第25話

 上州に行くときと同じ宿で、川の字になって泥のように眠った。

 翌日、熊谷駅から汽車に乗り込む。

 向かい合わせの席に、ひとりで座る女がいた。西洋の画帳に鉛筆を走らせ、洸次郎達がいることに気づかない。

「あんたも描くのか」

 クモが画帳を覗き込むと、女が無言で驚いて顔を上げた。

「へえ、草花か」

「兄上、食いつき方! ……申し訳有りませぬ。我々、しがない画家えかきなものでして」

 みどりが謝るが、女は、はあ、と呆気に取られている。

「本物みてえだな。これは蔦か」

 クモが画帳に手を伸ばす。女は、画帳でクモの顔を引っ叩いた。

「怖がっていらっしゃるじゃないですか! 本当に申し訳ありませぬ。兄上は悪気があるわけでは……素敵! お上手ですね!」

「お前も食いついていやがるじゃねえか!」

 ご覧になりますか、と女は、みどりに画帳を渡した。みどりは、女の隣の席に腰かけ、画帳を眺める。

「本物みたい! 色鉛筆も使っていらっしゃるのですね!」

 洸次郎もクモも、黙って向かいの席に座った。

 汽車が動き始めると、洸次郎は眠ってしまった。ふと目が覚めたとき、みどりも、クモも、女も眠っていた。

 上野駅で汽車を降り、女は雑踏に紛れ込んでしまった。

 洸次郎は、ふたりと一緒に、クモの家である根岸大根畑に来てしまった。何も考えなかった。何も考えられなかった。大根畑の家で、時間が経つのも忘れて何日も寝込んだ。みどりは心配して毎日のように通ってきた。クモも、新作の下絵を何回も書き直しながら、洸次郎を気遣って何も訊かない。

 沈黙を破ったのは、鹿島清兵衛だった。

「洸次郎さん! お願いしたいことがあるんです!」

 清兵衛が風呂敷に包んで持ってきたのは、割れた茶碗だった。

「不注意で、妻の宝物を割ってしまったんです。洸次郎さん確か、金継ぎができますよね? お願いします!」

 洸次郎と一緒にモノの記憶を見ていた清兵衛は、洸次郎が兄の新三郎と一緒に作陶していたことや、欠けた陶器の修理も手掛けていたことを知っている。

「繕うことは、できなくはないですが、道具が」

「私が用意します! お金のことも洸次郎は気にしないで!」

「あ、じゃあ、では」

 洸次郎が、金継ぎに必要な道具を書き出すと、清兵衛はとび出していった。

「鹿島屋様は、よほどコウ殿のことを信頼していらっしゃるのですね」

 みどりが、微笑んでいた。この人は、兄に遠慮のない口を利くことはあっても、根本から人を嘲笑することは無い。洸次郎のことも、モノと化してしまった洸次郎の父親の思いも、見下すことは無かった。

「あの、みどりさん、クモさん」

 みどりも、作業をしていたクモも、兄妹似た形の双眸で洸次郎の次の言葉を待つ。

「俺は蕎麦を食べてみてえです。野球をやってみてえです……駄目ですか?」

 みどりとクモの目が輝いた。

「わたくし、少し出て参ります!」

 ぴょこっと、軽い身のこなしで、みどりはどこかへ行ってしまった。

 その日の夕方、みどりは清兵衛の下で働く男に荷車を引いてもらい、戻ってきた。

「妹よ。その荷物は何だ」

「わたくしも一緒に暮らしまする。わたくしだけ通いではつまらぬもの」

「勝手にしろ」

 クモは言い捨て、作業に戻る。

「みどりさん、しばらくお世話になります」

「コウ殿、よろしくお願い致します」

 外では、虫が秋の音を奏でている。上州小塚村で聞き慣れたものと、同じ音だった。

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