グラン・メーアが──日

雨上鴉(鳥類)

グラン・メーアが──日


「グラン・メーアが──日」



 手を伸ばしても、届かない。

 それでも手を伸ばす。

 ああ、どうして。どうしてこの手は届かないのか。

 必死に伸ばした手は、何も掴めない。

 水の音がする。冷たい水に、何かが落ちる音。


 冷たい海に沈んでいく兄の顔が、見えなくなった。


「置いていくのは、お前の方だよ」



 俺には、双子の兄がいる。

 一卵性の双子。俺と瓜二つの顔をした、けれど俺とは違う存在。名前はグレン。

 聡明な、けれどさっぱりした気持ちの良い人。俺はその後ろ姿を追いながら、どうして俺と兄はこうも違うのかと不思議だった。そっくりなのは見た目だけ。好きなものも違えば、性格も違う。臆病な俺には、同じ広さであるはずのその背中が、大好きだった。同じ長さと色であるはずの、黒い長い髪が揺れるのを見るのが好きだった。

「グレンー。ご飯だってかあさまが呼んでいます」

「げ。もうそんな時間か。分かった、すぐいく。ありがとうグラン」

 兄は、ここ数日ずっと机に向かって何かをしている。チラリと見えた手元には、何やら重くて難しそうな大きな本が置いてあった。兄は読みかけなのだろうその本に、近くにあった適当な紙を挟んで閉じると、椅子から降りてこちらに向かってきた。

「さ、行こうか。今日のご飯はなんだって?」

「今日は、俺たちの十三才の誕生日のお祝いだから、グレンと俺の好きなものをいっぱい作ってあるそうですよ。何があるか楽しみですね」

「へー、そいつは良い。なら、冷めないうちに早く行こうぜ」

 グレンはそう言って笑うと、俺と手を繋いで駆け足で向かった。

「わわ、速いですグレン!」

「はは、グランはもうちょっと鍛えた方がいいな。ヒョロっちいもん」

「もう!グレンが運動神経良すぎなんです!」

 足の速かった兄に、それでも必死について行ったあの日。

 兄の顔が少し寂しげだったことに、俺は気づけなかった。


(あの日の笑顔が、俺の脳裏から消える日は来ない)


 いっぱい食べてお腹いっぱいになって、そのまま寝たような気がする。

 いつも通り。いつも通りの朝のはず。そのはずだ。

「……ろ、きろ、……起きろ、グラン!!」

「……!あ、あれ?グレン?」

 起きたら、兄と一緒に知らない場所に寝ていた。寝るときの状態そのままの格好だが、足に重りがついていた。靴は履いていない。

「どこでしょう、ここ」

「分からない。村のはずれだとは思うんだが」

 寝ぼけている目をこすりながら、辺りを見渡す。どうやら、白っぽいテントのようなものの中で寝ていたようだ。遠くで祭囃子の音がする。

「グレン、今日何かお祭りのある予定でしたっけ」

「いや、そんなはずはないけど。うーん、新嘗祭にしては早いよな?」

「ですよね?」

「とりあえず、ここから出よう。……え、うわっ!」

 グレンがテントの布を剥いで出ようとした時、突然テントが揺れた。そのまま動き続けている。

「これは。移動しているんでしょうか」

「グラン、こっち」

 グレンが手招きする方に向かう。グレンは俺と手を繋ぐと、そっとテントの布の隙間から外を覗いた。俺もその後ろから隙間を覗く。

「思いっきり外だな。潮の匂いがするし、海側か?」

「みたいですね。うーん、この辺りにくることないですよね?普段は立ち入り禁止の区域では?」

「立ち入り禁止の区域?ってことは、もしかして」

「グレン?」

 グレンはなにかを思い出した様子で、顔を引きつらせた。

「グラン」

「はい、グレン。どうしました?」

「グラン。これを、持ってて。俺が良いって言うまで、開けたらダメだからな」

 グレンはそういうと、ポケットから手紙のようなものを取り出した。A5サイズくらいの、そんなに大きくない紙を折りたたんだもの。

「?はい、分かりました。グレンが良いって言ったら、開けるんですね?」

「ああ」

 俺は紙をポケットにしまった。

「なあ、グラン」

「はい。って、あわわ。ちょ、グレン?」

 グレンは、突然俺を抱きしめた。その背は、少しだけ震えていた。

「ねぇ、グレン、グレンってば!どうしたんですか⁉︎」

「ちょっとだけ怖いからさ、楽しい事でも考えようぜ」

「楽しいこと?例えば?」

「そうだなぁ。あ、昨日食べたご飯、何が一番美味しかった?」

 グレンは俺を抱きしめたまま、他愛もないことを話し始めた。顔は見えないけど、笑っていることはわかった。

「お魚のグラタン!あれが好きです。また食べたいなぁ」

「ああ、白身のやつだろ?あれは美味しかったな。一緒に入ってたマカロニも美味しかったし。俺はなー、やっぱり肉だな。なんだっけ、サラダの上に乗ってたやつ」

「ローストビーフですね。グレンはあれが好きですねぇ」

「美味いじゃん?なのにあんまり入ってないっていうな。お腹いっぱい食べてみたかったもんだぜ」

「食べ物の話をしていたら、お腹がすいてきましたね。どこまでいくんでしょう、このテント」

「朝ごはん食ってねぇもんな。ん?スピード落ちたな」

 グレンの言う通り、テントはスピードを落とし、やがて止まった。

「止まったな。一体何が」

「とりあえず、出てみましょう」

 俺はグレンと手を繋いだまま、布を捲って外に出た。

 ……出ようとした。

「え、うわああああああ!!」

「え、何が……うわあああ!?」

 出た瞬間、そこには地面がなくて、真下が海だった。

 どうやら、海の上の崖ギリギリのところにテントの出口が来るように設置されていたらしい。慌ててグレンがテントの布を掴み、なんとか落ちないよう支える。

「っ……!グレン!大丈夫ですか!」

「なんとか大丈夫だ!っくそ!重りがなかったら動けるのに!」

 左手の先にいるグレンに向かって叫ぶ。俺ははなんとかグレンの手を握っているものの、自分の足についている重りのせいもあってうまく動けない。

「一体何どうなって……グレン、上!上です!」

「上⁉︎」

 視線を上げた先。そこには、俺たち二人の住む村の大人たちが、笑っているのに怖い顔で立っていた。

「俺たちをここまで連れてきたのは、あんたたちか!どういうつもりだ⁉︎」

 グレンが叫んだ。大人たちはゲラゲラ笑う出す。

 昨日までは優しかった、二軒隣のおじさんが口を開いた。

「どうしたも何も、君は知っているんじゃないのか、グレン?弟の方は知らなかったようだがな」

 グレンは知っていた?一体何を?

「やっぱりか。まさか、本当にやらかすとはな」

 グレンは悔しそうな顔で呟いた。

「グレン、グレン!一体何のことなんですか⁉︎グレン!」

 グレンは答えてはくれなかった。俺の手を掴む左手が、痛いくらい握りしめられる。

「さぁ、もうわかっているんだろう?君たちにはここで沈んでもらわないといけないんだ。グレン、その手を離しなさい。村のためなんだ。君はわかっているんだろう?」

 おじさんの顔がよく見えない。太陽が真上に上がったのだ。逆光になっている。

「俺が、それで納得するとでも?抗わせてもらうさ、ここでな!グラン!」

「グレン!」

 グレンは、俺の方を見た。いつもの頼もしい笑顔だった。

「グラン!さっき渡した紙、開いて!」

「はい!」

 俺はポケットから紙を出すと、畳まれていたそれを開いた。

 グレンが、笑っていた。

「俺が何も用意していなかったと思うなよ、老人ども。

 ……転移スクロール、起動」

 ──何が起こったか、わからなかった。

 グレンが、血を吐いたのが見えた。それと同時に、紙が光って自分の身体がフワリと浮いたことも。

 大人たちが、何かを叫んでいる。それが、とても遠くに聞こえた。

「グレン!何ですかこれ、グレン!」

 シャボン玉のように広がった光に包まれる。だんだん音が遠くなっていく。シャボン玉の壁を叩いたが、割れる様子はない。

「ごめんな、付け焼き刃じゃ、お前を助けるだけで精一杯だったんだ。……生きろよ、グラン」

 シャボン玉に包まれた、自分の身体が動き出す。グレンは血反吐を吐きながら、それでも笑っていた。グレンから手が離れる。

「待って、グレン!!ねぇ、グレン‼︎置いていかないで‼︎」

 ──手を伸ばしても、届かない。

 それでも手を伸ばす。

「置いていくのは、お前の方だよ」

 ああ、どうして。どうしてこの手は届かないのか。

 必死に伸ばした手は、何も掴めない。

 意識が遠のく。シャボン玉と一緒に、自分の身体が透けていく。


 ──水の音がする。

 冷たい水に、何かが落ちる音。


 冷たい海に沈んでいく兄グレンの顔が、見えなくなった。


 夕日の色が見えた。

 星空の静けさが見えた。

 朝の、眩しいくらいに美しい澄んだ空気も。

 グレンは、俺に生きろと言った。

 冷たい海に沈んだ兄を。救う方法は、きっと俺が生きることでしか達成されないのだろう。

 ならば、生きなければ。どんなに足掻いてでも、生き残らなければならない。

 きっとそれが、俺が生き残ってしまったことへの、最後の試練、兄の遺言。

 神さまなんていない。そう思い知った。

 そんなものを信じていても、生き残れない。

 強くならなくては。強くなって、生き残って。

 いつか、グレンのもとに還るんだ。

「逃げなきゃ」

 涙を拭いて、立ち上がる。村の大人達は、きっとどこまでも追ってくるだろう。逃げなければ。

「グレン、待ってて。必ず帰ってくるから」

 星空の向こうに続く、明日に向かって歩き出した。

 

 

 いつかの7/9



 夜も深い頃。真昼の暑さも去り、涼しい風が窓から入ってくる。月は明るかった。

「グラン」

 隣で寝ている片割れに、声をかける。片割れは寝息で返事をした。

「よく、寝てるな」

 片割れの頬を指で突く。むにゃむにゃ、とふやけた顔で声を漏らした。そのまま手を滑らせ、頭も撫でる。

 ──こんなことができるのも、この夜で最後だろう。

 明日。予定通りあの「儀式」が行われるのであれば。俺たちが無事である可能性は、限りなく低い。

 図書室の奥底に、隠れるようにしまってあった、一冊の本。この村の病。神さまとはなんなのか。

 俺とグランが、見つけないように。目に入らないように。奥に眠っていたのだと思う。結局俺が見つけてしまったが。

 グランだけでも、助けないと。本を見つけてから、今日まで時間はなかったが、対策はした。きちんと使えれば、グランだけでも逃がせるはずだ。

 付け焼き刃の知識では、これが限界だった。分かってる。グランだけでも逃すことができるだけでも、充分だと。けれど。

 片割れの寝顔を見る。安心しきった様子で眠る姿に、笑みが溢れる。

 グランは、今後どんな風に成長するのだろう。俺と違って、臆病で、鈍臭くて。けれど、そんなところが可愛いくて。なにより、誰かにとっての善であろうとする姿勢は。生来の不信感を拗らせた俺には、できないこと。そんな誰よりも優しいお前が。誰かと出会って。誰かを好きになって。誰かを守る側になる日がくるなら。俺の全てと引き換えたって、悔いはない。

 けれど、それでも。どうしても。

「死にたくないなぁ」

 ああ、なんで。なんで俺は、グランの行く末を、この目で見ることができないのだろう。この世界の誰よりも、その身を案じていながら。自分はそばにいないなんて、あんまりじゃないか。

 涙がこぼれた。いつもはグランの方が、よほど泣き虫なのに。どうやって止めればいいのかも分からない。

「愛してるよ、グラン」

 ああ、目蓋が重い。今日は寝ないでいたかったけれど、そうはうまくいかないようだ。今日食べたものに、何か入っていたのだろう。最後まで、用心深いことだ。

 目蓋が落ち切る前に、片割れを抱きしめる。これも最後になるんだと思うと、いつもより力が入ってしまう。痛くないかな、大丈夫かな。

 目を閉じる前に見た片割れは、変わらず幸福な顔で眠っていた。

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グラン・メーアが──日 雨上鴉(鳥類) @karasu_muku14

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