@me262

第1話

 また熊が出現した。我が家から500メートルも離れていない民家の敷地だ。住民は素早く2階に避難して無事だったが、山から大して近くもない街中に何度も現れるのは普通ではない。昨年からこの家に住んでいるが、その年の秋にはこのような事はなかった。

 これは全国的な現象で、今年は山にあるブナ等の木の実が大凶作になり、餌に困った熊たちが山を降りて人里に来るのだとテレビでは言っていた。

 隣家に住む齢90になる古老は10年前まで熊撃ちをしており、引退してからは山への未練を断ち切るために、この街に移って来たのだが、買い物をしている時に偶然その彼と会い、帰宅がてらこの件について話をした。

「見ての通り山が多いから、その分熊の数も多い。今年は主食の木の実が少ないから熊同士の競争になる。あの山にはヌシが居てね。一際大きなオスの熊で、どういう訳か胸の月の輪が肩まで伸びているんだ。きっとあいつが他の熊を追い出して木の実を独り占めしているんだよ。負けた熊たちが餓えて山を降りて来るんだ。冬眠前の奴らは必死だよ。だからこんな騒ぎになるんだが、それにしても今年は多すぎる。熊だけじゃない。猪や鹿も頻繁に見かける。山の中は酷いことになっているんだろうなあ」

 古老は遠景に連なる山々を悲しげな瞳で眺めながらそう呟いた。

 確かにそうだ。世間は熊出没に注目しているが、その他の動物も餌を求めてこの街に何度も現れる。ここから見る山は紅葉に美しく彩られているだけだが、それは人間の視点であって、そこに生きる動物たちにとっては砂漠の様な状態なのだろう。

「やはり異常気象のせいですかね。今年はとにかく暑かった。もう晩秋なのに夏日になる日もある」

 私の言葉に古老は何度も頷く。

「全部人間のせいだよ。温暖化ってやつか?だけど俺は、この問題はもっと根が深いと思うね」

「どういうことですか?」

 私の問いに老人は辺りを見渡しながら答える。

「俺がガキの頃には、お山に入るのは極一部の男衆だけだった。お山のカミにお祈りや感謝を捧げる風習も残っていた。この場所にだって街なんてなかった。お山とヒトはもっと離れて暮らしていたんだ。それが、高度経済成長期の頃から徐々に変わっていった。今じゃ大勢のヒトがキノコや山菜採り、単なるレジャーで易々と山に入る。お山のカミ様が怒っているんだよ。あんたには分からないだろうがね」

 山への畏敬の念を失った人間たちに怒ったカミ様が、堪忍袋の緒を切ったから、このような事態を招いたということか。この老人の少年時代など戦前だろう。その頃にはこの辺りに山岳信仰が僅かながら生き残っていたのだろうが、やはり私にはピンと来なかった。自宅の前まで来たので、世代の断絶を感じながら古老と別れた。

 その晩、風呂に浸かりながら私は今後の事を考えた。熊の出没は来年以降も続くかもしれない。リモート勤務が可能な職場に転職したのを機に、憧れていた田舎暮しを楽しもうと空き家だったこの家を昨年買い取ったが、熊や猪と遭遇する危険が続くのなら東京に戻るのもやむを得ない。こういう時は独り身で良かったと思う。次の住みかは何処にしようか。寝床でその様な事を考えている内に眠りに就いた。

 翌朝、外の騒がしさに目が覚めた。時計を見ると未だ日の出前だ。こんな時間に何事かと玄関から外に出てみると、驚くべき喧騒が目の前に拡がっていた。

 薄暗い家の前の道路を猪やカモシカ、猿や狸が駆け抜けていた。1頭や2頭ではない。こんなにも居たのかと呆れる程、数えきれない獣の群れが幾つもの道の上を、あちこちの民家の塀を飛び越えて走り過ぎて行く。その中には熊の群れも混じっていた。彼らは山の方から来て、一目散に反対側の平地へと向かっている。その有り様は明らかに餌を求めているようには見えなかった。

 至る所で住民たちの悲鳴が上がる中で、隣家の玄関前では古老が度肝を抜かれた様子で目を白黒させている。

「こ、こんなのは初めてだ……!」

 懸命に走る獣たちの様子と、老人の狼狽ぶりを見た私は、ある結論に辿り着いた。

 今までこいつらが街に来ていたのは餌を漁る為だけじゃない。逃げていたんだ。山に居る何かから。だが、古老の言うヌシが暴れた所で、これ程の混乱になるのか?

 唐突に背後に荒い息遣いを感じた。私が振り向くと、そこには黒い影が仁王立ちしている。胸から肩にかけて伸びる白い三日月を持つ、通常より遥かに大きいツキノワグマだった。

「ヌシ……。ヌシだ……」

 その大熊を目にした古老が掠れた声を上げた。つい今しがた考えていた当のヌシが突然現れた事で私はすっかりパニックに陥ってしまい、全身が硬直してしまった。一方のヌシは立ち上がった姿勢のまま、獰猛な唸り声を洩らして私に近付いてくる。

 やられる、と思った瞬間、その巨体は大きな音と共に地面に崩れ落ちた。私は未だ動けなかったが、その熊が絶命していることだけはわかった。

 その直後に山の方からも地響きが聞こえたので視線を向けると、昇る朝日を背にした山体が、上の方からがらがらと音を立てて大きく崩れていくのが見えた。


 大規模な土砂崩れだったが、早朝ということもあって登山者はおらず、被害は思ったよりも少なかった。元々断層が多い山だったので、何かの切っ掛けでこのようなことが起こった。獣たちは野生の勘で崩壊を事前に察知して逃げ出したというのが一般的な見解だ。動物たちは散り散りに少し離れた別の山に逃げ込み、事態は収まった。

 私は東京へ戻る準備をしている。今後は山の周辺に住むつもりはない。とはいえ、来年以降も起こるかもしれない熊の出没を危惧したからではない。もっと根が深いもののためだ。

 土砂崩れの原因は未だ分からない。獣たちは何かから逃げていた。私の目の前で息絶えたヌシですら逃げていたのだ。その大きな背中に長さ1メートルにも達する裂傷が何本もあったのを私は見た。山から降りる時に落石の衝突によって出来た傷だと皆は言うが、私には大きな爪によって切り裂かれた様にしか思えないのだ。

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