第60話

 例の絵の鬼女紅葉が、刀を振りかざす。

 みどりの「持ち絵」である子犬二匹が鬼女紅葉の絵にとびかかった隙に、洸次郎は思い立った。

「誉さん、俺があなたを背負います。俺が走りますから、逃げましょう」

「……まだ、やれます」

 洸次郎はかがみ込んで誉を背負おうしたが、誉は筆を手に、帳面を開く。しかし、鬼女紅葉の刀が手元を遅い、筆も帳面も切られた。

 洸次郎は、怒りが湯のように沸騰する感覚をおぼえた。動く絵と絵師のことは、未だによく知らない。それでも、絵が、絵師の商売道具を壊すということが、洸次郎には解せず、責めたくなる。

「お前……っ!」

 近くに木材が落ちていたのを良いことに、洸次郎はそれを拾い、野球のバットのように思い切り振った。

 鬼女紅葉の絵に当たることは、無かった。墨絵の烏が木材を加え、体格からは想像つかない力強さで押し戻す。

「クモさんの……からす?」

 墨絵の烏は、クモの「持ち絵」である鴉だった。

 地面から、勢いよく草が生えてくる。巨大な、鬼灯ほおずきだ。風船のように膨れた鬼灯が割れ、中から人が出てきた。

「誉殿! コウ殿!」

「みどりさん⁉」

「コウよお、お前さんが手を汚すことはないぜ」

「クモさん⁉」

「誉は、格好つけ過ぎ」

「お絹さん⁉」

 みどり、クモ、絹子の三人が、絹子の絵のチカラで駆けつけてくれた。鬼灯の絵は役割を果たし、霧散する。

「誉殿……⁉」

「……みどりさん」

 誉がみどりを見つめ、安堵したように息を吐いて俯いた。力が抜けた誉を、洸次郎が支えて近くの建物の壁にもたれかけさせる。

 絹子は、刀で切られた誉の筆と帳面に目を落とし、眉根を寄せた。

「……おばちゃん、ごめんなさい。あたしは、絵の理に反し誉の筆を折った、おばちゃんの絵が許せない」

 絹子は、みどりとクモと頷き合い、画帳をめくった。

 地面から、また違う巨大植物の絵が生えてくる。

「ハエトリソウ……お願い」

 ハエトリソウの葉にぱっくり挟まれた鬼女紅葉の絵は、すぐに中から割って出てきた。鬼女紅葉を挟み撃ちする形で、すかさず、巨大な鬼灯の絵が二本生えてくる。その鬼灯を割って出てきたのは、みどりが出現させた鬼女紅葉の絵と、クモが出現させた平維盛の絵だった。

 二体の絵に同時に攻撃され、例の鬼女紅葉の絵は霧散した。

 みどりは「暁翠」、クモは「暁雲」の雅号を宙に書き、落款も押して「持ち絵」を帳面に戻した。

 終わった。

 洸次郎が安堵してしまった。

「誉さん、終わりましたよ」

 洸次郎が声をかけると、誉は立ち上がろうとした。

「誉!」

「誉殿!」

「待ってろ。藤田の旦那を呼ぶからな」

 クモはその場で絵を描き、墨絵の馬を出現させた。馬の絵は、いななくように体を反らし、駆け出した途端に姿が見えなくなった。

「……みどりさん」

 誉が蚊の泣くような声で、みどりを呼ぶ。

「……あなたは、自分の力でどこまででも走れます。そのままのみどりさんで生きて下さい」

 誉は浅い息を繰り返しながら喋る。

「……お絹」

「誉、喋っては駄目」

「……あんたは自由だ。好きなことをやりなさい……クモさん、お絹を頼みます……洸次郎さん、いつか信州に遊びに来てくんな」

 誉は、一度面を上げ、力なく微笑んでから、再び俯いた。

 洸次郎達が、誉と直に接した最後であった。

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