幕間 美桜⑦ 私、悪い子だ

 悠陽が入院する。

 といっても予定されていた検査入院だ。コールドスリープの影響や手術後の経過観察などを行う、一泊だけのもの。

 マンション前にタクシーが停まっていた。

 乗りこもうとする悠陽が口を開く。


「晴れてりゃあ、縁起も良かったんだけどな」


 悠陽が空を見上げる。

 つられて美桜も天を仰ぐ。


「曇り、だね。もうすぐ雨が降るかもって……」

「そんな不安そうな顔するなって。な、美桜ちゃん」

「ん……」


 言われた美桜はうなずく。

 悠陽の方が年下で小柄なのに、美桜の方が背も高くて年上なのに、二人の雰囲気はまるで逆だった。見た目は変わっても中身はかつてと同じ、兄妹のような二人だった。

 彼女は悠陽の検査入院の見送りに来ていた。


「大丈夫。俺はこの前、一人で買い物だってできた」


 だろ? と悠陽は美桜に微笑みかける。


(ゆう兄ちゃんは私のことを励ましてくれてるんだ。それなのに)


 優しげなまなざしで見上げられて、美桜は、ああ自分はなんて悪い子なんだろうと目を伏せてしまう。


(検査入院のことはちっとも心配してない。ゆう兄ちゃんがこれまで頑張ってきたのを知ってるし)


 悠陽が健康体へと近づいているという確信めいたものが美桜の中にはあった。

 ときおりスマートウォッチがしらせてくるほどの心拍数の上昇があることも知っていたが、悠陽が苦しくて動けなくなったりしたことはない。

 だから、美桜の中に渦巻く不安はそういった類のものではなく。


『ゆう兄ちゃんが私から離れていっちゃう気がしててさ』


 以前、友人の沙苗に打ち明けた言葉が、昨日の夜からずっと頭の中でリフレインしていた。

 最近、悠陽は変わろうとしている。

 美桜はそのことにうっすらと気付いていた。


 彼は運動を始めた。

 自分で料理ができるようになりたいと言い出した。

 一人で買い物ができるようになりたいと言い出した。

 もちろんまだまだ美桜の助けが必要だったりする場面はある。けれど。


(筋肉はついてきてるし……料理だっておいしくできてたし……買い物も、一人でできてた)


 15歳の男子に対して過保護だろうか。

 否。 

 事実として、美桜がそれほど心配するくらいには悠陽は弱かった。

 そのころから、ひと月前からと比べると。


(ゆう兄ちゃんはちょっとずつ自立してきてる。偉いよ、本当に偉いんだけどさ)


 美桜のなど要らなくなってしまうとしたら、どうなるか?


(たぶん、春には何事もなく新生活が始まって、ゆう兄ちゃんの人生が少しずつ進み始めるんだろうな。でも)


 元気に高校生になった悠陽には友達だってできるだろう。美桜が知らないところで、美桜の知らない同級生と仲良くなることもあるだろう。

 美桜はスーパーで会った女性店員を思い出す。


(たぶん、ゆう兄ちゃんは色んな人に好かれるんだろうな。恋愛とかそういう意味じゃなくっても、普通に、人として)


 だから10年経ってもクラスメイトに憶えてもらえている。


(まあ、ゆう兄ちゃんが憶えてなかったのは、うん、10年も経つと女の子って垢抜けちゃうからね……)


 美桜だって小学生の時の同級生といま会ったとして気付けるかどうか、自信はない。


 なにはともあれ。

 悠陽は新しい人生でもきっと人に好かれて生きていくのだろうと、美桜にも分かる。

 自分の方が年下だったころからその環境は身に覚えがある。

 悠陽の家に、彼の友達が遊びに来たことも何度かあった。美桜はそんなときでも悠陽のもとを訪ねては、自分と遊んでくれとワガママを言っていた。


(あのときは私が子供だったから、ゆう兄ちゃんのお友達も私のことを笑って受け入れてくれたけど……)


 自分の方が年上になった今、それが通用するとは美桜には思えない。

 男子高校生のなかに女子大生が混ざっていたら気まずいだろう。

 美桜自身だって、正直気まずい。自分の方が年上だし、気を遣うことだって多くなるはずだ。


(きっと私がワガママを言えば、ゆう兄ちゃんは一緒にいてくれるだろう)


 悠陽から幼馴染として大切にされていると分からない美桜ではない。

 けれど、悠陽のことを考えていない美桜でもない。


(ゆう兄ちゃんがせっかくコールドスリープから帰ってこれて、新しい人生を歩もうとしているのに、私、素直に喜べない)


 美桜はいま、自分と悠陽とが『お世話』という細い糸だけで繋がっているような気がしていた。彼が健康になるだけで容易たやすく切れてしまうような糸だ。

 本当は良いことのはずなのに、それを喜ぶことができない。


 悠陽は美桜を安心させようとして『俺はこの前、一人で買い物だってできた』と言った。

 その言葉が美桜を苦しめる。

 美桜からすれば、もうすぐお世話係は要らなくなる、という風に聞こえてしまう。

 それでも美桜は笑顔で見送らざるを得ない。

 ドロドロと渦巻いた感情のすべてをほんの数秒の葛藤の内側に閉じ込めて、美桜は気丈に振る舞って。


「ゆう兄ちゃん……気を付けてね」


 美桜は手を振った。


「おうっ!」


 悠陽もまた、笑顔で手を振り返してくれて。

 そこでタクシーのドアが閉まった。滑らかな発進で車はマンションから遠ざかっていく。

 美桜はその後姿をじっと眺めながら呟く。


「……神様、どうか、ゆう兄ちゃんを……もう少しだけ、もう少しだけでいいから……」


 お世話が必要なままでいさせてくれませんか。

 美桜は、消えそうなほど小さな声で言った。

 声に出してから美桜は唇を噛みしめる。それから爪が手のひらに食い込むほどに強く握りこむ。


(私、嫌な子だ……悪い子だ……ううん、そんな可愛らしいモノじゃない)



「──最低だ」



 灰色の空から雫が、ひとつぶ降り注ぐ。

 やがて雨はアスファルトを黒く染めはじめる。


(つらい、苦しい。ゆう兄ちゃんがどう思っているかなんて分からないのに、一人で悩んで……まるで終わりのない暗いトンネルをずっと歩いているみたい)


 顔を上げた美桜の頬を、雨がつうっと伝って、地面に落ちる。 


(ゆう兄ちゃんが帰ってきたら、訊いてみよう。怖いけど、でも)


「私、ゆう兄ちゃんが元気になってもそばにいてもいいかな?」


 美桜は立ち尽くしていた。

 ただ、雲の切れ間から光が降り注ぐのを待ちながら。






______

 次回から四章になります♪

 面白いと思ったら★★★評価、♥応援、💬コメントなどしていただければと思います( ˘ω˘ )

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る