第2章『タックとエディ』
いつもどおり街の巡回に出ていた俺が兵詰所に戻ると、隊長に声をかけられた。今からノス班の仕事に専従しろと言う。
「相棒が迎えに来てる。あとはやつの指示に従え」
相棒、と隊長は言ったが、その相棒と会うのは今日が初めてだった。そもそも、俺がノス班で実働につくのも初めてだ。
「ノスが殺した死体が見つかった」
そう言ったのは、兵詰所の入り口にもたれて立っていた、赤っぽい服の上に革製のエプロンをつけた若い男だった。
「今回、あんたを指導しろと言われた。まかせておけよ、後輩。おれは面倒見のいいほうだ。名前はエディ。よろしくな」
愛想よく歯を見せて笑うと、男は手を差しだしてきた。こちらこそ、と言って手を差しだそうとしたが、相手の手は、指先から手首まで乾いた血がこびりついている。エディは、宙をさまよう俺の手を両手で握り、何度も上下に振った。
「牛の血だ。おれも呼びだされるまで自分の仕事してたからさ。肉屋なんだ」
見下ろすと、男のエプロンもところどころ血がついていた。
「じゃ、行こうか。あんた、名前はタックでよかったか?」
俺はかろうじてうなずいた。言いたいことはあったが言うのはためらわれた。たとえ相手が民間人でも、この仕事では先輩だ。
「あんたどこの出身だって?」
「エクスペルです」
「あー。幽霊が出るっていう街ね。見たの? 見た?」
道々、事件とは関係のないエディのおしゃべりに付きあいながら現場の繁華街へ向かった。飲み屋が並ぶ通りから外れて裏路地に入って少し行くと、見張りの兵が立っていた。エディが軽く声をかけて進んだところを見ると、ノス班所属の兵かもしれない。さらに少し行くと、奥に死体があった。遠目には、突き当りの壁に背をつけ、だらしなく座っているように見えた。頭が片方の肩についていた。
若い女で、首筋の左側から胸元に欠けて肉が露出していた。靴の片方が脱げて転がっている。乱れた長い髪に隠れて顔の上半分が見えない。口元は歯を食いしばるように歪んでいた。被害者がもたれていた突き当りの壁や、敷石の上には血が垂れたり飛び散ったりしていた。すでに乾いている。
エディは被害者のそばに片膝をついて、詳しく確認しはじめた。俺も近くに寄り、エディが調べるのを黙って見ていた。エディはあちこち突いたり触ったりしている。女の髪を顔から払った。眉間に皺を寄せてきつく目を閉じていた。きっと美人だっただろう。
「関節が硬いから、死んでから半日ほど経ってるかな。すると犯行は真夜中か。首筋に噛みついたあとが複数個所。胸……心臓の上あたりも何度か噛みついている。あと肩や腕にも噛み傷がやたらと残っているが、死んだあとにつけたのかな。出血が少ない傷のほうが多い。ぶっとい牙で穴を開けてるとこから見て、ノスのしわざでいいだろう。と、思う」
この街では吸血鬼をノスフェラトゥと呼ぶと聞いていた。略してノス。
エディは俺を見た。「なんか訊きたいことあるか? おれもよくわからんが、できる範囲で答えるぞ」
俺は重い口を開いた。「死んだ原因は、血を大量に吸われたせいですか?」
エディはうなって首を触った。「骨を折られたせいかも」
「つまりどんな経緯だったんでしょう?」
「うーん。犯人はここまで被害者を追い詰めたかなんかして、首筋や胸元に噛みついて吸血したあと、首の骨を折り、そのあと腕に噛みついた、かな?」
「殺したあと、腕に噛みついたんですか? なんのために?」
「なんだろね。襲った興奮が冷めなくて噛んだのかもしれないし、牙がうずいて仕方なかったのかもしれない」
「首から胸にかけて、皮を裂いているのは?」
「……あー。おれたちもノスのことはあんまりわからないんだ。人間を襲わないノスは秘密主義で教えてくれないし、人間を襲うノスは、おれたちがさっさと退治しちゃうから尋問したり調べたりする余裕もないし」
エディは被害者の手のつま先を見て、大きく口を開けて笑った。「見ろよ! このねえちゃん、抵抗して犯人をかきむしったんだ」両手の爪のあいだに血がこびりついていた。少し伸ばしてきれいに整えられていたらしい爪は、ところどころ欠けたり割れたりしている。
エディは腰に下げていた道具入れから小さなナイフと目の細かい布片を取りだした。布を俺に渡すと、被害者の硬直した体を倒し、爪のあいだにナイフの先を慎重に差しこんだ。ほとんど粉末状になった血を俺が布で受けた。エディは細かく動いて丁寧に血を取りだす。
「犯人の皮膚片みたいなものもちょっとついてる。助かるな」
細かい作業を終えると、エディは俺の手から布を取って鼻を近づけた。鼻息で血が吹き飛ばないか、俺ははらはらした。
しばらくして、エディは丁寧に布をたたんでポケットにしまうと、別な布を取りだして被害者の首筋に当てて撫でた。
「ノス班に入るように、班長が民間人のおれにじきじきに頼んできたのはだね。おれがちょっとした能力を持っているからなんだ」
そのまま続けて言えばいいのに、エディは言葉を切ってにやりと笑って俺を見た。少し沈黙が落ちた。
「……どんな?」
「ふっ、ふっ、鼻がいいんだ」
「……犬みたいに、においを追いかけて走れる?」
「いやー、さすがにそれはできないけど。でもまぁ、ちょっと、たまには、わりかし役に立つ」
エディは女の血をつけた布を別なポケットにしまった。肉屋が本業だと言っていたのを俺は思いだした。エディの手には今も乾いた動物の血がこびりついている。牛の血とまざっていないか? 大丈夫だろうか? だが、かぎわけられると本人が言うのなら、なんでもないのかもしれない。
「それで犯人と被害者の血のサンプルを?」
「念のため。血のにおいも覚えてられるんだけどな」そこでエディは指先で自分の鼻の付け根をとんとんと叩いた。「ここで覚えるんだ、ここで!」エディがふっ、ふっと笑った。
俺は神妙に答えた。「……頼りにしてます」
立ちあがってのびをした。石造りの建物のすきまに細長く青い空が見えたが、昼下がりといえど、裏路地は薄暗い。吸血鬼犯罪対策特別班――通称、ノス班――に入れと命令が来たときは、そんな仕事があるのかと深く考えずに請けあった。
「この都市は人間とノスフェラトゥの共存共栄を図っている。現在、友好的な関係を築いているが、まれに、ノスフェラトゥが人間を襲って殺す事件が発生する。もっとも、人間が起こす殺人事件、たとえば、酒場のいざこざで酔っ払いが相手を刺し殺すとか、夫婦喧嘩のあげくに亭主が女房を殴り殺すなどのほうがよっぽど多い。しかし、共存共栄の理念を揺るがすため、ノスフェラトゥによる殺人を、厳しく取り締まらなければならない」
ノス班の班長は顔合わせの席でこう言って俺の肩を叩いた。
「君も力になってくれたまえ」
俺は今まで吸血鬼を見たことがなかった。この街に来てからさえもだ。実際の吸血鬼についてなにも知らなかった。物語のなかでしか吸血鬼を知らない。人間から血を吸って、殺してしまう存在だとしか。
食事がわりに人間を襲うのか。腹を減らすたびに人を殺すのか。
俺はメシにされた女を見おろした。名前もどんな生き方をしてきたかもまだ知らないが、人生の途中でいきなり夜食にされて、恐怖と苦痛のうちに殺された。
俺はめまいがする頭を片手で押えつつ、エディを見た。エディは、まだ、ふっ、ふっ、と笑っていた。
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