サンドストームの亡霊
旅籠談
ホテル再建記録① 懲戒処分
海外赴任の辞令と聞いて
目の前の上司の言葉が悪い冗談にしか聞こえない。そのまま黙っていると、部長の
「というわけで、ゴーストホテルの再建をバトーに任せる」
赴任先はウロコ共和国という赤道に近い国だった。四年前に廃業したホテルがあり、とある人物が営業を再開させようとしているのだという。現地に赴いてそれを手伝うのが今回の仕事だと藤崎は説明した。
「ホテルの名前はコブラパレス。セパレートシティにある古いホテルで……」
支配人が失踪したことでホテルは廃業し、管理者不在のそのホテルは、いまではゴーストホテルと呼ばれているとのことだった。
「あの、冗談ですよね」
控えめに挙手をして尋ねた西坂に対し、藤崎が答える。
「冗談で辞令は公布されない」
正直なところ、自分は出向とは無縁だと思っていた。いまの自分は、このホテルワンダーボックスで購買部のマネージャーという役職を与えられている。正社員という立場があれば、よほどのことがないかぎりホテルを離れることはないと思っていた。それがどうだろう。海外赴任に加え、与えられた仕事はゴーストホテルの再建ときている。素直に信じろというほうが無理な話ではないだろうか。
「任期は一年だし、まあ妥当なところだろう」
「ああ、そういうことですか」
海外赴任もゴーストホテル再建も、どちらも冗談ではないとわかり、西坂は強く下唇を噛む。
そんな西坂を見て藤崎が呆れたような口調でいった。
「まさか、自分がなにしたのか忘れた?」
「いえ、忘れてませんよ。さすがに」
忘れるはずがない。勤務中に他部署の上司を殴ったのだ。懲戒処分の覚悟もできている。
「職場で手が出たのなんて、あれが初めてですから」
フロント課長を殴った右手の拳を見ながら、西坂は二週間前の出来事を思い浮かべていた。忘れもしない不愉快な記憶。あれは最悪の一日だった。
社員寮を出て会社に向かう途中、西坂はいつものようにホテルの手前にある小さな公園に立ち寄った。始業前に文庫本を四ページ読み進めるのが日課となっており、この日もいつもと同じベンチで本を読むつもりだった。
文庫本を手に公園内を進むと、指定席のベンチには若い男性が座っていた。ベンチの上でうなだれる男性の横には、コンビニのレジ袋と派手な色のエナジードリンクが置かれている。興味が湧いたので近づいてみると、ベンチに座る男性がホテルの社員だということがわかった。朝っぱらからエナジードリンクを飲むその男性は、西坂が親しくしているフロント課の後輩社員だった。
驚かすことがないように、少し離れたところからおはようと声をかける。エネジードリンクを見ながら最低の朝食だとコメントすると、苦笑する彼からは、ドーピングだという答えが返ってきた。素面のまま出社すると、通用口で会社のにおいを嗅いだ瞬間に吐きそうになるのだという。
詳しく話を聞いて驚いた。彼は職場で日常的に言葉の暴力を受けていた。なにか一つミスをするたびに、彼だけが、フロント課長に「死んでくれないかな」といわれるとのことだった。
後輩の話を聞いて、西坂は強い憤りを覚えた。あってはならないことだと思った。
出勤前に不快な話を聞いてしまっては、一日を心穏やかに過ごすことなどできない。その日の西坂はとにかく気が立っていた。
他部署の失態に舌打ちをし、普段の三割増しの不満を述べながら尻拭いをする。次から次へと舞い込んでくる仕事のなかで、食事休憩を取る時間すらないのも苛立たしかった。仕方がないので、バックヤードを移動しながら昼食代わりのゼリー飲料を飲む。そんなときの出来事だった。
進路の前方から女性の悲鳴が聞こえてきた。驚きというより拒絶に近い、短い悲鳴だった。急いで現場に駆けつけると、そこには制服を着た二名のホテルスタッフと、明らかにそれとわかる部外者の男性がいた。悲鳴を上げたと思われる女性の視線の先で、清潔とはいいがたい身なりの男性が床に手をついてうずくまっている。どういう巡り合わせか、うずくまる男性の前には件のフロント課長が立っていた。
当然ながら制服を着た二名のことは知っているのだが、西坂は男性のほうにも見覚えがあった。近くの公園でたまに話をする、須藤という名の読書好きのホームレスだった。その彼が、うずくまった状態のまま、呻くように低い声を漏らしている。バックヤードに入り込んだことを咎められているのだということはすぐにわかった。
腕組みをして須藤を見下ろすフロント課長は、駆け寄ってきた西坂の存在に気づくと、「不法侵入のネズミを発見した」と得意げに説明をした。フロント課長のその口調に嫌悪感を覚えた西坂は、深入りをさせるべきではないと直感し、あとの対応は警備に任せるべきだと提案をしたが、フロント課長はそれには答えず、廃棄食材が目当てに違いないと言葉を続ける。以前からそうだったが、彼とは話が噛み合わないことが多かった。
そして事件は起こった。
頼むから死んでくれよ。そうつぶやくフロント課長の声が耳に入った瞬間、西坂は衝撃的な光景を目にすることになった。わずかに視線を上げた須藤の顔面を、フロント課長が勢いよく蹴り飛ばしたのだ。どう見ても良識のある人間のやることではなかった。
茫然とする西坂の横で、女性スタッフが耳障りな悲鳴を上げている。その後もフロント課長は、「死んでくれないかな」とつぶやきながら、四つん這いになる須藤の腹を何度も何度も執拗に蹴り続けた。
止めなければならない、と西坂は思った。そして行動した。どれか一つでも状況が異なっていれば結末は変わっていたに違いない。相手がフロント課長でなければ、蹴られているのが須藤でなければ、出社前に公園で後輩社員に会わなければ、おそらく西坂は、冷静に事態に対処することができただろう。
だが、このときは無理だった。湧き上がる衝動を抑えることができなかった。気がつくと西坂は、フロント課長の顔面を拳で殴っていた。
「とにかく、そういうことだから」
淡々とした口調で藤崎がいう。
二週間前の出来事を経て、現在の西坂は処分を待っている状況だった。忘れていたわけでもなければ、処分自体に不服があるわけでもない。殴った相手への謝罪を拒否したのだから、お咎めなしというわけにもいかないのだろう。殴ったことを後悔していない西坂としては、処分があるなら黙って受け、それで終わりにするつもりだった。
それでもやはり、海外赴任と聞けば一言いわずにはいられない。
「処分が重すぎるように感じるんですけど、気のせいでしょうか」
率直な感想を述べると、藤崎からはタイミングの問題だという答えが返ってきた。
「タイミング、ですか」
「あれだよ、あれ。改装工事が始まってしまえば業務の縮小は避けられない。そうなると人が余るから、会社側はどうにかして社員を外に出したいと考える。そういうこと」
その説明で、西坂は、自分が置かれている状況を理解した。タイミングが悪い。藤崎のいうとおりなのだろう。いまが平時であれば、ホテルワンダーボックスは他ホテルの開業支援などには目もくれないはずだ。しかし、ホテル内カジノの開業を翌々年に控え、これから改装工事を開始するというこのタイミングでは事情は異なる。業務縮小によって必要な労働力が減少したとしても、雇用している従業員の数を減らすことはできない。改装中のコスト削減にあたまを抱える経営陣は、外部に社員を投入できる仕事があれば喜んで手を伸ばすことだろう。そこに都合良く、開業支援という案件が舞い込んできた。理由はどうあれ、懲戒処分の対象者などは人件費削減の格好の標的でしかないのだ。
「バトー」
名を呼ばれて顔を上げると、目の前に藤崎の整った顔があった。
「私は、バトーは悪くないと思っている」
だからもう一度だけいう、といって藤崎はまっすぐな目で西坂を見つめる。
「謝罪すれば、たぶん……」
「謝罪はしません」
西坂は即答した。
過失を認めて始末書を提出すれば、今回の派遣は見送られる可能性が高いということなのだろう。しかし、たとえ自分が外されたとしても、ほかの誰かが派遣されるという状況に変わりはない。場合によっては、なんの口実もなく不運な若手が派遣されることになるかもしれない。それならいっそ、謝罪を拒否する自分のような異端が出て行くほうがホテルにとってプラスになる。そう考えた西坂は、海外赴任の辞令を潔く受けることにした。
「ゴーストホテルの再建ですよね。私に任せてください」
処分があるなら黙って受け、それで終わりにする。当初の考えに変更はない。たった一年の海外生活。派手に暴れてやろうじゃないかと、心のなかでつぶやいた。
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