だから死にたいわけじゃない

雨乃よるる

1

 だからと言って、死にたいわけではなかった。

 電信柱と、蜘蛛の巣が荒らされたみたいな黒い送電線が、夏の日を受ける。

「生きてりゃいいんだよ」

 脂っこい、低い声を反芻する。思い出したくないことほど思い出してしまう。自分が嫌いなものが自分の体に馴染むまで、無理やり刷り込みを続ける。トラウマとか、自傷行為と言われても仕方のないことだし、実際自分を追い詰めている自覚はあった。自分を追い詰めつ行為に酔っているとも言えた。


 声の主は、スクールカウンセラーだった。

 一学期後半から僕は学校に行かなくなり、心配した両親は、どうしてよいかわからず、強制的にカウンセリングへ行かせた。相談室で出迎えたのは、五十くらいのおっさんで、水色のワイシャツがパンパンになるくらいには太っていて、眼鏡をかけていた。

 やけに古い茶色のソファは一部破れて、食欲の失せるような黄色のスポンジがはみ出す。彼は阿曽田といった。

 大丈夫、大丈夫。それが阿曽田の口癖らしかった。僕が特に原因もなく学校に行けていないのだという事を言うと、「大丈夫。生きてりゃいいんだよ」と阿曽田は一人頷き、「あなたの気持ちはどうですか」と訊いた。「気持ちってどういうことですか」「学校に行けなくて、辛いですか? そうでもないですか?」

 気持ちなんてなかった。朝、家から出ようとして、足が動かなくなったので、その場にいただけだ。行けないのだから行けない。不登校なんて珍しくもない。たいていの人が学校に喜んで行きたいとは思わないだろう。それでも行くやつは行くし、どうしても行けない奴は行かない。

 そう説明すると、阿曾田は根拠のない大丈夫を繰り返し、「智和君はどうしたいんですか」と尋ねてくる。

「学校に行ける時は行って、行けないときは行きません」

 どうしたい、というより、これ以外の選択肢はないだろう。

「それで君はいいの?」

 自分の人生を積極的に肯定する奴なんて、一つの教室の中にどれくらいいるのか。

「まあ、いいんじゃないですか」

 阿曽田の質問を適当に流していると、時刻が来て、また来てくださいと太い声を張る阿曽田を、振り返らずに相談室を出た。


 今はその帰り道だ。夏休みにわざわざ電車に乗っていくほどのことは何もなかった。

 家の玄関を開けると、エアコンの冷気が汗まみれの体を冷やす。母が出迎え、僕が学校に行ってきたことをしきりに喜んでいた。別に授業を受けたわけでもなく、いじめに耐えたわけでもない。久しぶりに電車に乗ったというだけだ。

 昼食のインスタントのパスタを食べる。つるつるの麵にドロドロの液体がかかったこの料理が、嘔吐物に似ていると思った。


 自分の部屋でやりもしない問題集を眺めていると眠たくなり、ベッドに倒れこんで寝た。起きると午後五時ごろ。


 スマホから音楽を流す。エレキギターとドラムが正しい位置を刻み、自然に僕の背筋も伸びる。

 まだ明るい外の景色を遮断するためにカーテンを引き、部屋の照明をつける。部屋の入口のドアに目をやり、閉まっていることを確認してから、パソコンを起動させる。スマホの音楽を止め、代わりにパソコンにつないだヘッドフォンをした。


 目の前には、いろんな長さの横棒が不規則に並んだ模様が映し出される。Aメロを何度か聞きなおしてから、キーボードのパートを何度かいじった。次は、Bメロの主旋律を打ち込んでいく。半分は頭の中にすでに浮かんでいたもので、もう半分は作業しながら作っていく。何度も聞きなおして、音と音のぶつかるところを修正する。

 そのうち、すでに完成していたドラムがおかしなリズムであることに気が付いて、そこも直した。少しずつ変化していく曲を聴きながら、何か足りないと考える。

 この曲の核になるような部分が、まだもやもやしている。明るい曲なのか、暗い曲なのか。いや、そんなに単純じゃない。机の上に放りだされたプリントの裏に、何かを言語化しようとメモしてみる。

 歌詞だ。先に歌詞を作ろう。

 メロディになるべく沿うように、でも多少なら気にしない。あとでメロディの方を変えることもできる。


 自分にしか読めない、殴り書きと走り書きで完成した歌詞は、無茶苦茶だった。


 いつの間にか外はすっかり暗くなっていた。カーテンを開けると、遠くのアパートの入り口がぼんやり明るく、そこに一人疲れた会社員が入っていった。

 画面から顔を上げ、蛍光灯の白い光を受ける部屋の壁をぼんやり眺めた。数日後には、学校が始まる。またあの毎日の繰り返しになる。

 どうしても体が動かなくなった時の、焦って心臓が破裂しそうな感覚と、お昼を過ぎて、学校に行くことを諦めたときの腹の底がチリチリと痛む安心感。そしてパソコンに向かって、夜まで曲作りに没頭する。

 何が辛いのかと両親に訊かれたが、何も辛くなかった。強いて言えば、何が辛いのか考えることの方が辛かった。


 嫌な言葉を何度も反芻し、まともな生活を拒否するようにパソコンに向かう僕は、「生きろ」という言葉が嫌いだ。だからといって、今死にたいわけじゃない。学校に行けないときは行かないのと同じように、死んだ方が楽になるなら死ぬ。

 学校に行かなくても、生活が破綻しても、いろいろ言ってくる親や教師がうざくても、毎日のストレスに体がすり減っても、少しいい曲が書ければそれでいい。


 だからこの曲は、明るい曲だ。

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だから死にたいわけじゃない 雨乃よるる @yrrurainy

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