第62話

 鹿島清兵衛を訪ねる頃になると、暗い雲が垂れ込め始めた。

「洸次郎さーん! 今回も本当にありがとうございます!!」

 金継ぎした器を受け取った清兵衛は、「駝鳥がじゃれつく」と比喩される勢いで洸次郎の手を握ってぶんぶんと振った。

「俺の方が、清兵衛さんに感謝しなくちゃなんねえです。橘平さんのところで手伝わせてもらったんですから」

 何事かと、清兵衛の妻も出てきて、清兵衛と同様の言動をする。洸次郎は以前、清兵衛の妻の宝物を繕ったこともあり、めっぽう感謝されているのだ。鹿島夫人は、夫が芸術品と芸術家に傾倒する様を快く思っていなかったそうだが、洸次郎の腕は認めている。

「洸次郎さん、羊羹があるのですが、食べませんか?」

「羊羹、ですか」

「お嫌いでしたか?」

「実は、食った……食べたことがなくて」

 小豆と寒天の菓子だと聞いたことはあるが、恥ずかしながら未だに食べたことがない。

「では、初挑戦ですね。これも、学びです」

 京都から取り寄せたという抹茶まで出してもらい、遠慮する間もなく羊羹を出されてしまった。

「いかがです?」

「味は小豆ですが、ぼたもちとも違って、ずっしり重いです。苦い茶が合いそうです」

 甘い塊である羊羹を、抹茶の苦みが打ち消してくれる。清兵衛に注視されて、洸次郎は少々戸惑った。

「失礼。洸次郎さん、茶碗の扱いに慣れていらっしゃるようでしたから」

「そうでしょうか……そうかもしれません」

 思い返せば、兄の作業小屋に遊びに行ったときに、抹茶碗に触らせてもらうのとはよくあった。抹茶を頂く機会もあり、そのときに茶碗の回し方などを教えてもらった。

「学び、ですね」

「え?」

「兄がよく言ってたんです。お前も学べよ、と。俺は学校で養蚕を学びましたが、それ自体は役に立ちませんでした。それ以前に、読み書きができなかったんです。読み書きができるようになったことは、帝都ここで生かされています。自分が手紙のやり取りをするなんて、上州にいた頃は信じられませんでした」

「こんなに素敵なお心のお父上様がいらっしゃるなんて、御子息は嬉しいでしょう」

 清兵衛は目を細めて微笑ましそうだが、洸次郎は腑に落ちない。

「息子は……あの世で見守ってくれているでしょうか」

「何を仰います。きっとどこかで生きていると思いますよ。私がモノの記憶を見たときに、そう感じました。あのモノは、跡継ぎを欲しがっていました。簡単に手に掛けるとは、思えません」



 清兵衛の屋敷を出て、何となく上野に向かってしまった。

 いつか野球に興じた球場は、がらんとしている。あのときの賑やかな空気が嘘のようだった。

「あ、洸次郎さん」

「金之助さん」

「懐かしくて、来ちゃいましたよ」

 久々に会った金之助は、やつれていた。

「誉さん、入院したんですって?」

「はい……そうらしいです」

「残念だな。どうでも良い話とか、聞いてほしかったんですが」

 金之助は、苦笑してから溜息をついた。

「あんなに野球が好きだったも、調子が悪くて動けないみたいなんです。俺もちょっと……自分のことで手一杯で」

「俺にできることがありますか?」

「それは、平気です。自分でできますから」

 帰ります、と金之助は、きびすを返した。

「でも、もしもお願いしたいことがあったら、すがっても良いですか?」

「もちろんです」

「ありがとう、洸次郎さん」

 金之助が去ってしまうと、ひょっこりと男児が出てきた。以前にも、遠目から野球を見ていた、育ちの良さような男児だった。

「今日は、やってねえんですよ。残念です」

 洸次郎が言うと、男児はしょぼんと落ち込んだ。シミや皺を知らないふくふくの頰が、行方の知らない息子、愛太郎を思い出させた。

「あんたは、野球が好きですか?」

 洸次郎が訊ねると、男児は大きく頷いた。

「あれは、難しいです。木の棒に小さな球を当てるなんて、俺にはできませんでした。でも、たくさん練習すれば、できるかもしれねえです」

 それを聞いた男児が、目を輝かせた。

「お、練習しますか? 大きくなったら、球を打てると良いですね」

 うん、と男児が満面の笑みで頷いた。

「弥彦ぼっちゃま! 何をなさっているんですか!」

「三島家の者がこんな掃き溜めみたいなところにいてはなりませぬ!」

 男児は、お付の者に抱えられて行ってしまった。

 洸次郎は男児を見送り、空を眺めた。雲の切れ間から、光が差し込んでいた。

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