暦換算で2000年ぐらいだっけ」

 彼女はいぶかしげな顔で答える。

「2019年、ですけど」

「うっわあ、まずいじゃん。このままじゃあテクノロジーの発達でどんどん不自由がなくなっていって不幸も減っちゃうよ。相対的に幸福もなくなっちゃうじゃないか。人間ってやつはなんでそう便利なものを使いたがるんだ。せっかく不幸にあふれた理想郷なのにっ」

 ハルナヒヨリは眉をひそめる。

「あの、わたし、やることがあるので」そういって立ちあがる。「今日はもう遅いので泊まっていってください。テレビでも見ますか?」

「やることって」

 彼女はふりむかずに答えた。

「趣味、なんですけど……ちょっとマンガを描いてて」

「マンガっ」ボクも立ちあがった。「ええ、見たい見たいっ」

「いや、ごめんなさい。人に見せれるレベルじゃなくて」

「ええー、読みたいー、お願いー」

 中身は三次元宇宙よりはるかに歳上だが、外見の子どもらしくおねだりしてみる。

 彼女は視線をあわせず、半分だけ首をうしろにまわした。

「……あんまり期待、しないでね」


 ハルナヒヨリの部屋には本棚がたくさんあり、マンガの単行本がぎっしりならんでいた。長編マンガがずらりと整列しているさまは壮観だ。

「どうぞ」

 渡されたのは三十枚ぐらいの紙束だった。単行本になっていない原稿。

「ありがとう」

 これが、ハルナヒヨリが描いたマンガ。

 二枚をならべて見開きにして読んでいく。

 読み終えたボクは思わず顔を渋くしてしまう。

「うーん、なんだろう。おもしろそうだったんだけど、なんか物足りない気がする。カタルシスを感じないのかなあ」

 ハルナヒヨリは涙目になる。

「やっぱり、おもしろくないですよね」

「なにが違うのかな、ほかのマンガと」

 ボクはおもむろに立ちあがり、本棚にあるマンガをひとつ手にとった。神界で見たことがある大ヒットマンガだ。それをパラパラとめくる。

「あっ、そっか」マンガを閉じる。「苦しみにリアリティがないのかなあ」

 ハルナヒヨリが顔をあげる。

「なんか、ハルナヒヨリのマンガは全体的にふわっとしてるような気がする。だからカタルシスも薄くなっちゃう。最初はおもしろくなりそうだったから、あとはリアリティがあればいいんじゃないかな」

「……なるほど」

 ハルナヒヨリはパーソナルコンピュータの前にすわった。

「ちょっと、プロット練り直してみます」

「ほかのマンガも読んでいい?」

「……どうぞ」


  ★☆★☆


 朝日が昇る。

 あわただしく朝食をとり、スーツに着替えた日和は玄関へ小走りでむかった。

 くつを履き、ドアノブをにぎる。

「いってらっしゃい」

 背中に声がぶつかった。首をめぐらす。

「こういうんでしょ。違った?」

 きょとんとした顔をしたのは、昨日道端で拾った美少女イフだった。本名かは定かではない。日本語を流暢に話すが、あきらかに日本人ではないだろう。いや、もしかしたら日本生まれかもしれないか。透きとおるような白髪が美しくて、相手は幼い女の子なのに嫉妬してしまいそうになる。

 ――いってらっしゃい。

 脳裏にあたたかい声がよぎる。安心する声。

 安心してしまうから、それ以上思いだしたくなかった。

 視線を前にもどし、ドアをあける。

「……いってきます」

 涙をこらえて、かろうじて返事ができた。


 デスクワークの仕事中、日和の頭のなかにはイフがいた。昨日考えたプロットを早くネーム(下書きのようなもの)にしたい。

 またイフに読んでもらいたい。ネームでも見てくれるかな。

 昼食と夕食のつくり置きはしたけど、ひとりでだいじょうぶだろうか。あるいは黙っていなくなっている可能性もある。できれば早く帰りたい。

「だめだよ。許可できない」

 課長は目をあわせない。

「いいの? お母さんからだ悪いんでしょ。ひとりで育ててくれたんだろ。親不孝者にはなりたくないよね」


 帰りは深夜になった。

 日和はマンションを見上げる。部屋には明かりがついてない。

 まだわからない。だいじょうぶ。きっと。

 玄関ドアにカギをさす。ドアはあかない。もう一度やると、今度はひらいた。カギが閉まってなかったのだ。

 家のなかは真っ暗だった。電気をつけ、盗まれそうなものをさがす。金目のものも、通帳も、なにも盗られてなかった。

 つくり置きした昼食と夕食が、きれいになくなってるだけで。

 人の気配はない。

 床にすわりこんだ。

 手も洗わず、着替えもせず、リビングから動けない。壁にもたれる。

 静寂しかない。

 ピーンポーン、とチャイムが鳴った。

 重たい足取りで玄関へむかう。

「はい」

 ドアをあける。

「あ、おかえり。遅かったね」

 間の抜けた声でいったのは、中性的な顔をした少女イフだった。

「ごめんごめん。ちょっと散歩してて」

 日和はその場にへたりこんだ。

「えっ、なにっ、どしたっ」

 深くため息がこぼれる。

 イフの顔を見上げた。

「ただいま」


 今夜もイフにネームを見てもらった。

「これまでのやつよりおもしろかった」

 日和はこぶしをにぎる。

「でも、まだなにか足りない気がする」

「なにかって」

「うーん、なんだろう」

 日和も自分のネームを読みかえす。

 たしかに、なにかが足りない。

 しかし答えはでず、夜はふけていった。


 翌日の会社でも、イフのことを考えてしまう。

 いつまでいてくれるかな。今日が木曜。金、土は仕事で、日曜が休み。休日になったら話をきいて……そしたら。

 そしたら、帰ってしまうかもしれない。

 いつまでもいる気はないよね。ずっと居てもらうのは、はずかしいし。いろいろと問題もある。イフのためにも話をきかなければいけない。

 社内に電話が鳴った。

「春奈さーん」

 名前を呼ばれて日和は立ちあがる。

「はい」

「お電話です」

 なんだろう。

 電話を代わる。

「はい」

『春奈日和さんですか』

「あ、はい」

『〇〇病院の者です』


 日和は上司のもとへ向かった。

「課長、母の容態が悪化したので帰らせてもらってよろしいでしょうか」

「あのさ、これまでもこういうことあったよね。それを毎回帰られたらこっちも困るんだよね」

「でも」

「でもじゃない。最近の若者は言いわけばっかりだよね。少しは社会のために貢献したいとか、そういう志しはないのかな。自己本位な考えは社会じゃ通用しないよ」

「でも母がっ」

「人の話はちゃんときかないと。言いわけはよくないんじゃないかな。帰りたいなら仕事をおわらせてからにしてください。最低限の仕事もこなせず自分の意見だけ通したいなんて虫がよすぎるってわからない? 世界はあなた中心にまわってるわけじゃないんだよ」


 その日、母は死んだ。


 部屋の明かりがついている。

「おかえり」

 イフが出迎えくれた。さらさらの美しい白髪。まつ毛も細やかで、まるで歩く芸術作品のよう。こんな容姿に生まれていれば、なにかが違っていたのかもしれない。

「夕飯あっためといたよ」

 そんな都合のいい話はないか。そもそもイフは道端に倒れていた。わたしよりよっぽど過酷な人生をあゆんでいるかもしれない。

 今もきっと紛争地域では人間同士で殺しあったりしている。そんなのとくらべてしまえば、わたしの苦しみなんて大したことはないんだろうな。

「……先にお風呂入る」


 日和は湯船に浸かる。

 天井を見上げる。

 ゆっくり息を吐く。

 台所からもってきたナイフをとりだす。

 手首にナイフをふりおろして。

 ナイフをもった手が止まった。

「なにやってんの」

 いつのまにか入ってきたイフが、ぎりぎりのところで日和の手をつかんでいた。

「……なんで」

「その目をたくさん見てきたからね。すぐにわかるよ」

 ナイフを奪われる。

「なんで死のうとしたの」

 きょとんとした顔も絵になる。これを描けばモナリザのとなりに飾れるんじゃないだろうか。それよりも、教会に飾ってあったほうがしっくりくるかもしれない。すべてを見透かすような瞳。

 日和は歯をかみしめる。

「おまえにっ、わかるわけないっ」思わず叫んでいた。「理不尽なことなんてなんにも知らないみたいな顔したおまえなんかに、わたしの気持ちがっ」

「キミもわかってないよ。理不尽がどれだけ幸せなことか」

 頭がバグっておかしくなったかと思った。

「は?」

「ボクもわからない。せっかく理不尽も不幸もあるのに、なんで自殺する必要があるの。ボクがいた世界には理不尽も、抑圧も、苦しみも、争いも、不便もなかった」

「は、あんたは神さまかなんかか。よかったね。ぬるま湯育ちのお嬢さまが、えらそうに説教すんなよ。自慢か」

「なにをいってるのかよくわかんないけど、ボクの世界ではボク以外みんな自殺したんだよね」

 なにをいっているのかわからないのはこっちのほうだった。

 イフはつづける。

「理不尽がないと不幸はない。不幸がないと苦しめない。苦しめないとカタルシスを感じられない。カタルシスがないと喜ぶこともない。おもしろくない。楽しくない。楽しくなきゃ生きる意味がない。どんな願いも叶う世界で、なんでもあるからこそなんにもない虚空に、死も生もなくただ存在し続ける。そんなものに意味はなんてない。死があるから生きていられる。苦しみが命に意味をつけるんだよ。不幸がある世界なんてこれ以上ない贅沢なのに、自殺するなんてもったいない」

「うっ、さいっ。ごちゃごちゃ理屈っぽいこというな。わたしはもういいんだよ。生きてても楽しいことなんてない」

「マンガに一番大切なことはなんだと思う?」

「は?」

「カタルシスだよ。抑圧からの解放。仲間を苦しめた敵を倒すところが一番盛り上がる。でも、その前に読むのをやめたらマンガはつまらない。キミがやろうとしたのはそういうことだ」

「人生はマンガじゃない。いいことが起きる保証なんてない」

「うん、保証がない。先のことはわからない。お先真っ暗だ」

「ほら」

「だからおもしろい。先が読めちゃうマンガよりよっぽどね」

 イフは笑う。

「人間には寿命があって、死ぬときは自然現象に任せられる。自発的に死ぬ必要のない世界なんだから、死ぬまで生きればいいじゃない」

 まるで自分は人間じゃないような言葉だが、なんだか最初からそうじゃないかという気はしていたのだと思った。べつの世界からきた、価値観のまったく違う少女。わけがわからなすぎて逆に力が抜けてしまった。

 日和は腕を湯船に落とす。

「でもわたしは、これからどうやって生きればいいか……もう、わからない」

「じゃあその苦しみが詰まったマンガを読ませてほしい」

 イフの顔を見やる。

「ボクだけにじゃない。世にだすんだ」

「……無理。才能ないし」

「失敗してもいいじゃん。生きてれば何回だってチャレンジできるんだしさ。死ぬのはチャレンジしてからでいいんじゃないの。キミの苦しみは絶対おもしろくなるよ。カタルシスに一番必要なのは苦しみのリアリティだからね」

「違う。カタルシスで一番大事なのは、苦しみじゃなくて解放」

「じゃあ、かいほっちゃえばいい」


 日和は病院へいく。

 精神科で診察をうけた。


 課長がなにか吠えている。

 よくきこえないが、ペン型の盗聴器がひろってくれる。


 日記をつける。サービス残業の強要やパワハラ発言など、その日時を記録。それ以外のことも細かく日記に書く。あとですべてマンガのプロットにつかえるように。


 作業机の上に証拠品をならべた。

 課長はぽかんとしている。

 日和は辞表を押しつけた。

「と、盗聴してたのか」

「これは盗聴ではなく秘密録音です。裁判の証拠として認められます」


 課長はクビになり、未払いの残業代と慰謝料をもらって日和も会社をやめた。

 家賃の高いマンションを退去し、緑に囲まれた田舎の家に住む。

 イフもついてきた。

「カタルシス完成だね」

「うん。あとは描くだけ」

 日和は田舎でバイトしながらマンガを描く。

 日記を参考に、大筋は事実に沿って、ノンフィクションではなくエンタメだからいい感じに脚色して。


「できたっ」

 扉絵にはイフと日和に似たふたりと、タイトルの『不幸最幸』を大きく描いた。

 早速イフに読んでもらう。

 読み終えたイフはうなずいた。

「おもしろいっ。カタルシス超感じた」

「ほんと?」

「修正したほうがいいんじゃないかなーってところもあるけど、これを改稿したら新人賞とれるかもしれないね。とれなくても、それを楽しめばいいよ」

「うん。そうだね」

「これからも読ませてよ。ずっと、最後まで」

 イフの笑顔を見て、日和もつい微笑んだ。

「ありがとう」

 笑顔のつくりかたを思いだした。

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