第80話
信州松代からさほど遠くない場所に、その診療所は在った。
「風情の無い旅で、ごめんなさい」
洸次郎が感じたことを、絹子は直球で謝罪した。
「いえ、そんな、時間をかけるわけにはいかねえですし、むしろお絹さんの負担になるから謝らなくちゃなんねえですし……」
「ほんと、申し訳ない!」
「申し訳ありませぬ!」
洸次郎が口ごもってしまったところ、クモとみどりが包み隠さず謝った。
「俺も……ごめんなさい。えと、居るんですよね……誉さん」
大きな療養所を想像していた洸次郎は、上州にもあるような小規模の診療所を目の前にして、疑ってしまった。
「住所は合ってる。会えるかは、本人次第」
「会って頂かなくてはなりませぬ。一発、ずん殴ってやりとうございます」
「おい、妹。物騒なことをほざくんじゃねえ」
診療所の前で賑やかしていると、関係者らしき人が出てきた。結城誉の名を出すと、察したように頷かれたが、敷地に入らせてもらうことはできなかった。
来客が感染するおそれがあるから、入れることはできない。それ以前に、誉が人と会うことを拒んでいる。そう言われてしまった。
仕方なく診療所を離れ、善光寺参りをする。会話は無く、気まずくはあるが、洸次郎はみどりの様子が気になって顔を伺ってしまう。みどりは真表情で、心情は伺えなかった。
その日の晩は善光寺近くの宿に泊まり、クモの案で翌日は戸隠神社に行くことにした。戸隠神社には、みどりとクモの父親、河鍋暁斎が天井絵を描いた社がある。
「雪は
市街地を離れ、山の中を進む。道中、山房がいくつも見られた。足元は険しいが、雪は無い。
「雪は、これからよ。上州も降るんじゃない?」
「北の方は降りますが、俺がいた村は滅多に降らねえな」
「降らないのでございますか? 帝都はそこそこ降りますのに」
「帝都は降るんですか?」
「そういえば、去年は降ったわね」
「お絹、去年のことは思い出すなよ」
「クモ、あんたは過保護ね。あたしはそんなに弱くないわ」
雪の話題から
みどりとクモが、河鍋暁斎の身内であることを伝えると、社の中を見せてくれた。
天井を見上げた刹那、洸次郎は龍の瞳に吸い込まれそうな謎の引力を感じた。
「……危ない」
そう呟いたのは、絹子だった。みどりとクモは、覚悟を決めたような表情で天井の龍の絵を見据える。
「……決めました。やはり、ずん殴ってやります」
「行くか?」
「行きます」
「妹よ、兄は付き合うぜ」
「俺も行きます」
「あたしも」
「皆様……恩に着まする」
街に戻り、みどりは筆と墨を買った。帳面から頁を一枚切り、手紙を書いた。
洸次郎は難しい字が読めないが、この文字は見えた。
――二代目狂斎殿
再び診療所に足を運んだが、誉には会えなかった。新品の筆と墨、手紙を関係者に手渡し、診療所を後にした。
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