恒星船乗りたちの話

@TFR_BIGMOSA

落下と目覚め





 全身が何かに叩きつけられて、意識が戻った。両手と顔を冷たい液体が洗っている。


 


 目を開く、水の刺激を感じる。光は感じない。肺が吸い込み動作を起こそうと暴れ始め、両手で口を塞ぐ。


 


 上はどっちだ?


 


 光が無い。どちらが上か見当もつかない。体を丸め、息を堪える。


 


 上は、水面はどちらだ?


 


 それが判る前に顔面から水が流れ落ちた。


 


 


 呼吸が落ち着き、状況を観察できるようになるまでしばらく掛かった。手足を広げた浮身の姿勢で、細かな波がたつ水面に仰向けに浮かんで夜空を眺めている。


 


 幸いなことに、服には浸水していない。服の外で体を包むのは冷たい、ごく薄い塩水で、流れは無いようだ。涼しい風が一方へ吹き続けている。


 


 頬で感じるくらいの風、たぶん風速は五メートルくらい。しかしどういうわけか、水面には小さな波しか立っていない。


 


 風浪が無いだけでなく、うねりも無いようだ。体が上下する感じが全くしない。


 


 視線を下げて左右に振ってみる。右いっぱいに首を振ると、そのあたりだけ夜空が明るい。水上の灯りに照らされているのか?


 


 水を掻いて体を回転させる。やはり星灯りではない。間違いなく、下のほうが明るい。


 


 そちらへ向かうことにした。ありがたいことに追い風だ。


 


 ほどなくして、行く手の夜空が下側から切り落とされ始めた。灯りひとつない真っ暗な領域がせりあがってくる。


 


 停止し、その領域の形を見定め、耳をすます。


 


 暗い領域の上辺は水平だ。距離も方位も変わる様子はない。つまりその船は漂泊中だ。人間が泳ぐ程度の移動で角度変化がわかるくらいだ、かなり近い。


 


 前進を再開すると、暗い領域の上辺近くが光を少し通していることがわかってきた。


 


 さらに近づくと暗い領域は高さを増し、見上げるほどになった。


 


 


 ざらり。


 


 反射的に手を引っ込め、様子を見る。何も見えないが、目の前で波が何かにぶつかって跳ね返ってくるのが判る。


 


 だが、今手に触れたのは舷側とは思えない。まるで石のような感触だった。


 


 もう一度手を伸ばす。信じられないが、やはり石のような感触だ。手を這わせてみると、大きな石を繋げて舷側を構成しているらしい。


 


 不思議なことに、向こうへ向かって傾斜している。


 


 乾舷の幅が水線よりも、上に行くほど幅が狭くなる奇妙な船かフロートがここにある。しかもその舷側はチタンでもスチールでもなく、石だ。


 


 悩むのを止めて、その舷側に体を引き寄せた。


 


 甲板の上に這い上がった時には息も絶え絶えだった。


 


 仰向けで夜空を見上げる。天候が良いのか、流星が走らない。


 


 現在の経緯はどこだろう?


 


 頭上にオリオン座らしき星の並びがあることに気づいた。ちょうど三ツ星が真上にある。


 


 違和感があったが、天の北極を探してみる。


 


 オリオンが頭上にあるなら、シリウスが水平線近くにあるはず。そこから頭を巡らせれば天の北極が見つかる。


 


 水平線から天の北極までの仰角を測れば、まず緯度がわかる。


 


 まずオリオンの左足と右肩を結ぶ線を心の中で引く。青色巨星リゲルからベテルギウス星雲まで線を引く。


 


 この線を延長してゆけばふたご座を抜けてしし座に至り、シリウスがある。


 


 血の気が引いた気がした。ふたご座が見当たらない。カストルやポルックスとおぼしき明るい星はあるのだがそれ以外の星の並びが理解できない。


 


 しし座も見当たらない。レグルスらしい星は見つけたが、肝心のシリウスが無い。


 


 視線を頭上に戻す。


 


 たぶん私は疲れていて、似た星の並びを読み誤っているのだ。


 


 頭上にあるのはオリオン座ではない。もしあれがオリオン座だとすればアルデバランがおうし座から移動したことになるし、カペラがぎょしゃ座から引っ越したことになる。


 


 そんなはずが無い。そんな事があるわけがない。そんな事はありえない。だから頭上にあるのはオリオン座では無い。ふたご座やしし座が見つからないのも当然だ。


 


 とりあえず現在地の緯度と経度を知るのは諦める。


 


 


 見下ろす水面は、十メートルほど下で星明りを写し込んで鈍く輝いている。水面に映りこんだ星明りが小刻みに揺れている。


 


 水面をしばらく観察してみたが、やはり勘違いではない。水面には魚のウロコのような細波が立っている。


 


 波を見る限りでは、煙を用いないと実感できないような軽風しか吹いていないはず。


 


 けれども掌や頬に感じるほどの風が吹き続けている。これほどの風がある今は水面に白波が見えはじめ、海のどこかから伝わるうねりがあるはず。


 


 けれどそれが無い。足元の石の甲板も全く揺れない。


 


 甲板の縁から五メートルくらい離れたところで石被覆がなくなり、土がある。


 


 人の背丈ほどもある大きな木が石の被覆帯と平行してびっしりと並び、闇に溶け込んで見えなくなるまで続いている。


 


 左右どちらを見ても同じ。少なくとも数百メートルの長さがある壁が石と木で構成されている。


 


 こんな大きな船があっただろうか?


 


 視線を上げると居住区らしき灯が木々のシルエットを浮かび上がらせているが、足元の見えない場所は歩きたくない。


 


 木の並びへ踏み入ることは避けよう。


 


 その必要もない。居住区と船縁を結ぶ通路がどこかで木の並びを貫いているはずだ。


 


 さっきとは違う違和感があったが、良く判らない。


 


 呼吸が整うまで待って立ち上がる。木の並びを左手に見ながら歩き出す。歩きつつ、状況を振り返ってみる。


 


 今、船縁を歩いている。


 


 その前は右手に広がる水面を泳いでいた。その前は水面に漂って状況確認をしていた。


 


 さらにその前は、その前は……。


 


 水面に落下する前は何をしていた?思い出せない。


 


 どこから落ちた?思い出せない。


 


 ここでは無い。この船縁を歩いた記憶は無いが、混乱が治まるまでは自分の記憶はあてにしないことにしよう。


 


 状況を判断する能力はあるようだから。


 


 記憶については居住区へ辿りついて一休みしてから考えよう。


 


 別の船から落ちたのだろう。この船の傾斜した壁から水面に落ちたのであれば、服に摩擦痕があるはずで、そもそもあんなに遠くに落ちることはできない。


 


 とにかく歩くことだ。いかにこの船が大きくても、十分と掛かるまい。


 


 頭上を見上げて、偽オリオンの三ツ星の位置を確認する。位置を知る役には立たないが、時計代わりにはなるだろう。


 


 


 立ち止まる。いい加減、疲れた。何時間くらい、眠っていないのだろう。


 


 夜空はまだ白みもしないが、月が右手に上がってきた。白黒二色に塗り分けられた巨大な月は、半分以上欠けて下側だけが輝いている。月齢は三十六夜から三十八夜と言うあたりか。


 


 違和感が強くなった気がする。夜空がなにか、おかしい。


 


 船縁はまだ尽きない。ただひたすらまっすぐに続いている。いったい誰がどうやって、こんなものを秘密裏に作ったのか。


 


 一番の船主でもこれほどの大船は持たない。そう思い出したところで、その場所と人は思い出せないことに気づいた。ちと混乱しているだけだ。いずれ思い出すだろう。


 


 それより問題は、未だに通路に行き当たらないことだ。


 


 水面に降りるらしい階段はいくつか見つけたが、通路にはまだ行き当たっていない。


 


「三ツ星」がかなり低い位置まで降りている。


 


 星が天頂近くから水平線近くまで降りたのだから、惑星は三百六十度の四分の一近く回転したことになる。


 


 つまり、少なく見ても一日の4分の1くらいは過ぎたことになる。ようするに八時間くらいは経ったことになる。


 


 水面で意識を取り戻してからこのフロートに這い上がり、さらに歩いたり休憩したりした合計が八時間。


 


 もっと短い気がするが、体内時計よりも星の角度を信じることにした。八時間過ぎたことにする。


 


 その半分、四時間歩いたのなら、十数キロメートルは歩いたのではないか。


 


 壁の縁に腰掛けて考えてみる。自然と、今まで右手に見ていた水面に顔が向く。


 


 月が上がってきたのはその方向だ。


 


 月の明暗境界線を二等分する線を思い浮かべてみる。それは光源へ、私の視点からは惑星の影に隠れている太陽へと伸びる線だ。


 


 だが、何かおかしい気がする。私が思い浮かべただけのその線が、細い光の線として見えてきた。光の線が月を二分し下へ向かって伸びてゆく。


 


 混乱しているのだろう。見えているものも信用できない気がしてきた。混乱した心が作り出した虚像にしてはやけにくっきりとしている。


 


 良く見ると、思い浮かべた線とは少し角度がずれているのも気になる。今見えている光の線は、ほぼ鉛直線だ。


 


 もしかして、実在する線なのだろうか?


 


 海面から垂直に立つ、高さ数万キロの塔を考えてみた。どこかでそんなアイディアを見た気がする。惑星の自転と一緒にその塔が回転するとき、最初に惑星の影から出るのは塔の頂上だ。


 


 惑星が自転するにつれて、塔の下の方まで光が当たるようになる。


 


 今見ているように、先端から下に向かって夜明けが走ってゆく。ツジツマは合う。けれど誰がそんな構造物を作ると言うのか。完成する前に破壊されるのがわかり切っている。


 


 やはりあれは虚像だ。いつかどこかで見たアイディアを元にして、心のどこかが作ったものだ。


 


 とにかく、水面の側から日が昇る。そっちが東だ。


 


 木の並びが西。


 


 ということは、船縁は南北へ伸びている。自分は北へ向かって船縁の上を歩いてきた。


 


 いまさら南へ歩きなおすのもばかばかしい。通路の一本も無しにこんなフロートを維持できるはずもない。だが、整備用の通路が居住区から最短距離で通じている保証は無いことに気づいた。


 


 何かの都合で通路が南へ遠回りしていれば、自分は一生懸命に遠ざかっていることになる。


 


 夜明けまでここで休憩してはどうだろう。もうしばらくで夜明けだ、下弦の月が天頂の半ばまで昇っているのだから。


 


 水面も木の並びも静かだ。


 


 けれども危険の有無は判らない。まだ自棄になるには早い。


 


 体力が回復するまで休息するにしても、横になると眠ってしまいそうだ。いや、最初から夜明けを待ってじっとしているべきだったのか。


 


 


 腰を据えてしばらくしてから夜空の一角が黒から青へと薄れ始めた。夜空から降りてきた光の線が指すあたりの少し北が一番明るい。月が薄れてゆく。


 


 とりあえず、そちらが東と言う推測は正しかった。


 


「……!」


 


 急に身を起こしたせいで水面に落ちそうになった。


 


 ここはどこだ?


 


 あの光の線が実在するものだとすれば、軌道エレベータでしかありえない。そして軌道エレベータの方位から日が昇る。ここは赤道に近く、軌道エレベータの西のどこかだ。


 


 だが水は冷たく、風は涼しい。波は静かで、夜空に流星は走らない。これだけの水が一夜で冷えるものでは無い。


 


 ではここは何処だ?


 


 腕を上げ、親指の爪で月の大きさを測る。思い出してきた。月はもっと小さく見えないとおかしい。あんな風に白と黒しか無い事も、輪郭がくっきりと見える事もおかしい。


 


 今私が見ている月は異常に近く、しかも大気も海も持っていない異形の月だ。見たことも無い月だ。


 


 今立っているここは故郷では無いのか?


 


 故郷とは何処だ?


 


 根本的なことを思い出せないことに気づいて、ついで視線が低くなったことに気づいた。私はその場に両手をついていた。


 


 視線の先で、東の空が明るくなってゆく。


 


 やがて赤々と太陽が、大小二つ昇った。


 

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