第2話 『幸せの箱』

 莫大な富と名声を築きあげた富豪は、だがしかし幸せといえなかった。絶品の料理、高価な調度品、劇場や音楽の鑑賞、何をしても物足らなさと虚しさを感じ飽きていた。この世の悦楽をほしいままにしてきた富豪は側から見れば幸せに見えるだろう。だが満たされぬ日々を送っていた。


 ある日のこと、富豪は街を彷徨う『ものもらい』と出会うことになった。汚れ煤けた衣服を纏う不潔なその老人はひとつの箱を大事そうに抱え、心から幸せそうに笑っている。


「そんな箱を抱えて幸せなのですか? あなたは見たところ家もなく、今日の食べるものにも困っている貧民でしょう。なぜ笑顔でいられるのですか?」


 富豪がものもらいに問うと、


「ええ、幸せですよ。なぜならこの箱は私めに幸せを運ぶものなのですから。だから私は貧乏でも笑って毎日を過ごすことができるのです」


 そう答えるのだった。


 富豪はものもらいの老人が持っていた箱が気になって仕方がなかった。


「あなたは汚れた服を着ていて、周りからも虐げられているではありませんか。それが本当に幸せを運ぶというのであれば今すぐ開けてしまえば良いのではないですか?」


 富豪がそう言うとものもらいは可笑しそうに笑い、首を横に振った。


「いえ、いえいえ……この箱が幸せを運ぶのはもう少し先のことなのです。今すぐ開けてしまっては意味がない。時が来るまで私はこの箱を大事に持っていなければならないのです」


 そう言ってものもらいは街行く人達に金銭をねだるため、また彷徨い始めるのだった。


 あれから数日が経っても富豪は老人が持っていた箱が気になっていた。あの箱には宝石や貴金属が入っているようには見えない。何処にでもあるような変哲のない箱だ。だが、富豪は気になって仕方なかった。


「すみません。その箱の中身を教えていただくことはできないのでしょうか?」


 あの日のこと、富豪はまた街中でものもらいと会った。ものもらいの老人は相変わらず箱を大事そうに抱えて街を歩いていた。


「とんでもない! この箱の中身はお教えできません。なぜなら箱の中身を教えてしまえば、この箱から幸せが逃げてしまうのですから。決して教えることなどできません」


 老人は頑なに箱の中身を教えなかった。


 富豪はその時、自分の幸せが何処にもないことを思い返していた。美味しい料理も感動的なショーでも彼の心を満たすには至らない。そこで富豪は彼に提案した。


「私は見ての通り金持ちの人間です。しかしながら生きてきて幸せというものを感じたことがないのです。もし、よければその箱を譲っていただけませんか? あなたが望むだけのお金を用意しましょう。あなたは日銭に困っている。いつ訪れるかもわからない幸せを待つよりか、いますぐ大金を手に入れる方が良いのではないですか?」


 そう富豪の男が言うとものもらいの老人は顔を綻ばせた。


「ええ、あなたの言うことは尤もですな。私は今を生きるのも必死な老いぼれでございます。この箱は私にとって大事なものではありますが、命には代えられないもの。いいでしょう。あなたの言う通りこの箱を譲りましょう」


 富豪はものもらいに一生遊んで暮らせるだけの金銭を与え、彼から箱を譲り受けた。


 富豪はさっそく屋敷に戻りものもらいから譲り受けた箱を開けることにした。幸せが秘められた箱のその正体を知るために。富豪は誰もいない自室でこっそりと開帳する。


「なんだこれは……!」


 そこにあったのは一枚の紙切れだった。ボロボロのメモ書きにものもらいの老人が書き記したであろう文字が走り書きされている。


『この箱が開かれている頃には私は幸せになっていることでしょう。あなた様から受けた恩恵、この箱と引き換えに得たであろう金銭を持ち、私はまた違う何処かで生きます』


 その文面を見て富豪は大いに笑った。


 あのものもらいに一杯食わされたというわけだ。何もない箱に『幸せ』という価値があると勘違いした彼は、ものもらいに大金を支払ってそれを得ようとした。中身は何もないというのにだ。


 いや、少なくともあのものもらいの老人は幸せになったのだろう。彼が与えた巨額の金銭で残りの人生を遊んで暮らせるのだから。あの箱は確かに幸せを運んだ。富豪ではなくものもらいの老人に。それは間違いのない話だったのだ。

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