だから今日も私は、彼のために料理を作る。

えんがわなすび

1

 空が鉛を落としたような冬の初め、キッチンで指を切った。

 血が噴き出したそれを半ばぼんやりと見ながら、私はシンクの蛇口を捻りそれを流す。私の真っ赤な血は浄水されていない都会の水道水と絡み合ってぽっかり開いた口に吸い込まれていった。



「ただいま」

「おかえりなさい」

 日付の変わる頃、夫が帰宅した。

 遅かったのねという言葉をその後に続けなくなったのはいつからだろうか。少し照明を落としたリビングに途端、夫の匂いが充満する。

 彼がネクタイを外し、脱いだジャケットを無駄に大きなソファに掛けている間にキッチンに立ち鍋を温める。今日はポトフにした。キャベツ、ジャガイモ、ニンジン、肉。ゆっくり、丁寧に時間を掛けて煮込んだ。鍋から立ち上るポトフのシンプルな香りが、私と夫の匂いが充満する部屋を侵食する。

「遅くなるから待たなくていいって言ったのに」

「なら、なおさらよ。お腹空いているでしょう」

 少しの溜息と共に嫌悪感を滲ませた顔を見なかったふりして、二人掛けの小さなテーブルによそったポトフを彼の分だけ置く。私は自分用に熱いお茶を淹れた。

 夫は何か言いたそうな顔をして口を僅かに開け、それでも半ば諦めたように律儀に私の前に座って食べるのだ。私は同じようにお茶を飲み、黙って彼が食べ終わるのを待つ。

 外は風が吹いているのか、お風呂場の方でカタカタと窓が鳴いている。テレビもついていない部屋では少しの音も煩いくらいだ。隣の家も、もう寝静まっているだろう。

「味、どう?」

「おいしいよ」

「濃くない?」

「うん」

 結婚六年目の夫婦にしては、言葉少なだろうか。他の家庭の夫婦がどれだけ日常的に会話を交わしているかは分からなかったが、自分がこの場の静寂を打ち消したくて言葉を紡いでいるということではないのを私は知っている。

 黙々とポトフに入っている具を掴んでは咀嚼する夫の手元で、彼のひっくり返ったスマホが何かを受信して一度ぱっと光り、そして何事もなかったかのように消えた。

 人工物らしい目につく強い光だ。

「指、怪我したの」

 夫は長時間煮込んでぐずぐずにとろけたジャガイモを貪りながら、私の左手の人差し指に巻かれた絆創膏を見た。きっとその時同時に私がもうパジャマを着ているのも見たのだろう。

「ええ、ちょっと切っちゃって。でも大丈夫よ。もう血は止まってるんだから」

 そう言って指を目の前に掲げてみせると納得したのかしていないのか、彼はふっと視線を逸らし何も言わずに箸を動かす手を再開させた。

 もごもごと口を動かし、筋張った長い指が器用に箸を動かして私が作った料理を体内に注ぎ込んでいく。ジャガイモ、ニンジン、キャベツ、肉。それらが全て彼の胃の中に沈殿していく様を、行儀が悪いと思いながらもテーブルに肘をついて見守る。

 この瞬間が、私を心の奥底から潤し、足の先からぞわぞわと全身を駆け巡るような感覚で満たす。

 そうして少し時間をかけて夫が全て食べきったのを見て、彼の空になったお皿と私の湯飲みを持ってキッチンへと向かう。

 いつの間にか、壁掛け時計は日付をまたいでいた。

「風呂入るから。先寝てて」

「うん、わかった」

 キッチンの横を足早に通り、灯りのついていない廊下に出て行った夫を視界の端で見送る。

 すっかり空になった鍋が、勢いよく捻った蛇口から吐き出される水道水に溺れて死んでいく。底の方に沈んで残っていたニンジンの欠片が水面まで浮き、やがて鍋の淵から飛び降りたのを見て、私は初めて夫と出会った時のことを思い出していた。

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